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#110 輝く日のために

 全国女子高校駅伝が終わってからの日々は、慌ただしく過ぎていった。いつしか秋田学院は一面の雪に包まれ、2月も末になったこの時期でも、広大な校地は束の間の太陽に照らされて白く輝いていた。だが、陸上部が練習を行うトラックは融雪装置のおかげで、鮮やかなブルーの路面をのぞかせていた。


「はあっ、はあっ、はあっ」


 インターバル走を終えた愛の吐息が、白い湯気となって立ち上る。上気して真っ赤な顔を手で扇ぐと着ていたブルーの上着を脱ぎ、ネックウォーマーを外してTシャツ姿になった。


「タッキー、そんな格好で寒うないの?」


「はぁっ、だってさ、寒いけど暑いじゃん、走りおわったばっかなのに、はあっ」


 不思議そうに訊ねる秋穂をジトっと見つめると、愛はため息をついた。


「どれだけ走り込んだら、速くなれるんだろう」


 そう嘆く愛を、秋穂は不思議そうに眺めた。


「そう? でもタッキー、秋以降かなりタイム縮めたじゃろ?」


「そうだけどさ……速くなったって言ったって、まださえじにもほーたんにも全然敵わないよ……さーやたちにもタイム抜かれてるし」


「タッキーはようやっとると思うよ……生徒会長もやりながら、勉強して練習もやろ? 普通やったら手が回らんもん、すごいと思うよ」


 愛は無言で首を横に振った。


「それは言い訳にならないよ。生徒会長はあたしが好きで立候補したんだし、それを言い訳にしてたら怒られるよ……それに」


「それに?」


「一人ひとりが少しずつでもタイム縮めないと優勝できないって……そう思ったし、それに何にも貢献できてないのもさ、悔しくって……」


「そっか……」


 愛は、空を見上げた。雲の切れ間から覗く青い空が眩しく、目を細めると愛はまたひとつため息をついた。すると、


「あ、何かトラックが来とる……」


 秋穂の指差す先には、2トントラックが2台寮の横に停まっている。猫のマークが大きく描かれたトラックからは、作業員が降り立って準備を進めているようだ。


「マサヨさんの引っ越しじゃないかな? もう、明日で最後だって言ってたから」




 2年E組の教室では、秋穂と怜名が放課後も残って話し込んでいた。


「ねぇ秋穂、今から進路指導室行かない?」


「んっ? 何か用事あんの?」


「ほら、秋穂ももう何校か大学の先生来てるでしょ? まだわかんないけど、今のうちにどんな学校なのか見ておこうと思って」


「あ、うん、ええけど」


 年々、有力高校生のスカウティング活動は激しさを増している。特に都大路の経験者は、即戦力として見込まれるため陸上部を持つ大学がこぞって視察に訪れる。秋穂、怜名の元にも、全国の大学そして実業団チームからも担当者が訪れていた。


「秋穂は、どこにしようか決めてるの?」


 怜名の質問に、秋穂は首をかしげた。


「いや、まだ……この前、鹿鳴館の人が会いに来て、昨日は名東の人が来たけど……どこにしようかとかは全然決めとらん…怜名は?」


「日東大の人が来てくれたんだけど、本当は望海大に行きたいんだよね……でも、望海大って今年から基準が厳しくなったみたいで、行けるのかなって」


 望海大学は、箱根駅伝でもその名をよく知られた大学だ。望海大OGの史織を慕う怜名は、史織の勧めもあって望海大への進学を希望するようになったという。進路指導室に入った怜名は、望海大のパンフレットを開いてため息をついた。


「望海大なら平塚だから、実家も近いし。秋田は好きだけど、家に帰れるのって1年で何日もないし、一緒には住んでなくても、やっぱり親の近くにいたいなって……」


「そっか……」


 秋穂は、まだ進路に明確なイメージを持てずにいた。手元にあった秋田学院大学のパンフレットを適当にパラパラとめくると、窓の外を見つめて頬杖をついた。


(進路か……)




 翌朝、土曜日の早朝にも関わらず、寮の前には男女合わせて100人近い陸上部員や、大学に通うOB・OG、教職員が大挙して詰めかけていた。その輪の中心には、真紅の750ccのバイクが停められている。部員たちがバイクをまじまじと眺めていると、そこにいつもの陽気な声が響いた。


「なにジロジロ人のバイクを見てんだい! わたしの愛車なんだ、ほら、どいたどいた」


 ライダースに身を包み、大きなバックパックを背負ったマサヨさんが現れると、部員たちからは歓声が上がった。男子部キャプテンの涼矢と一美がマサヨさんの前に進み出ると、一美が何かをマサヨさんに差し出した。


「花とかは、荷物になっちゃいますから……これ、男子部と女子部の皆で作ったアルバムです。どうか、秋田を離れてもわたしたちのことを忘れないでくださいね」


 それまで饒舌だったマサヨさんは押し黙り、その場で涙を流し始めた。


「もう、ホンットにバカだねアンタたち、うううっ……ここで泣かされちゃ、バイク運転できやしないじゃないか、もう……うう……本当にありがとう、アンタたち。わたしの自慢の子供だよ」


 そう言って頭を下げると、部員たちから割れんばかりの拍手が起こる。自身も高校時代にマサヨさんに世話になったひかるが餞別の品を渡すと、意地悪な笑みを浮かべて訊ねる。


「そういえばマサヨさん、東京に戻ったら今後はどうされるんですか?」


 マサヨさんは照れたように顔を赤らめると、恥ずかしそうにつぶやいた。


「この子らにはまだ言ってなかったね……あの……まぁ…アレだ、結婚するのさ」


「「うおおおおぉ!!」」


「「おめでとうございまーす!」」


 どよめきと歓声が沸き起こる。マサヨさんの照れた笑顔に、部員たちから思わず笑いがこぼれる。


「50近くになってもお互いにひとりだったら、その時は結婚しようってお互いに言ってた相手がいてね……その人と一緒に児童福祉施設の運営をすることになったのさ。施設の子らが、大きくなった時にアンタたちのように夢を抱いて羽ばたけるように……これからも頑張るよ」


「「ありがとうございました!」」


 マサヨさんの言葉に、部員たちは大きな声で応える。マサヨさんは愛車に跨り手をふると、笑顔で秋田学院を去っていった。


「アンタたち、元気で頑張るんだよ! 優勝の知らせを楽しみに待ってるよ!」




『卒業生答辞。国際・スポーツ推進コース、3年E組。濱崎一美』


「はい!」


 一美はゆっくりと壇上に進み、式辞の紙を広げると声をあげた。


「雪に包まれた秋田へとやって来て3年。寒さも少しずつ緩み、春の訪れを待つ今日、わたしたち869名は新たな夢を追い、秋田学院高等学校を卒業します――」


 少し伸びた髪を後ろで結い、まっすぐに腕を伸ばして一美は答辞を読み上げる。一言ずつ噛みしめるように言葉を紡ぐと、一美は毅然と胸を張った。


「わたしたちは、秋田学院の建学の精神である自立・自戒・自走と、3年間の高校生活で得た知識と経験をもとに、これからの人生を力強く、そしてしなやかに切り拓いていきます。どんな困難にも立ち止まることなく、輝く日のために一歩一歩踏み出していきたいと思います。最後に、岩瀬勲雄校長先生と諸先生方のご健康とご多幸、そして、秋田学院高等学校のますますの発展を祈念して、卒業生答辞といたします。平成16年3月1日。卒業生代表、濱崎一美」


 会場の体育館に、大きな拍手が鳴り響いた。




 恵理奈が卒業し、ガランとした部屋で怜名は日誌をつけていた。すると、秋穂がやって来て空いた椅子へ腰掛けた。


「……明日じゃったっけ? …春奈の」


「うん……夕方からって聞いてる」


 携帯電話に届いたメールを眺めながら、怜名は深くため息をついた。


「もちろん、お母さんとお婆ちゃんが傍にいてくれるみたいだけど、やっぱり不安そうだね…3週間ぐらいかかるみたいだから、わたしも小田原帰る時に病院に寄って行こうと思うけど…一美先輩も行くっていってた」


「よろしくね。……春奈もそうだけど、ウチも…不安じゃ」


「うん…わたしも」


「うまくいくことを祈るしかないけどな……春奈…」


 窓際には、入学式の時に撮影した春奈との写真が飾ってある。怜名と秋穂は、写真に笑顔で映る春奈を見てまたひとつ、深い溜め息をこぼした。




「どうしよう、お母さん、おばあちゃん……わたし、怖いよ」


 不安そうに見つめる春奈の手を握ると、琴美と祖母の文美(ふみ)は笑顔で送り出した。


「大丈夫、お母さんもおばあちゃんもここで待ってるから。春奈なら大丈夫。先生方を信じて、安心して行ってらっしゃい」


「春奈ちゃん、大丈夫だよ。お父さんも傍についていてくれるから。おばあちゃんも無事に終わるように、ここでお願いしてるから頑張っておいで…」


「うん……!」


 心細そうに、一筋の涙が頬を伝う。涙を拭って精一杯の笑顔で手を振ると、看護師がストレッチャーを静かに扉の奥へと動かしてゆく。赤く灯った「手術中」のマークに、琴美は険しい表情で文美と頷き合うと、強く文美の手を握りしめた。


(神様、浩太郎くんの次は春奈をどうしようと言うのですか…? お願いです。未来ある子供の命をどうか救ってください。これ以上わたしの大切な人を失いたくありません)




 手術台の上の春奈は、ゆっくりと深呼吸すると看護師の目を見た。目の奥に潜む恐怖は消えてはいない。だが、看護師の呼びかけに深くうなずくと、酸素マスク越しに小さな声でつぶやいた。


「お母さんに、わたし、頑張るからって…伝えてください」


「わかった。じゃあ、お母さんに伝えておくからね。それじゃあ、春奈ちゃん、今から麻酔をして行きますからね。頑張ろうね」


「…はい…!」


 そう言うと春奈は目をゆっくりと瞑り、しばらくするとすっと意識が遠のいていった。




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