#115 萌芽
夕方5時を過ぎたトラックは、少し寒いほどの風が吹き付ける以外はしんと静まり返り、部員たちが黙々とウォーミングアップを続けている。スタートライン付近では、1年生との顔合わせを終えた春奈がひかるの隣に座り手元にノートを広げている。
「春奈、痛いとか痺れとかあるようなら無理しなくていいからね」
ひかるが釘を刺すと、春奈はぎこちないながらも笑顔を浮かべた。
「大丈夫です。少しでも……チームの役に立ちたいですから」
新年度を迎えて初めてのチーム内記録会ということもあって、上級生のメンバーたちは粛々と準備を進めている。1年生部員はそわそわしながらも、先輩の様子を窺いながらウォーミングアップを行っていた。すると、
ピッ!
ひかるが短くホイッスルを鳴らすと、部員たちが一斉に集まる。全員が集合したところでひかるは大きく声を張り上げた。
「じゃあ、これから3,000mのチーム記録会を始めます。これは公式な記録会ではないけど、今の自分の実力を正しく測るいい機会です。今は春奈がリハビリに専念していて、春奈だけでなくみんなも心配になることもあると思う。でも、こんな時だからこそ攻めの走りを見せてほしい」
『攻めの走り』という言葉に、部員たちの表情が引き締まる。ひかるの隣で部員たちを見つめる春奈も、ゴクリと喉を鳴らして部員たちの顔を見渡した。真剣な表情を崩さない部員もいれば、これから始まるレースに興奮を隠せないのか、笑みを浮かべる者もいる。初めて見た景色に、春奈は目を見開いた。
(そうか、みんなこんな顔してるんだ……わたしは、いつもどんな顔してるんだろ?)
真輝は、ニコニコしながらスタートラインで飛び跳ねるようにして号砲を待っていた。
「楽しそうだね?」
怜名が不思議そうに訊ねると、真輝は視線をトラックの外にやった。
「だって、春奈先輩が見てるところで初めてのトライアルですから」
真輝の視線の先には、バインダーを広げて部員たちの状況をチェックする春奈の姿があった。忙しなく書類をチェックする春奈は真輝の視線に気づく余裕はないようだが、それでも真輝は笑顔を絶やさない。
「コハル、そういえば春奈とはもう話せたの?」
真輝は少し眉をひそめたが、怜名にキラキラとした笑みを返した。
「実はまだなんです……でも、やっと同じ場所でお会いできるようになったので、春奈先輩……ううん、先輩たちみなさんのいいところを盗んで、もっと頼られるような存在になりたいんです」
そういって、真輝は胸を張った。怜名は少し驚きながらも、真輝を見つめて笑顔を返した。
「それなら良かった。1年生たちが気持ち沈んでたらどうしようかと思ってたから……春奈に、1年生が元気なところを見せてあげようよ」
「はい!」
「じゃあ最初の1組目、そろそろ行きますよー! 用意……」
舞里奈が長い腕を真上に掲げて、耳を塞ぎながらピストルを鳴らす。
パアンッ!
1組目の部員たちが一斉に駆け出す。すると、最初は全員がひとつの塊となり走っていたがすぐに真輝がその集団から抜け出した。
「んんっ?」
春奈やひかるの後ろでカメラ片手に見学していた琴美が、思わず声を上げる。春奈が振り向くと、琴美は目を凝らして先頭の真輝を見つめて言った。
「あの子、少し前の春奈に似てない?」
「うーん? ……そうかな?」
春奈が不思議そうに首をかしげると、ひかるが春奈の方を向く。
「あれ、春奈、コハルのことまだ聞いてない?」
「はい、聞いてないです……小春ちゃんって言うんですか?」
ひかるは思わずズルッとよろめいた。
「や、違う違う……石橋真輝っていって、春奈のことを尊敬してるっていってやまない子。見た目もそうだし、春奈のことを隅から隅まで調べてなりきろうとしてるんだってさ」
「え、そうなんですか? ……なんか恥ずかしいですね……その石橋さん、走る方はどうなんですか?」
なおも不思議そうな顔の春奈に、ひかるはひとつ頷くと真輝のほうを指差した。
「中学の持ちタイムだけなら、今の2年生よりも現時点で速いからね。わたしもきちんとした記録を見るのは初めてだけど、中学の時のベストの動画を見る限りでは、いい線行くんじゃないかな? まぁ、しばらくはちょっと見てみよう」
ひかるがそう言うと、聞こえたかのように真輝はぐいとペースを上げた。
「行った! 速い!」
舞里奈が最後の1周の合図となる鐘を鳴らすと同時に、真輝がスパートを仕掛ける。見守るひかると春奈が思わず声をあげた。すぐ後ろについていた怜名もペースを上げるが、後続の部員たちとは徐々に差が開き始める。
「くっ……コハル、スパートまで春奈みたい……!」
怜名は、春奈のスパートの威力を嫌というほど知っている。その怜名が思わず驚きの声を漏らすほど、真輝のスパートもまた強力だった。最終コーナーに入ろうとするところで、振り向いた真輝と目が合う。
(笑ってる……! そんなところまで春奈とそっくりなの!?)
真輝は笑顔のままぐいぐいとスピードを上げていく。怜名も後ろを振り向くと、その隙を図ったかのように、2年生の松山穂乃香がスッと横を抜けてゆこうと怜名をかわしてゆく。
「そうは……させないんだから!」
1組目は、真輝が9分18秒という好記録でトップとなった。春奈は、気持ちよさそうに汗を拭う真輝と目が合うと笑顔で手を振った。すると、真輝も破顔一笑といった様子でニコニコと笑い頭を下げた。
「強いね……この時期でこれだけ走れているなら、これからも期待できそうだね」
春奈は、手元の資料をパラパラと繰った。
「確かに、1年のこの時期の記録なら、秋穂ちゃんに次ぐぐらいのいいタイムですね」
そういうと、春奈は視線を秋穂に移した。すでに愛たち2組目はスタートしているが、秋穂は主力選手が集まる3組目の出番となっていた。すると、秋穂がトラックに響くような大きな声をあげる。
「集合!」
普段、自ら大きな声を上げて鼓舞することの少ない秋穂があげた声に、思わず春奈は目を丸くした。秋穂は集まった上級生たちの輪に入ると口を開いた。
「もう少しでウチらもスタートだけど、今日は、春奈も戻ってきた。でも、早くて練習再開は7月って言ってる……ひかるさんも言ってたけど、『春奈がいなくてどうしよう』じゃなくて、ウチらはどんどん攻めた走りをしよう。もし、万が一春奈が間に合わなくっても……ウチらだけでも優勝を目指せるように……今日は気合入れていこう。さあ行こう!」
「「オオーイッ!」」
円陣に加わった部員たちから大きな掛け声があがる。ひかると春奈は顔を見合わせると、納得したような様子で大きく頷いた。ひかるは秋穂を頼もしげに見つめた。
(いいじゃん、秋穂……春奈がすぐ試合に復帰できない以上、キミが背中で部員たちを引っ張っていってほしい……)
スタートラインにピンと張り詰めた空気が漂う。思わず、ピストルを構える1年生マネージャーの吉越あおばも緊張した表情を浮かべる。すると、後ろからみるほがやって来てあおばの肩を揉んだ。
「丹羽先輩……!」
「あおちゃん、大丈夫。リラックスして行こう?」
「ハいっ……!」
緊張のあまり、思わず声が裏返た。胸に手を当てながら、あおばは大きな声を張り上げる。
「ソれでは、3組目の先輩方、よろしくお願いシます!! 10秒前でス!」
周囲にも伝わるほどの緊張に、思わずスタートラインの秋穂たちからも笑いがこぼれる。だが、すぐに秋穂は真剣な表情に戻ると春奈の方を向いて大きく頷いた。
(春奈……見とって!)
「行きまス! On your mark!」
パァン!
秋穂や沙佳、そして3年生の柿野佑莉たちが集団となって飛び出す。2年生の間は800mや1,500mなどの中距離に専念していたが、チームでも屈指のスピードをもつ佑莉は、春奈不在のピンチに長距離種目に復帰していた。秋穂と並走する佑莉は、ちらと秋穂を見やると眼鏡の奥の目を光らせて秋穂に語りかけた。
「秋穂ちゃん、勝負やね! 手加減はナシやで!」
佑莉の言葉に、秋穂はやはり嬉しそうに言葉を返した。
「もちろん! 勝負はいつだって全力勝負じゃ!」
あおばがぎこちない手つきで、ラスト1周の鐘を鳴らす。この時点ですでに大きな差をつけている秋穂が、鐘の音とともに一気にスピードを上げる。春奈は手元の時計を見た。タイムはまだ8分に入っていないとわかると、思わずひかるに向かって叫んだ。
「ひかるさん、秋穂ちゃん……8分台行けるかもしれません!」
「この走りなら……ギリギリ行けるかもね!」
秋穂の表情には、余裕があるように見えた。バックストレッチに入ってもスピードは衰えていない。当の秋穂も腕時計のタイムを見ると、大きく頷いて腕の振りを早めた。
(……今はウチが、このチームを引っ張っていくしかない!)
走り終えた部員からも、声援があがる。
「「秋穂! 秋穂! 秋穂! 秋穂!」」
大きな声を出すと痛みが走り、春奈は声をあげることはできない。だが、ホームストレートに戻ってきた秋穂と目が合うと、春奈は拳を突き出して大きく頷いた。
(秋穂ちゃん……行ける!)
ゴールラインを超えたのを確かめて、あおばが声をあげる。
「ハ……8分57!」
「「おおおおお!!」」
歓声があがるのと同時に、秋穂も安堵の笑みを浮かべた。真輝や沙佳たち下級生たちから歓声を送られる秋穂を遠巻きに見つめながら、春奈はひかると頷きあって笑顔を浮かべた。ひかるは、部員たちの健闘に拍手を送りながら確かな手応えを感じていた。
(これなら……ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない……春奈のために、皆が団結して頑張っている……!)
<To be continued.>




