#111 フォア・ザ・チーム
授業も終わり、夕方4時を超えたトラックでは女子陸上部の集団走が行われている。入学式を終え、新入生も練習に馴染み始めた4月上旬。列の先頭では、3年生の高島秋穂や2年生の荒畑沙佳たちと並び、比較的小柄な部員が長い髪をポニーテールで束ねて軽快に走っている。ゴールラインを超えたのを確認したチーフマネージャーの丹羽みるほがストップウォッチを止めると、その部員は流れる汗を気持ちよさそうに用意してあったタオルで拭った。
「いいね、コハル。この時期でこれだけのペースで走れるのは、なかなか調子いいんじゃない」
「そうそう、ええんやない? 頑張っとると思うよ」
「ホントですか? ありがとうございます!」
沙佳や秋穂に手放しに称賛された、コハルと呼ばれたその部員――新1年生部員の石橋真輝は、その整った顔をほころばせて喜びを見せた。その髪型もさることながら、流麗なランニングフォームや話しぶりも、どこか既視感を覚える。
「それにしてもコハル、本当に冴島先輩にそっくりだよね?」
「はい、春奈先輩に憧れて、秋田学院に入学したので……へへへ」
秋田学院の不動のエース・冴島春奈に似ていると言われ、真輝は嬉しそうに笑った。沙佳が呼ぶ「コハル」というニックネームは、春奈に似ていることから「小さい春奈」の意味で名付けられたものだ。真輝は笑顔を引き締めると、秋穂たちに答える。
「しっかり走っていないと……春奈先輩が戻ってこられた時に、がっかりされちゃいますし」
真輝の言葉に秋穂と沙佳は顔を見合わせてため息をつくと、どちらからともなくつぶやいた。
「そうだね……春奈も、早く秋田に戻ってこれるといいのだけれど」
「冴島先輩、リハビリ、どんな感じなんでしょうね?」
沙佳の言葉に、秋穂は首を横に振った。
「わからないな……春奈のプレッシャーになってもいけないから、ウチからはあまり深く突っ込んで聞かないようにしてる」
「そうですか……」
夕食を終えた部員たちはそのまま食堂兼多目的ホールへ居残り、着席したまま静かに待っている。部員たちの前に、監督の梁川ひかるが進み出ると、1年生部員の背筋がピン、と伸びる。
「今から、みんなに説明しなくちゃいけないことがあります。――春奈のことです」
春奈、の一言に食後の団らんの時間が一変し、多目的ホールに緊張感が走る。1年生たちを含めた部員の目がひかるに注がれている。ひかるはひとりひとりを見回すと、静かに息を吐いて言葉を発した。
「2・3年生は個別に話を聞いて知ってる人も多いと思うけど、春奈はいま病気を患って、彼女の自宅の近く……横浜の病院に入院しています。もう、1ヶ月以上になるかな……彼女は、3月の15日に手術を受けました。今は術後のリハビリを行っていて、今月下旬に退院する予定になっています」
入院、手術という言葉に、部員たちが息を呑む。1年生部員の中には動揺したのか、手で顔を覆う者もいる。ひかるはその様子を見回して、一瞬次の言葉をためらったように見えたが、厳しい表情のまま続けた。
「手術前、春奈のお母さんが秋田に見えて詳しい話を聞きました。春奈は、脳の病気――10万人に数人しか症例のない難病の手術と治療を受けています。病名は、ウィリス動脈輪閉塞症――」
部員たちからえっ、という声が口々に挙がる。秋穂とともに、チームの副キャプテンを務める瀧原愛が手を挙げた。
「ひかるさん。その……ウイルス性?なんとかっていう病気はどんな……」
ひかるは頷いて続ける。
「ごめん、今から説明する。一般的には、もやもや病という名前で呼ばれている病気です。この病気はね……」
「人間は、脳につながる大きな動脈を2種類持っています。ひとつは椎骨動脈と、もうひとつは内頚動脈。今、春奈さんの脳の中では、この内頚動脈が分岐する部分――終末部と呼ばれる部分が細くなってしまい、脳に必要な血液が送られなくなってしまっています」
MRIの写真を見ながら、春奈は表情を硬くした。そして、医師は脳を指しながら顔をしかめた。
「もやもや病というのは、少なくなってしまった血流を補うために、脳の内部に本来みられない血管が作られてしまう症状をいいます。このように、その血管がもやもやした煙のように見られることから、この病気の名前がついたのです」
春奈は母の琴美と一緒に、無言で説明を受けながら自らの脳の写真をじっと見つめている。医師は言葉を続けた。
「春奈さんがこれから受ける手術はバイパス手術といい、脳に血液が行き渡るように直接血管をつなぐようにする手術です――」
ひかるは、いつもとは異なり淡々と説明を続けた。
「手術は成功して、春奈はもう数日で退院します。けど、退院してすぐ秋田に戻ってくるわけではなく、しばらくは自宅でお母さん、おばあちゃんのもとリハビリへ通うということです。それに……」
部員たちの顔を見回すと、ひかるは沈痛な面持ちでため息をついた。
「春奈が、この後リハビリを続けて競技を続けられるかどうかは誰にも分からない。でも、本人はチームに戻って、優勝を目指したいと言っている。みんなもよく知っている通り、わたしたちがここまで来れたのは――もちろん、みんなの力もあるけれど、春奈の力はとても大きい。わたしは、春奈と一緒に優勝を目指したいし、チームとして春奈をそこまで連れていきたい。みんなには、これから春奈がチームに戻ってリハビリをする上での協力をお願いしたい。自分たちの練習がある中大変だけど、春奈をみんなで支えていこう。オーケー?」
ひかるの問いかけに、部員たちが間髪いれずに応える。
「「はい!!」」
電動ドライバーを手に、トイレで何やら作業を続ける白衣の女性に真輝が不思議そうに声をかける。
「あのー……、エミーさん、何してるんですか?」
「何してる……って、手すりつけてるの。春奈ちゃんが戻ってきた時に、不自由するようなことがあったらいけないからね」
「なるほど! さすがですっ!」
エミーと呼ばれたその女性の答えに、真輝の顔がパァッと明るくなる。大関絵美。20年以上寮長を務めてきたマサヨさんこと樋村雅代の退職に伴い、新たに寮長兼管理栄養士として秋田の地にやってきた女性だ。メガネをずりあげて鼻歌交じりにドリルを操る絵美を、やってきたひかるが頼もしげに見つめた。
「エミー、色々やってもらって助かるよ。さすがだね」
「当たり前でしょ。フォア・ザ・チーム。あたしたちはそれで育ってるはずでしょ、ひかるさん」
エミーはこともなげに答えた。実業団時代にマネージャーと管理栄養士という立場でともに力を尽くし、絶大な信頼を置いていたエミーを、ひかるは頭を下げてマサヨさんの後任として迎え入れたのだ。エミーは続けた。
「あたしはチームのために。チームは、それぞれを思い合って力を尽くす。あたしは、直接走れはしないけど、みんながいい結果を出すために頑張るのが仕事だからね」
胸を張って断言するエミーに、ひかるは笑顔で大きく頷いた。
春奈は、窓の外に見える高速道路を眺めながら日誌を書いていた。秋田学院に入ってから欠かしたことのないこの日誌は、手術当日も朝に書き入れたほどだ。手の甲には点滴の管が刺さったままの姿は、若干痩せたようにも見え痛々しい。すると、病院の駐車場に響く轟音を耳にして春奈は目を凝らした。
(……あれは!?)
ほどなくすると、看護師がカーテンを開いた。
「冴島さーん、お見舞いのお客さんが来られましたよ。大丈夫かな?」
「はい! ……誰だろう?」
カーテンが開かれると、そこには見覚えのある赤いライダースと、髪色がすっかり明るくなり金髪に近くなった若い女性の姿があった。春奈は思わず声を上げた。
「マサヨさん!! 濱崎先輩!? ……イタタッ!」
<To be continued.>




