#112 春奈、病室にて
テレビには、春奈に早くから目をかけてきた日本陸連の強化委員長・古瀬稔と、秋田学院の校長で、陸上部の部長を務める岩瀬勲雄、そしてひかるの3人がフラッシュを浴びる姿が映し出されている。臙脂と白のパネルを背にして神妙な面持ちの古瀬たちの表情がアップになると、アナウンサーがニュース原稿を読み始めた。
『日本女子陸上界に、大変心配なニュースが入って参りました。3年後のオリンピック出場も期待されている女子長距離界のホープ、冴島春奈選手が難病のもやもや病を患い、手術を受け現在も入院していることが明らかになりました』
ひかるが1枚の紙を手に取ると、ゆっくりと口を開いた。紙には、春奈からマスコミに向けてのメッセージが記されている。
「『応援してくださるファンの皆様、そして関係者の皆様へ。私、冴島春奈は、度重なる体調不良のため検査を受診したところ、難病指定とされるもやもや病を患っていることがわかり、この度入院し手術を受けることとなりました』――」
春奈は、無言で病室のテレビを眺めている。春奈を囲むようにして、先程見舞いに訪れたマサヨさん、そして卒業生の濱崎一美もテレビを見つつ、春奈の顔を交互に見やっている。すると、マサヨさんがすっと立ち上がり春奈を抱き締めた。
「本当に……なんだってこんなに若い子が、病気で苦しまなくちゃいけないんだ……なぁ春奈……本当によく手術頑張ったよ……」
「ありがとうございます……」
一美も、春奈を見つめる目が潤んでいる。テレビでは、春奈のコメントを代読するひかるの様子が引き続き映し出されている。
「『今の所、練習再開の目処は立っていません。ですが、応援してくださる皆様のために、必ずレースに戻れるようリハビリを頑張ってまいりますので、どうか長い目での応援賜りますよう、よろしくお願いいたします』――」
春奈は、テレビの音量を下げるとふたりを見て頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます。わざわざお見舞いに来ていただけるなんて……って、濱崎先輩、どっどうしたんですか、その…!?」
一美は照れ臭そうに頬を掻いた。金髪にカラコン、耳にはいくつものピアスを下げ、クロのダメージジーンズを履く姿はひと月前の一美の姿からは想像し難い。
「へへっ、これね……高校出たし、とくに学校も行ってないから好きな格好してもいいかな、ってことで……それにしてもマサヨさん、高速飛ばしすぎですって……」
原宿で待ち合わせた一美はマサヨさんのバイクに乗ってやってきたが、東名高速をそれなりのスピードで飛ばすマサヨさんの運転にグロッキー気味だ。マサヨさんが遮るように口を挟む。
「おっと、それ以上はノーコメントだ! 一美、こう見えてもわたしゃ免許取って以来無事故無違反だからね。それよりも春奈、手術してからの具合はどうだい」
春奈は首をかしげ、不安そうな表情を浮かべた。
「手術してすぐにもやもやがなくなるわけじゃないみたいで……まだ、手が痺れたり、足がガクガクしたりは少し……お薬も飲んでいるので、すぐには練習再開は難しいって……それに」
春奈はマサヨさんと一美の方を向くと、側頭部の髪を掻き上げた。
「うっ……!」
思わず、一美が絶句する。髪を剃り上げずには済んだものの、側頭部に残る手術痕が生々しい。春奈は髪を下ろしてため息をついた。
「練習より何より、まずは日常生活に戻れるのかどうか、そこからなので……それが、不安で」
そう言って表情を曇らせる春奈を、マサヨさんと一美は黙って見つめるしかなかった。
寮の一室では、ひかる、エミーと副キャプテンの秋穂と愛、そしてマネージャーのみるほたちが狭い机に膝を突き合わせるように座り頭を悩ませていた。
「そもそも春奈の部屋はいま2階にしてるけど、今の体調で階段の昇り降りは大丈夫なのかな」
「最初は難しいかもね……エレベーターもない建物だし……経過観察もあるから、戻ってきて2週間ぐらいはあたしの部屋で寝起きするのがいいかな。何かあれば、あたしからこっちの病院に連携する。そこからは部屋子のエレナについてもらうから、しばらくは皆で情報共有しながら進めていこう。ね、エレナ」
「押忍! 春奈先輩のこと、自分がしっかりフォローしていくんで大丈夫ッス」
気合の入った意気込みに、部屋の空気が緩む。エレナ・ヤマモト・ラインハートこと、ラインハート英玲奈。イギリス人の父と日本人の母を持つハーフだ。父が空手の師範で厳しい規律のもと育った英玲奈は、その端正な顔立ちと裏腹に体育会系めいた口調が特徴的だ。部屋子でありながら、対面を果たせていない春奈のことを思うと自然と言葉に熱がこもる。ひかるも緊張がほぐれたのか、笑みを浮かべた。
「まあまあエレナ、あんまり気合入れすぎるのも良くないから肩の力は抜いていこう。ただ、同部屋の先輩だから、キミのフォローは大切だ。エレナ、よろしく頼むよ」
英玲奈は白い歯を見せて頷いた。
「押忍!」
「ただいま!」
退院した春奈は、琴美の運転する車を降り、祖母の文美に付き添われながらゆっくりと自宅の玄関へと入ってゆく。玄関に入ってすぐ、2階の自室へ通じる階段を見て春奈はため息をついた。
「これじゃあ、昇れないね……」
昭和中期に建てられた家は造りが古く、階段も傾斜が激しい。未だに長い移動は車椅子、院内でも杖を使って移動していた春奈にとっては、階段の昇り降りはまだ難しい。文美が春奈の肩を叩いた。
「無理をしちゃいけないよ、春奈ちゃん。客間を片付けたから、しばらくはこっちで居たらいいよ」
「おばあちゃん、ありがとう」
いつの間にか庭の桜の木はすっかり花も散り、青々とした葉が目立つようになっていた。代わりに、鮮やかなつつじの花が文美によって整えられた庭の一角を彩っている。春奈は、携帯電話を手にしてしばらくメールをじっと読み耽っていた。
(史織さん……みゆきさん……シラ……天さん……みんなに……会いたいな)
思わず、涙腺が緩む。画面が滲んだその瞬間、着信を示すランプがピカピカと光る。着信元を見て、春奈は思わず目を見開いた。
「ふっ、古瀬先生!?」
<To be continued.>




