#108 大混戦
揺れる救急車の中で、春奈は苦しそうな呻き声をあげる。思わず、恵理子が差し伸べた手をぐっと握ると、恵理子は不安そうな表情で春奈に語りかけた。
「春奈先輩、大丈夫ですよ、もう少しで病院着き…」
ガタン!
「うわぁっ!?」
急な下りに差し掛かり、車内の光景がぐらりとゆれる。恵理子は側面に身体をぶつけ、思わず声をあげた。春奈も表情を歪めて大きなため息を漏らすと、救急車はゆっくりと速度を落として病院の構内へと入っていった。
「到着しました。今からストレッチャーで外に出ますから、しっかり掴まっててくださいね」
救急隊員がそう言ってドアを開け、ストレッチャーを引き出す。今にも泣き出しそうな恵理子と別れ、春奈は処置室へと入っていった。
「う゛っ…」
すぐに点滴の針を手の甲に刺され、春奈は小さく叫び声を上げた。看護師の女性がアイシングの手配を行いつつ、穏やかな声で春奈に語りかける。
「苦しかったよね、ご苦労さま。今から点滴で水分を入れていきますからね、もう安心していいよ。他に苦しい所、痛いところとかはあるかな」
「だいじょぶ…です」
春奈は小さな声で答えると、安心したのか静かに目を瞑った。
『桜島女子の河野が抜け出しました! 後を追う秋田学院の荒畑は少し疲れたか…今、リレーゾーンで待つ4区の2年生・是永伊織にトップでタスキリレーを行っていきます!』
リレーを終えた萌絵と目が合い、怜名は笑顔で一礼すると3区の方向を向いた。歯を食いしばりながら沙佳が迫ってくる。右手に巻きつけたタスキを両手で広げると、目を見開いて叫んだ。
「牧野先輩、ごめんなさい」
怜名は即座に首を横に振ると、笑顔でタスキを受け取った。
「そんなことないよさーや、頑張ったね! 行ってくる!」
手を振りながら去っていく怜名の背中に、沙佳はありったけの声で叫んだ。
「ファイトー!!」
沙佳はそう言って後ろを向くと、驚いて目を見開いた。さっきまである程度差が開いていたはずの仙台共和大高、山川学園、浪華女子そして大泉女子の4校が立て続けにタスキリレーを行っていく。沙佳は、思わずガックリと肩を落とした。
『2位でタスキリレーを行った秋田学院のその後ろすぐに仙台共和大高の早坂、山川学園の苫米地、浪華女子の紺野そして大泉女子の久保がタスキを繋いでいきました! トップの桜島女子から大泉女子まで、わずか10数秒の間に6校がひしめく大混戦です!この4区の状況次第では、大逆転も起こりうる可能性があります!』
「いおりん!」
怜名が声をかけると伊織は振り向いて驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔で頷き前を向いた。序盤しばらく続く上り坂ながら、6秒あった差をすぐに詰めて怜名はトップと並走の態勢に入っていた。小柄なふたりの力走に、降りしきる雨音に混じって温かい声援が飛ぶ。
『秋田学院の牧野、6秒差あった桜島女子の是永伊織に追いつきました! 偶然にもこのふたり、両校の監督それぞれが秘密兵器と評する楽しみな選手です。先日の合同合宿で、同じ3,000メートル障害を得意とするということで意気投合したという是永と牧野です。牧野が147センチ、是永が149センチと身長もお互い小柄ということで共通項も多く、直前のインタビューでは対戦を楽しみにしているというコメントがありましたが――笑っています! 是永も牧野も笑顔を浮かべ、レースを楽しむかのような軽快な走りです』
怜名は緊張も解け、気持ちが高揚するような感覚を覚えていた。プレッシャーがないわけではないが、沿道からの声援や伊織の存在が、そのプレッシャーを忘れさせてくれるように感じていた。すると、怜名は歩道の方を向いてキョロキョロと見回すと、その表情がさらにパアッと明るさを増す。
「お兄!」
『先頭を走ります秋田学院の牧野怜名、ここで沿道に神奈川から応援に駆けつけたご家族の姿を見つけたようで、思わず叫び声を上げました!』
怜名の目には父の雄彦、母の佐和子のほかに、離れて暮らす兄の健太郎の姿が確かに見えた。漁師の健太郎は仕事が忙しく、ここ数年会う機会すら少なかった。その兄が懸命に声援を送る姿に、怜名は左手の拳を高々と掲げた。
(お父さん、お母さん、お兄…わたし、がんばるよ!)
千葉・安房鴨川にある磯貝アスリートクラブのクラブハウスでは、あかりが応接室のテレビの前に腰を下ろしながら、同じくOGの川野淳子と電話で話しながら戦況を見守っていた。
「あかり、怜名なかなかいい調子じゃね?」
「うん…」
「どうしたん?」
浮かない返事の電話口のあかりに、不思議そうに淳子が訊ねる。怜名はもうすぐ1キロを迎えようとしていた。1キロ地点には菜緒がスタンバイしている。
「淳子さ…」
「ん?」
「怜名、これパッと見ペース良さそうに見えるけど、後ろ詰まってきてない?」
あかりの指摘に、淳子は画面に目を凝らすとつぶやいた。
「…確かに」
「マキレナ、3分22! 後ろから共和大とか来とるよ! こっからペースアップな! 行ける行ける!」
菜緒から1キロ地点のタイムを聞くと、怜名は右手を大きく掲げて後ろを振り向いた。スタート直後に一気に伊織を追い上げたが、お互いに牽制するあまり後方への警戒が薄れていたのだ。仙台共和大高の4区を走る小野寺由利子、大泉女子の遠山りつこがふたりを一気に追い上げてくる。
(しまった!)
怜名は、すぐ左を走る伊織を見た。伊織も怜名を見つめてうなずくと、ほとんど同時にスピードを上げる。ここから先は第4中継点まで下りが続く。
『先頭の秋田学院と桜島女子、下りに入るこのポイントでスピードを上げます! 後方から迫る仙台共和大高の小野寺らを振り切るかのごとく、ここで牧野と是永がペースアップしています!』
再び怜名は後方をちらと見やった。迫ってくる由利子たちとの距離は先程よりは開いたように見えた。とはいえ、油断はできない。下りは怜名の得意とするポイントだ。ペースを緩めることなく、怜名は軽快なピッチを刻んでゆく。
(秋穂には絶対にトップで…トップでタスキを渡さないと!)
みるほは、岩瀬とタクシーに同乗し春奈の搬送された病院へと向かっていた。走り出したタクシーの車内で、岩瀬が運転手に声を掛けた。
「NNK第1ラジオをかけてもらえますかな」
レースの様子がスピーカーから聞こえてくる。
『下りに入り、先頭の牧野と是永のペースがまた上がりました! ふたりともアップダウンへの強さが持ち味の選手ですが、後方から他校が迫っていると気づくや、シフトチェンジして再び差を開いているように見えます…』
「一安心ですね」
みるほが言うと、岩瀬は満足そうに2度うなずいた。
「牧野さんは去年このコースを知っているから、少しは安心してもよさそうですね…ところで、丹羽さん」
「はい、なんでしょう?」
突然呼ばれて驚くみるほに、岩瀬は静かに問いかけた。
「もうマネージャーになって1年経ちますね。…活動は充実していますか?」
みるほは、しばらく車窓の外を見つめてからゆっくりと口を開いた。
「そうですね…最初は、もっと速く走れなかったことへの後悔とか不甲斐なさばかり先に立っていて…すごく」
「すごく?」
「…悲しかったですけど、今はチームのために少しでも貢献できてるのかなって少しずつ思えてきて、毎日楽しいです」
生き生きと話すみるほを、岩瀬はにこやかに見つめている。
「ひかるさんと出会えたことも大きかったですし、何よりみんな…たとえば春奈ちゃんに秋穂ちゃん、怜名っち…みんなが力を発揮できるように環境を整えてあげることが、今のわたしの仕事だと思うので」
そう言うと、みるほは岩瀬の方を向き直って言った。
「春奈ちゃんのところへ、急ぎましょう」
実況が、怜名について触れ始める。
『秋田学院の牧野ですが、梁川監督も認めるチーム一の努力家として知られています。練習が終わった後は毎日1時間かけて練習ノートをまとめ、その日の課題と発見を記録、その翌日以降の練習テーマを決めているそうです。その甲斐もあって3,000mのベストタイムは、入学当初の10分04秒から今は9分31秒と大幅に伸びています。念願の都大路を走れるということで、レース前の牧野は緊張しながらも非常にモチベーション高くこのレースに臨んでいるということです』
実況の声が聞こえたかのように、怜名の両足は軽やかにリズムを刻む。冷たい雨に打たれながらも、その雨音も沿道からの歓声も心地のよいものに感じられた。
「脱水症状ですね」
医師の診断を聞いて、春奈は思わず首をかしげた。輸液のために、手の甲に刺された注射針が痛々しい。
「冬に脱水症状…ですか?」
「脱水症状というのは、夏だけのものではないんですよ。皮膚から蒸発して汗をかく不感蒸泄は寒い時期の方が促進される傾向にありますし、冬場はどうしても水分の摂取が少なくなることで脱水症状になることもあります」
「うーん…」
春奈は納得していない表情で医師を見ていた。しかし、脱水症状という診断が出たからには、それ以上医師に聞くことも憚られ、小さくため息をついた。レース中も苦しめられた頭痛は鎮まっていた。看護師に案内され、点滴をしたまま春奈は診察室を出た。休日の外来は静まり返っている。待合室には、テレビを見つめて待っている恵理子の姿があった。
「春奈先輩!」
「ごめんね恵理子ちゃん、心配かけて」
駆け寄る恵理子に、春奈は頭を下げる。看護師はふたりを見て声をかけた。
「点滴が終わったら、声をかけてくださいね。試合が心配でしょうから、それまではテレビつけておきますので」
看護師が戻ると同時に、岩瀬とみるほが駆けつけてきた。
「おぉ、大丈夫かい」
「春奈ちゃん!」
春奈は、申し訳無さそうに3人に頭を下げた。
「ごめんなさい…毎年迷惑をかけてしまって」
みるほは首を振った。
「ううん、みんな春奈ちゃんが一生懸命走ってるの分かってるから大丈夫。それより春奈ちゃん、2区区間賞だよ!」
みるほの言葉に岩瀬、恵理子が拍手を送るが、春奈は小さく頭を下げただけで厳しい表情を崩さない。
「どうしたの?」
「うん…区間賞より、怜名のことが気になって」
春奈がテレビを指差すと、先頭を走る怜名と伊織の後ろにつけている3位集団の姿が徐々に迫ってくるのがわかる。
『再び先頭の桜島女子是永と秋田学院牧野の後ろから、3位集団が迫ってきます。今、大泉女子の1年生・遠山りつこがその集団から抜け出して是永と牧野に接近します! その差は
3メートル、2メートル…今、遠山が2人にならびそのまま追い抜きます! 先頭が代わります! 先頭は初出場の大泉女子、1年生の遠山が先頭を奪っています!』
「…怜名!」
思わず、春奈が叫んだ。競技場で見守るひかるたちにも緊張が走る。ひかるは思わず立ち上がると、落ち着かない様子で腕組みをしてビジョンを見つめている。
(怜名…、あと1キロだ、なんとかここで踏ん張れ…)
春奈たちは、固唾を呑んで戦況を見守っている。すると、みるほの手元の携帯電話が鳴った。みるほは慌てて通話スペースへと歩いていくと、小声で応えた。
「みるほ、春奈はどう?」
秋穂からの電話だった。
「うん、さっき診察終わって、今点滴してもらってるところだよ…代わろうか?」
「いや、大丈夫…春奈に、頑張るからって伝えてほしい…体調が酷くならなくてよかった」
「わかった、伝えとくね…秋穂ちゃんも頑張ってね」
「おう! ありがとう」
電話を終えた秋穂のもとへ、同じ5区を走る桜島女子のキャプテン・まきながやって来て右手を掲げた。
「高島さん! ここまでいい勝負だね。最後、お互いに頑張ろうね」
「マッキーナさん! よろしくお願いします」
秋穂は頭を下げると、固い握手を交わした。中継点のテントにあるモニターが、レースの様子を映し出している。すると、実況の声がにわかに大きくなる。
『残り500メートル、遠山に追いすがるのは桜島女子の是永伊織です! 10秒ほどに開いた差を、是永がぐいぐいと詰めています! 是永と並走していた秋田学院の牧野はやや苦しくなったか…牧野も懸命に追いますが是永との差が開きつつあります!』
「「怜名…!」」
中継点の秋穂も、病院のモニター越しに見つめる春奈も同じように声をあげた。怜名は顔を真っ赤にして懸命に腕を振り出すが、思うように足が前へ出ないのか、苦しげな表情を浮かべて歯を食いしばっている。
(春奈…、秋穂…! みんな…!)
歓声のすぐ後ろから、足音が徐々に大きくなる。一度は離した仙台共和大高や、浪華女子のランナーが追ってきていることを怜名は悟った。今、ここで諦めるわけにはいかない。怜奈は、春奈がいつも見せる爆発的なスパートの映像を頭の中で反芻していた。
(春奈、大変な時に悪いけど、少し怜名ちゃんに力貸してね…!)
「あっ!」
春奈が思わず声をあげた。怜名が、両手を二度三度と閉じては開く様子が映る。それは、自分がスパートするときのルーティーンそのものだ。春奈は確信した。
(怜名…来る!)
『残り200メートル、3位に下がった秋田学院牧野もラストスパートの態勢に入ります! 後方から追い上げる仙台共和大高の小野寺、浪華女子の角樋を引き連れるように、再び前方の遠山、是永を追います! かつて、これほどまでに壮絶な優勝争いがあったでしょうか? わずか10数秒の中に5校が入り乱れる大混戦です!』
短距離でのスピード勝負は苦手だ。だが、そう言っていられる余裕はない。すでに第4中継所には、秋穂の姿が見える。タスキを手に取ると、怜名は両手両足に力を込めた。
「怜名! ラスト!」
そう叫んだ秋穂の横を、トップの大泉女子がリレーしていく。すぐ後ろには伊織がつき、真横で待ち構えるまきなのもとへと駆け込んでいく。秋穂はアームカバーを整えると、長い両腕を大きく振り再び叫ぶ。
「怜名! 怜名! あと少し! ファイト!」
その声に応えてタスキを広げる怜名の顔は、興奮からか真っ赤に染まり涙が滲んでいるようにも見えた。声が届く距離になり、怜名は叫んだ。
「…ごめん! 秋穂、おねがい」
「まかして!」
短く応えた秋穂は、タスキを手に取ると勢いよく飛び出していった。
『さぁ、初優勝を狙う秋田学院は牧野から高島、2年生同士のタスキリレーです! 2位とわずか7秒差の3位でタスキを受け取ったアンカーの高島秋穂、初優勝に向けて前を行く大泉女子と桜島女子を追います!』
<To be continued.>




