#120 躍動する身体
スタンドでスタートを待つ春奈は、どこか確信めいた笑みを浮かべた。
「みんな、自信を持って走ってますね」
春奈が言うと、ひかるもそれに笑顔で頷く。
「そうだね。過信はいけないけど、今回はみんな良い顔して走ってるよ……あっ」
ひかるが、思わずスタートラインを指差す。春奈は、ひかるが示した方を見つめると思わず息を飲んだ。スタートラインにいち早く陣取った真輝は、殺気さえ感じる表情を浮かべている。
「真輝ちゃん……予選の結果がよっぽど悔しかったんでしょうね」
デッドヒートを制してお互いの健闘を称え合った秋穂と佑莉の後ろから、真輝は汗を拭いながら戻ってきた。春奈は、その表情を正確に読み取れたわけではない。しかし、前を歩く秋穂たちの背中をじっと見つめながら、決して明るくない様子で待機スペースへ戻っていった真輝の姿が春奈の脳裏にじっと焼きついていた。その真輝は、これから走り出す前方を無言でじっと見つめている。
「コハ……」
秋穂は声をかけようとしたが、真輝の表情を見て思わず手を止めた。いつもは春奈の背中を追って、少しふわふわとした感じすらする真輝が、この時は今までに見せたことのないような表情でじっと構えていたからだ。やはり、声をかけようと近づく莉緒や藍を手で制すると、秋穂はふたりに小声で言った。
「ウチらも、決勝に集中しよう。コハルに負けてられんよ」
莉緒たちも無言で頷く。秋穂は、真輝のその小さな背中を見つめて小さく溜息をついた。
(小さい春奈どころか……集中だけなら、もう春奈とそんな変わらんかもしれん。あとは、練習以上の走りが見れ……や、そんなことより自分のことを心配しとかなアカンかな……)
「10秒前」
スターターが、ピストルを持った右手を静かに掲げる。競技場内に緊張が走る。春奈は、スタンドからスタートラインを見つめながら、それを不思議な気分で見つめていた。スタートラインには、春奈と同じ黒のハイソックスとピンク色のシューズを纏った真輝が、ゆっくりとその身体を沈める。
「On your mark...」
じり、という選手たちの足音が、ここまで聞こえてくる。
パァン!
「速い!」
春奈は思わず叫んでいた。秋穂、佑莉が飛び出すよりもさらに一瞬早く、真輝の小さな身体は横一線となった選手たちの先へと進んでゆく。全身の筋肉を躍動させながら、その姿は徐々に距離を広げ、最初のコーナーへと入ってゆく。
(飛ばし過ぎじゃ……このまま突っ込むんか?)
秋穂は首をひねると、思わず並走する佑莉と目が合った。その佑莉も首を傾げたが、すぐに真輝の後ろについた。さらにその後ろから追う沙佳や穂乃香たちとはすでに2秒ほどの差が開いている。
「大丈夫ですかね……コハルちゃんがあんなに飛ばしてるの初めて見たので……」
不安げに見守る舞里奈の方を向くと、春奈はニヤリと笑みを浮かべた。
「心配することないと思うよ」
「?」
「かなりハードな練習の後でも、真輝ちゃん全然息も上がってないからね……それに、予選があってこの本番だから、今ぐらいのペースで行っても最後まで行けるって判断したんじゃないかな?」
春奈は、真輝を指差した。一瞬秋穂たちが追いすがる後ろを向いたが、ペースを落とすどころか、さらにスピードを上げたようにも見える。
「くっ……!」
沙佳は、苦しげに顔を歪めた。春奈が不在のレースなら、どこかに勝機があるのではと1ミリでも思った自分を心の中で責める。春奈の代わりによく似た後ろ姿が先頭を走れば、秋穂に加え800m走から戻ってきた佑莉もブランクを感じさせないどころか、以前よりも力強さが増したようにすら思える。荒い息遣いの中に、思わず苦笑いが浮かんだ。
(バカ……ここは日本で2番目に速い高校……冴島先輩ひとり欠けてたって、そんなすぐ上に行けるはずないのに……わたしの……バカ!)
汗を拭い、後ろを振り向くと小柄な人影がスッと前に出る。同級生の穂乃香も、真輝、秋穂たちに追いつくべくペースを上げていた。穂乃香は、ニヤリとして沙佳を見上げた。入学当時は、妹の友萌香と共に学年トップのタイムを持っていたが、沙佳や恵理子がタイムを伸ばした一方で、姉妹ふたりの記録は伸び悩んでいた。だが、いつまでも沙佳たちの後塵を拝すわけにはいかない。思わず声が出る。
「さーや!」
「何?」
余裕のない沙佳はぶっきらぼうに答えたが、穂乃香は笑みを浮かべたまま続ける。
「今日、勝ったほうが帰りのジュースおごりってことで♪」
「そんなこと言ってる場合じゃ……あっ!」
沙佳が反論する間もなく、穂乃香の小さな身体が前に進んでゆく。
「いいよ、別にさーやが認めなくたって、ほのが勝ったらゴチよろしく。じゃ、お先!」
そう言ってヒュッと前へ出る穂乃香に、思わず舌打ちする。
「もう、待ちな! 先に行かせないよ! っていうか、コハルたちのこと追うよ!!」
当のコハル――こと真輝は、悠然と先頭を進んでゆく。残り2周を切ったところで、真輝はスタンドを見上げた。様子を見守る春奈、ひかるの姿がその目に入る。
(冴島先輩!!)
春奈は、こちらを向いて声援を送っている。その声は、会場の歓声にかき消されて届くことはない。しかし、真輝にはしっかりと春奈の言葉は感じた。
「真輝ちゃん、あと少し粘ろう! ファイト!」
大声を出すと、自らの声が頭に響く。張り上げることはできないが、真輝を見つめながらしっかりと口を開いた。一心不乱に前を向いていた真輝がこちらを見て、大きく頷いたように春奈には見えた。
「行けそうだね、コハル!」
ひかるが頷く。しかし、すぐ後ろにつけた秋穂と佑莉もその背中を捉え続けている。いつ、誰が飛び出してもおかしくない状況だ。そうこうするうちにバックストレッチを抜け、真輝たちはコーナーへと入ってゆく。
思わず、舞里奈がつぶやく。
「これ、誰が勝ってもおかしくないですね……」
その言葉が聞こえたのか、残り1周の鐘が聞こえる直前に秋穂が抜け出す。会場からは、歓声ともどよめきともつかぬ声が上がる。
「佑莉ちゃんと真輝ちゃんは……!?」
秋穂の背中をすぐにふたりが追う。真輝は、佑莉と並んで秋穂を追っている。バックストレッチへ入ると、今度は佑莉が秋穂をかわして先頭に出る。目まぐるしく変わる先頭争いに、歓声が徐々に大きくなる。
――オオオオォ!
真輝は、ふたりに遅れることなくペースを保っている。最終コーナーへ入るタイミングで、3人はふたたび団子状態になるとトラックの内側を進んでいく。最後の直線に入る寸前、春奈は目を見開いた。
(……あれは!)
春奈と同じ、両手を開いて閉じるルーティーンを真輝が繰り返す。すると、秋穂と佑莉の間をぬうように、一気にその小さな身体が先頭へと躍り出る。追いすがるふたりを置き去りにするように、その身体はゴールラインへと向かって勢いを増してゆく。
「やった!」
険しかった表情が、ゴールラインを超えた瞬間にゆるむと真輝は右手を突き上げた。すぐにゴールした秋穂と佑莉が、真輝の肩を抱くように寄り添うと、真輝は両手を上げてふたりに頭を下げた。
「すごいよ、真輝ちゃん! ナイスランだよ!」
見守る春奈も、思わず席を立っていた。3人がこちらを向くと、ひかるたちと一緒に春奈は手を振った。真輝は疲れも見せず、春奈に向かって満面の笑みで応えるのだった。
『秋田学院、貫禄の1-2-3フィニッシュ 新星・石橋が初優勝――秋田県総体』
スポーツ紙の見出しを眺めながら、ジャージ姿の男性がコーヒーを片手に溜息をつく。鹿児島市内にある桜島女子高校の職員室で、同校の監督・城之内真司は思わず苦笑まじりに首を傾げた。
「さすが、才能のある監督さんだ。次かぁ次に選手がいっぺ出てくるだよ……ウチも負けてられん」
見出しの横には、秋穂と佑莉に囲まれて少し恥ずかしそうに賞状を掲げる真輝の写真が掲載されている。城之内は新聞を畳むと、出席簿を手に職員室を出ていった。
「こんた、次の都大路は大変なレースになりそうじゃ」
<To be continued.>




