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#109 決着はホームストレート

  雨のせいで、気温は10度にも満たず吐く息は白く立ち上るように見える。秋穂は、それなのに握りしめた両手の拳に汗がにじむのを感じた。敵は、前をゆくふたり。大泉女子のアンカー真保梨加(しんぼりか)と、桜島女子のキャプテンまきなの背中は近づいたようで、その差はもどかしいほどに縮まらない。秋穂は、表情を変えぬまま心の中でつぶやいた。


(マッキーナさんと大泉を、せめてこの1キロで捉えなければ…)


 この5区は距離こそ1キロ短いものの、ほぼ1区の裏返し区間だ。最後の1キロを迎えるまでは長い下り坂が続く。最後の平地、そして競技場内でいかに耐え抜くかが勝負の鍵を握る。下りの傾斜が大きくなるのを感じると、秋穂はグッとスピードを上げる。


『先頭の2選手、大泉女子の真保と桜島女子の本田のその後ろ、臙脂のユニフォームがひたひたと迫ってきます。3位の秋田学院、アンカーの高島秋穂がすぐそこに迫る初優勝に向けて先頭を奪おうと懸命に前を追っています!』


「秋穂!」「ほーたん!」「秋穂先輩!」


 競技場で戦況を見守る部員、遠く離れた秋田から声援を送る部員、気持ちは同じだった。全員が拳を握りしめて、表情ひとつ変えずに前を追う秋穂を見つめている。ひかるも部員たちと同じようにじっとビジョンを凝視していたが、ふと空を見つめて口を開いた。


「雨が…止んだ!」


『まもなく1キロを迎えようというところで、秋田学院が先頭に並びます! 大泉女子、桜島女子もペースを上げました! そして、このタイミングで今まで降り続いていた雨がピタリと止み、晴れ間が覗くようになりました。優勝争いはこの3校に絞られたと言っていいでしょう。先頭は三つ巴の状態となっています!』




 病院で戦況を見守る春奈、みるほ、そして岩瀬もテレビの画面に視線をじっと向けている。春奈は視線を上にやると、ガートルにぶら下がる輸液を恨めしそうに見つめた。点滴はまだ終わりそうにない。悔しそうな様子の春奈をみるほが宥めた。


「春奈ちゃん、落ち着いて」


「うん…」


 春奈は、厳しい表情のまま視線をテレビにやると、短く叫んだ。


「秋穂ちゃん…抜ける!」


『ここで高島がペースを更に上げます! 本田は高島についていきますが、大泉の真保はふたりに追随できません! 真保が先頭争いから後退します。先頭は秋田学院、そして桜島女子の2校となりました! 秋田学院の高島、ペースを緩めることなく進んでいきます!』




 寮のテレビに群がる部員たちが歓声をあげた。後方から腕を組んで見守っていたマサヨさんも、思わず乗り出すようにして秋穂を見守る。マサヨさんの脳裏に、寮長として秋田に赴任したばかりの20数年前の光景がよぎった。秋田へやってきたマサヨさんを出迎えたのは、年季の入った一軒家から顔を出したわずか5人の部員たちだった。着々と強化を進めてきた男子に遅れること10年、最低限の人数と施設で女子チームはスタートした。


(あの時、とてもじゃないけど秋田学院が都大路で勝負できるようなチームになるとは思わなかった。だけど、時間をかけてチームは確実に育ってきた…まさか、先頭を走れる日が来るとは思わなかったですよね、ね…校長。…いや、岩瀬監督)


 女子部の創設に尽力し初代監督として根気強く育成を続けてきたのも、その部員たちのケアを任せるためにマサヨさんを秋田へ呼んだのも、若かりし日の岩瀬その人だった。その岩瀬は、思わず立ち上がって声援を送りたい気持ちを堪えていたが、居ても立っても居られない表情でやおら立ち上がると、ネクタイをするりと解いて右手に握りしめた。


「…高島くん! なんとか、このままトップで走り抜いてくれ…きみのそのタスキには、部員たち、教職員、そして秋田学院を愛してくれるすべての人々の思いが籠っている…高島くん!」


 思わず、驚いた様子で春奈とみるほも岩瀬の方を見た。しかし、すぐにふたりも画面を見て手を振り上げる。


「秋穂ちゃん、ファイト! 秋穂ちゃん!」


「行けるよ秋穂ちゃん、頑張れ!」




 下り坂は、永遠に続くようにすら感じた。秋穂は、並走するまきなの表情を覗き見ると、思わずハッとしたような表情を浮かべた。


(…笑ってる!)


 秋穂に気づいたまきなは、そのままの表情でうなずくとペースをあげた。まるで、ついてこいと言わんばかりのまきなに秋穂は一瞬考えを巡らせたが、


(…考えてる暇は…ない!)


 すぐにスピードを上げて、ふたたびまきなの横につく。すると、まきなは一瞬ふっとペースを緩めると、秋穂の視界から消えた。


「!?」


 驚いた秋穂が振り向くと、まきなは秋穂のすぐ後ろにつけている。その表情は、先程から変わることはない。秋穂は口元を歪めた。


(マッキーナさんにペースを…握らせてたまるか!)


 かつて、東日本女子駅伝で神奈川チームの堀内美乃梨(ほりうちみのり)にペースを乱され、その隙に先行されたことを思い出した。つい先程3kmの看板を過ぎたことを思い出すと、秋穂はまきなから視線を切って手元の腕時計を見た。想定タイムから5秒ほど遅れている。オーバーなリアクションをするでもなく、秋穂は静かにペースを上げてゆく。


『先程から桜島女子の本田、秋田学院の高島との間で駆け引きが行われているのか、先頭がこの1キロほどの間に幾度となく入れ替わっています! 後続の大泉女子、さらに続く浪華女子や仙台共和大高の姿は随分離れていますが、先頭のふたりがめまぐるしく入れ替わりながら、残り1.5km先の西京極運動公園陸上競技場を目指しています!』


 


 競技場では、両校の指揮官が鋭い視線でビジョンを凝視している。しかし、まきなと同様に余裕の笑みをうっすら浮かべている城之内とは対象的に、ひかるは両手を組んで険しい表情を崩さない。


「ひかるさん?」


 彩夏が声を掛ける。しかし、ひかるは微動だにしない。


「ひかるさん! ひかるさん?」


「あっ…ああ、すまない」


「今、一美とさーやが戻ってきました。マキレナは多分ゴールの後に戻ってくると思います…春奈は、みるほから連絡があってまだ点滴が終わっていないそうです」


「そうか…一美、さーや!」


 レースを終えた疲れも見せず、一美と沙佳はひかるのすぐ横に腰掛けた。


「高島先輩…このまま行けますかね…」


 期待の表情で見守る沙佳を見て、一美は首をひねった。


「行ければいいんだけど…とはいえ、本田さんがそんな簡単に道を譲ってくれるかな…さくらやニャンブラがいるから目立ってはいないけど、河野さんも本田さんも相当速い人たちだからね」




 一美の声が聴こえたかのように、まきなもすぐに秋穂の横に並ぶ。まきなは、レース前に城之内が発した言葉を幾度となく反芻していた。


「たかが数キロのレースだ。だが、レースはほぼ全員が極限の緊張状態で臨むものだ。一瞬のスキも見せてはいけない。逆に、順位を争う相手に一瞬でもスキがあればそこを狙うんだ。秋田は、ポテンシャルだけなら我々を凌駕するかもしれない。しかし、俺たちには経験という武器がある。いいか、本田。相手の油断を狙うんだ」


 まきなは、そのまますぐ隣の秋穂を再び見た。意識していないのか、あえて見ないようにしているのか、秋穂は目を合わせることはない。まきなは、深く頷いた。


(チャンスは1回…高島さんを離す(チギる)なら、あそこしかない)




 暗雲が立ち込めていたのが嘘のように京都の冬空は晴れ上がり、まばゆい光が雨で濡れた路面を照らしている。先頭を走る秋穂たちの目に、走路員が残り1キロのパネルを掲げるのが見えた。


 ダッ!


 ほぼ同じタイミングでスパートしたふたりの足音が、一気にせわしなくなる。秋穂は沿道に愛の姿を認めると右手を上げたが、その声を聞いている暇はない。まきなと共に平地を勢いよく飛ばしてゆく。


『残り1キロを切り、優勝争いも大詰めを迎えています! 桜島女子のキャプテンで3年生・本田まきなと、秋田学院の2年生・高島秋穂、双方一歩も引きません! 双方かなりのスピードで飛ばしていますが、ペースが衰えることはありません。勝負はこのまま西京極運動公園陸上競技場まで持ち込まれるものと思われます!』


「秋穂ちゃん!」「秋穂!」「秋穂!」


 病院で見守る春奈、スタンドで見守るひかる、そして寮のテレビを見つめるマサヨさんたちがほぼ同じタイミングで秋穂の名を呼んだ。どう転ぶか全く分からない状況に、競技場も次第にざわざわと声があがる。秋穂は、目の前を走る中継車のカメラを一瞬見つめた。


(あと少し、あと少しだけでいい…トップで走り切る力と気合を、ウチに…!)




 ひかるは、ビジョンを眺めながら心臓の鼓動がどんどん速くなるのを感じていた。もし、秋穂がまきなに競り負けたら――そんな考えが脳裏をよぎったことに嫌悪感を感じ、頭を大げさに二度横に振る。居ても立ってもいられず、その場を立つ。すると、同じように立ち上がってビジョンを見つめていた城之内と目が合う。


「あっ…」


 城之内は、いつもの人懐こい笑顔を浮かべると頷いた。ひかるには、それはまるで「気持ちは一緒だから、気にするな」というサインに受け取れた。しかし、城之内は恩義のある指導者としての先達でもあるが、まさに今優勝を争う敵軍の将だ。ひかるは、戸惑いの笑顔を浮かべながら頭を下げた。だが、


 ウオオオオォ!


 その瞬間に競技場は大きなどよめきと歓声に包まれ、ひかるは慌ててビジョンを振り向く。それと同時に、一美の叫び声が耳に入った。


「本田さんがスパートしました! …秋穂は…!」


 映像を見つめるひかるの心臓が恐ろしいほどのスピードで鼓動を打つ。総合公園内に入るそのタイミングで、まきなが一気にラストスパートを仕掛けた。五条通を折れ、京都市体育館を横目に見るその瞬間に秋穂が競技場に一瞬気を取られたのを、まきなは見逃さなかったのだ。


「このっ…!!」


 追う秋穂も一気にスピードを上げるが、まきなとの差は縮まらない。逃げるまきなも、同じように最後の力を振り絞ってスパートを続けている。どよめきの起こる場内で、ひかるは手すりを掴み、大声で叫んだ。


「秋穂! 秋穂!! あと少しだ! 行け! 秋穂!!」


 ひかるの叫びもむなしく、まきなとの差は徐々に開いてゆく。歓声をあげ声援を送る桜島女子のメンバーをよそに、スタンドで見守る一美たちからは、悲鳴にも近い叫び声があがる。


『場内に入りラスト1周、今年も桜島女子がトップを死守しています! アンカーの本田まきなは、昨年優勝の立役者でもある卒業生の川井田莉奈さんの名前を挙げ、川井田さんのように笑顔でゴールテープを切りたいと話していました! しかし、後ろからは秋田学院の高島が懸命に追います!バックストレッチに入り高島もラストスパートの態勢に入った! 場内からはどよめきが起こります!一度開いた本田と高島の差が再び詰まる! その差はわずかに数メートル! さぁ、最後のコーナーを抜けて残すはホームストレートでの勝負です!』


「「秋穂ー!!」」


 場内は異常なほどの歓声に包まれた。追う秋穂がまきなの背後についたその瞬間、まきなの身体がぐいと前に押し出される。


『さぁ残りは20メートル! 本田が逃げる! 追う高島はわずかに及ばないか! 本田は先頭を譲りません! このまま逃げるか! 逃げるか! 逃げ切った! 桜島女子が2連覇達成! 初優勝を狙った秋田学院はわずかに及ばず2位! ですが、昨年8位からの大躍進です! 桜島女子が2年連続4度目の全国制覇、続く秋田学院は秋田県勢過去最高の準優勝となりました!』


 ひかるはゴールラインを超え、崩れ落ちる秋穂の姿を呆然と見つめていたが、ふと我に返ると部員たちに声を掛けた。


「秋穂を…迎えに行こう!」




 まきなを囲んで歓喜に沸く桜島女子の部員たちとの対比は、残酷なほどにくっきりと分かれている。準優勝を飾ったチームと思えないほど、部員たちは悔しさを隠しきれずにいた。残り1キロを切ってまきなに先行を許した秋穂は、膝に手をついたまま部員たちの前で感情を押さえきれなかった。


「うぅっ、ぐうっ、うう、ううううっ…!!」


「秋穂…!」


 駆け寄った一美と沙佳、補欠のメンバーたちも一様に涙を流し、悔しさをあらわにしている。何より、いつでもクールで気丈にふるまう秋穂が慟哭するさまに、恵理子は驚いていた。


「秋穂先輩! …秋穂先輩が泣くことないです! みんな頑張り…」


「恵理子、みんな…ごめん…ウチが抜かれんかったら…優勝は…」


「秋穂!」


 ひかるが駆け寄り、秋穂を抱き寄せる。無言で秋穂の頭を撫でると、ひかるもまた大粒の涙をこぼした。


『準優勝を飾った秋田学院ですが、走り終えたアンカー高島と、レースを見守った梁川監督の目には大粒の涙が溢れています…目標は優勝と公言していた梁川監督と、それを叶えるために全力で走りきった秋田学院ですが、梁川監督と高島の元に涙の部員たちが集まっています…』


 終始レースを追っていた青山が、静かに口を開く。


『去年初めて入賞したチームが2位なんですから、泣くことはないんですよ。アンカーの高島選手もいい走りをしていましたのでね。梁川さんも感情的になることがよくある方ですけど、ここはもっと胸を張って選手たちを労えばいいと思うんですよ』


 独特の言い回しで、青山はひかるを讃えた。




 京都市体育館での閉会式を終え、部員たちは会場の外へと集まった。捲土重来(けんどちょうらい)を期した男子チームも女子同様に2位で終わり、涙こそ止んだものの、悔しさと不甲斐なさに沈むチームを戻ってきた岩瀬が努めて明るい声で励ました。閉会式のタイミングで戻ってきた春奈は、列の最後尾で下を向きながら話を聞いていた。


「皆さん、本当にご苦労様。男子は小林先生、女子は梁川先生という体勢になって初めての都大路で、男女共に素晴らしいレースを見せてくれました。まずはありがとうと言わせてください。もっと胸を張りましょう」


 申し訳無さそうに岩瀬を見つめる春奈を、怜名が見つめている。そして、未だ涙の止まない秋穂の背中をさすると、笑顔を浮かべた。


「秋穂ちゃん、本当に頑張ったよ。みんなでまた来年都大路に来て、来年こそみんなで絶対に優勝しようよ」


「春奈…?」


 春奈は、自らも泣きそうになるのを堪えながら必死に口を開く。


「誰が、とかじゃないんだよ、きっと。わたしもそうだし、皆でもっと速くなって桜島女子に勝とうよ。みんなと一緒なら、絶対にできると思うから…」


 そこまで言うと、春奈も顔を覆った。悔しさをにじませる部員たちの後ろで、つとめて平静を装うひかるもまた、歯を食いしばって堪えていたが、どうにか声を絞り出すように部員たちに声をかけた。


「さぁ、今日は宿舎に戻ってみんなで準優勝のお祝いだ。笑顔で戻ろう!」


 その言葉に、部員たちにもわずかに笑顔が戻る。しゃくりあげる秋穂は、怜名が背中をさすりながらバスへと歩いていった。春奈もその後ろからついて行こうと踵を返したが、足がもつれたのかその場で転んでしまった。


「は、春奈ちゃん、大丈夫!?」


「あ、ごめんごめん、大丈夫だよ」


 みるほが心配そうに声をかけるが、春奈は申し訳無さそうに手を振った。再びその場で立ち上がったが、数歩歩くと再び同じように繰り返し転んでしまう。


「イテテテテッ…!?」


 春奈は、ふと自分の足を見た。立ち上がろうとすると、左足が動かそうともしていないにも関わらず、ガクガクと不規則に震えている。上体を起こそうとするが力の入らない左足がそのまま震え、春奈は地面へ手を突いた。


「なんなの……!!!?」




<To be continued.>

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