#118 夢の羅針盤
6限目の授業を終え、春奈は同じクラスの秋穂、愛とともに寮へと戻ってきた。
「階段、大丈夫? もし大変だったら、荷物持つよ?」
「うん、もう大丈夫。これから徐々に身体も慣らして、県駅伝に間に合わせなきゃいけないし」
心配そうな愛の言葉に、春奈は笑顔で返した。秋田に戻ってきて以来、しばらく1階にあるエミーの部屋で生活していたが、この日からようやく本来の居室へと戻れるよう、エミーに荷物を移動してもらっていたのだ。春奈が新たな自分の部屋――206号室へと戻ると、部屋には2年生の城恵理子が待っていた。
「あっ、あれ、恵理子ちゃん?」
「あ、お帰りなさい! 春奈先輩」
笑顔で迎える恵理子に、春奈は首を傾げた。恵理子は去年の部屋子だったが今年は別の部屋へと移り、新たな部屋子は英玲奈のはずだ。春奈は訊ねた。
「英玲奈ちゃんは……どうしたの?」
春奈の言葉に、恵理子は少し表情を曇らせた。
「春奈先輩……それなんですけど」
「うん??」
郊外の住宅街に似つかわしくない高級車が自宅の前に停まっている。JULIAが恐る恐るドアを開けると、中から女性マネージャーが手招きをする。慌ててJULIAが飛び乗ると、高級車は低いエンジン音を轟かせて走り出した。
「スゴイ……車ですね」
「まぁ、MADさん何台もクルマ持ってるし、このぐらいは普通だよね。で、JULIA、準備は出来た? MADさんも時間ないから、手短に済ませられるようにね」
女性マネージャーの言葉に、JULIAは眉をひそめた。
「準備もなにも……言いたいことは決まってるので」
「……ふぅん、あっそう……あたしはJULIAとMADさんが何話したか知らないから別にいいんだけど、くれぐれもMADさんに失礼のないようにね」
面倒くさそうに髪の毛をいじるマネージャーを尻目に、JULIAは自宅から持ってきた雑誌やスクラップの数々を真剣に読み込んでいる。高級車はスピードを上げながら、国道246号線を六本木方面へと走り去って行く。
「え、英玲奈ちゃんが?」
「はい……」
恵理子は複雑な表情を浮かべて、気まずそうに続けた。
「本当は、春奈先輩にもっと技術的なことや、練習の取り組み方とか色々聞きたいことがあるって言うんです。聞いたらいいんじゃない? って言ったんですが、遠慮があるのか、なかなか聞き出せないって……」
話を聞いた春奈もまた、眉間に深々と皺を寄せた。
「同じ部屋なんだから、遠慮しないで聞いてくれたらいいのに……っていうか、英玲奈ちゃんに何か質問ある? って聞いたら大丈夫です、って言ってたんだけど」
「たぶん英玲奈、自分のことより人のことを気にしちゃうからうまく切り出せないんだと思います。春奈先輩、身体がこんな時に申し訳ないんですが……英玲奈とそのあたりの話、してみてもらってもいいですか?」
「うーん……わかった」
英玲奈は部屋へ戻ってくると春奈を見つけて嬉しそうな表情を浮かべていたが、春奈に椅子に座るように促されると驚いたような様子で春奈のことを見た。
「ねえ英玲奈ちゃん……色々聞きたいことがあるんだったら、遠慮しないで聞いてほしいんだ」
「えっ? 全然問題ないっす、今春奈先輩に色々と教えてもらってるので……」
「ホントに?」
春奈は少し疑うように英玲奈の顔を見つめた。いつもとは違う春奈の様子に、英玲奈も驚いたのか椅子ごとじりじりと後ろに下がる。
「わたしが今退院してリハビリしたばっかりだから、色々気を遣ってくれるのは嬉しいんだけど……それで練習に必要なことが聞けないのとか、本末転倒だから」
「い、いえ、別にそんな……」
「ウソ」
春奈はそう言うと、テーブルの上にプリントアウトされた書類をばさりと置いた。
「あ……」
「わたしは、本当に大丈夫だから。一緒の部屋にいてくれるだけで安心だから、わたしのことをそんなに心配しなくても平気。これ……今の時期だったら本当はここまで距離を積めてなきゃいけないんだけど、英玲奈ちゃんは7割……8割ぐらいしか走れてないのね。自分の練習が出来てないんじゃないかって、逆に心配してる……」
春奈は、グラフを指さした。この時点で走り込むべき距離が目安として記されているが、英玲奈の距離ははその目標には及ばない。春奈に問い詰められ、英玲奈は苦笑いを浮かべた。
「自分、困っている人のことを……放っとけないんです。お節介かもしれないって分かってるんですけど……それでも」
春奈は、黙って二度頷いた。
「ありがとう……でも、それで自分のメニューがおろそかになるのもよくないよね。英玲奈ちゃんが自分のメニューをきちんとこなしてタイムがついてくれば、それはチームのためになるってことでもあるんだよ」
「……?」
「気持ちは本当に嬉しいけど、わたしは普段の生活に戻るのが目標じゃない……秋までには、前みたいに走れるようになるのが目標だから。だから英玲奈ちゃんも、自分のタイムを縮めるのを第一に考えてやれるといいんじゃないかな?」
英玲奈は、神妙な面持ちで春奈を見つめてひとつ頷いたが、また少し困り顔を浮かべて春奈に聞いた。
「はい……でも、どんなメニューを組んでいけばいいんでしょうか? 自分、どういうタイプなのかもよく分かってなくて、誰を参考にしたらいいのか……」
英玲奈のその言葉に、春奈の目がキラリと光る。
「よぉーし! そしたら、まず自分がどういう走り方が得意なのか考えてみようよ! それがわかれば、タイプが似てる子のメニューを真似てみてさ……」
久しぶりに陸上のことを考えて、春奈はテンションが上がったようだった。紙を取り出しスラスラとメモ書きをしていく春奈の様子を、英玲奈は呆気に取られながら見つめていた。
JULIAたちを乗せた高級車は、麻布十番にある豪邸へと入っていった。地下にある駐車場から外へ出ると、城と言っても過言ではないほどの門構えがJULIAの目に入る。インターホンには、「MATSUDO」の文字が刻まれている。JULIAは、緊張のあまりゴクリとつばを飲み込んだ。
マネージャーがインターホンを鳴らそうとしたその刹那、扉が開いた。MADは待ち構えていたようで、JULIAたちの姿を見つけて両手を広げた。
「やあ、お疲れ様。JULIA、キミのプランをゆっくりと聞かせてもらうよ」
<To be continued.>




