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#107 想いをこのタスキに乗せて

 春奈は、一度は離されたニャンブラたちの背中を猛然と追う。思わず先頭の3人が振り向くほどの勢いで、後方から迫っている。そして、並びかけた3人に視線を向けることなく一気に抜き去った。


『速い…!』


 解説の青山が思わずつぶやくほど、その勢いは強烈だ。脇目も振らずに前を向く表情は相変わらず厳しいが、その足取りは再び速さと力強さを増してゆく。アナウンサーが、思わず実況席から立ち上がった。


『先程一瞬失速した冴島ですが、そこからのロングスパートで一気に留学生たちを抜き去りトップを奪い返しました! 先頭は秋田学院の冴島です! 冴島を桜島女子のギタヒ、仙台共和大高のワンジラ、大泉女子のヌデレバ。さらにその後ろから来た山川学園のキプコリルの4人が追う形となっています!』




 春奈との再戦叶わず県大会で散ったライバルたちも、それぞれテレビを通じて戦況を見つめていた。


「天、冴島さんスパートしたよ!」


 部員の声に、携帯電話を眺めていた天が部室のテレビに目線をやる。天の目には、鬼気迫る形相で先頭を走る春奈の姿が映る。しかし、天はすぐに異変に気づいた。


(…冴島さん?)


 その視線は前方を一点に見つめているようで、どこか視点が合っていない。髪を振り乱し、口を大きく開いているため食いしばった歯があらわになっている。何より、その顔は上気しているのか真っ赤に染まっていた。天は、思わず画面の距離を見る。「3.62km」の表示に、天は大きくため息をついた。


(あと500、冴島さん持つかどうか…頑張って!)


酒田国際のシラ、仙台高校の葵といった春奈の実力を知る選手たちも、各々が画面越しに春奈を案じている。




 「ううっ、ううっ、ふううっ」


 苦しげな声を漏らしながら、春奈は走っていた。後方の気配はやや遠ざかったが、走れどもリレーゾーンが見えて来ない。締め付けるような頭の痛みは引く気配がなく、一歩一歩を踏み出すごとにその衝撃が脳天に抜けるようだ。


「ぐっ、ふう」


思わず唸ると、声がこぼれた。支えるものは使命感だけだった。腕も鈍いしびれのような感覚に襲われ、寒さで全身が強張っているように感じられた。口元からは涎がこぼれるが、それを気にしている余裕は春奈にはなかった。


『残り300メートルを切りましたが、先頭の冴島は依然として厳しい表情のままです…足取りはしっかりとしていますが、青山さん、これは冴島の体調に何かあったとみてよいでしょうか――』


 実況席の青山は、呆れ気味につぶやいた。


『何かあったも何も、体調がおかしいのは明白ですよ。あと250メートルですからなんとか走りきってほしいと思いますが、ちょっとこの後が心配ですね』


 アナウンサーは青山の嫌味に少し怯んだようだったが、すぐに続ける。


『冴島、表情が険しさを増しています。残りは約200メートルほどですが、このままトップで走り切ることができるでしょうか? 第2中継所では、1年生の荒畑沙佳が冴島を待ち構えています!』




 中継車が向こうの方に見えると、沙佳はその場で二度飛び跳ね、羽織っていたガウンを脱いで恵理子に手渡した。


「じゃ、行ってくるよ」


「頑張ってね、さーや! 春奈先輩が心配だけど…」


 その言葉に沙佳は目を凝らした。中継車がセンターライン沿いに寄ると、その後ろを走っていた春奈の姿が現れる。だが、離れた位置にいる沙佳にも異変をすぐに感じ取れるほど、春奈のフォームが乱れているのが見えた。


「冴島先輩…!」


 予想よりも深刻であろうその状況を見て、沙佳はゴクリとつばを飲みこんだ。手足をグルグルと回すと、恵理子の肩を叩いて笑みをこぼした。


「ありがと、恵理子。冴島先輩のこと、よろしくね」


「わかった! …ファイトだよ!」


 恵理子に無言でうなずくと、沙佳はリレーゾーンへとゆっくりと歩いていった。


『さぁ、苦しい冴島のその目にも第2中継所は見えてきたでしょう! 秋田学院の冴島が、昨年に続き先頭でのリレーを果たそうとしています…あっと!?』


 アナウンサーが叫ぶ。春奈が胸に掲げていたタスキを取ろうと手を回した瞬間、両手がだらんと垂れ下がった。タスキはかろうじて右手に握っているものの、力の抜けた両手が風雨になびくように揺れている。


「冴島先輩!」


 沙佳が思わず大きな声で叫んだ。その声が届いたのかそうでないのか、苦しそうな表情を歪めて春奈は沙佳の方を向くと、左手でタスキを右腕に巻きつけた。


『後ろの4選手とはおよそ10秒ほどの差になりましたが、ここへ来て冴島限界が来たのか、上体を揺らしながら中継所に迫ってきます! 表情は非常に苦しそうです! 今、3区の荒畑が再び冴島のことを大きな声で呼びました! その声に反応するように冴島、右手に巻きつけたタスキをなんとか両手でピンと伸ばします!』


 春奈は、懸命に両手を突き出した。気を張っていなければ、その両手はすぐにまただらりと力が抜けてしまいそうだ。ゆれる視界に加え、街の喧騒が嫌でも耳に入ってくる。どうにか口を開いて、前方に見える臙脂のユニフォームに大きな声で叫ぶ。


「あぁああ…! あーゃん(さーやちゃん)!」


 その叫び声を聞き、沙佳は心臓がドキリと大きな音を立てたのがわかった。やってくる春奈の顔は、沙佳の知るそれではなかった。思わず、返す言葉も大きくなる。


「冴島先輩! あと少し、あと少しです…冴島先輩!!」


 崩れ落ちる春奈からなんとかタスキを受け取ると、沙佳は右手を掲げて走っていった。


『好タイムを誇る外国人留学生がひしめくこの2区、トップでリレーしたのは秋田学院の絶対的エース冴島春奈です! 秋田学院がこの2区でトップを奪い、3区の1年生・荒畑沙佳にタスキを繋いで行きました! しかし、冴島は体調悪化か、リレーを終えて倒れ込んでしまいました…症状が大変気になります!』




 「春奈…!」


 雨は降り止むことを知らず、どんよりと立ち込めた黒い雲が京都を覆う。大きいガウンを持て余すように着ている怜名は、泣きそうな表情で中継所のモニターを見上げた。恵理子が心配そうに傍で見守る中、救護のスタッフに担ぎ上げられてゆく春奈を見て、怜名は携帯電話を手に取る。


「秋穂、春奈が…」


 秋穂が応答する前に、怜名は口を開いた。秋穂もやはり、中継所のテントに留まりレースを眺めていた。


「気にはなるけど…、ウチらは目の前のレースがある。終わったら、すぐ春奈の所へ行こう。レースに集中できないのは春奈の本意じゃない」


「そうだけど…」


 不安そうな声を漏らす怜名に、秋穂は毅然と応える。


「怜名、今はレースに集中しよう」


「う、うん…」


 タスキリレーの中継が行われている画面の隅では、テントで応急処置を受ける春奈の姿が映し出されている。




「春奈先輩! 春奈先輩…春奈先輩!」 


「はぁ…はぁ…へ…へりお(恵理子)…ゃん…はぁっ」


 恵理子の問いかけに、春奈は明瞭に応えることができない。スポーツドリンクを差し出すが、ひと口ふた口と飲んだだけで首を振って口を離してしまった。傍についた看護師が処置をしていたが、体温計の数値を見ると首を振る。


「冴島さん、この右手。何本出してるか見える?」


「あ…」


 意識が朦朧としているのか、春奈は答えられない。看護師はスタッフへ告げた。


「救急搬送を手配します。到着するまでは、まず脇と鼠径(そけい)部を冷やして、少しずつでも水分を摂らせてあげてください」


 「救急搬送」の言葉に、恵理子は堪えられずに涙がこぼれる。


「春奈先輩…!」




 アナウンサーが叫ぶ。


『早くも先頭に変動があります! 2区をトップでタスキリレーした秋田学院ですが、その後ろから2年ぶりの出場、青森・山川学園が迫ってきます! 2区を3位で通過した山川学園ですが、1年生の苫米地が先頭に並びます!』


「綾音…!」


 沙佳は、綾音を横目で見ると呟いた。身長が170センチ近く大きなストライドで走る沙佳とは対照的に、150センチ少しの小柄な身体でひたひたと迫る綾音は対照的だ。沙佳は前を向くと、振り出す拳に力を込めた。


(綾音…今日は…せめて今日だけは、綾音に負けるわけにはいかない…!)




『先程第2中継所で倒れ込んでしまった秋田学院の冴島ですが、今しがた中継所には救急車が到着し、病院へ救急搬送されたとの情報が入りました。レース中苦しそうな表情を幾度も浮かべた冴島ですが、体調が非常に心配です』


「くそっ! …春奈…」


 思わず、丸めて手に持ったパンフレットで観客席のベンチを叩く。先頭でのレース展開も、ひかるに笑顔はない。中継点にいる部員たちと連絡を取り合っていたが、恵理子からの連絡を受けるとみるほに指示を出した。


「みるほ、キミは岩瀬先生と一緒に病院に向かってほしい。搬送先の病院が決まれば、恵理子から連絡が来るはず。用意だけしておいて」


「わかりました!」


 そう答えるみるほの表情もまた、心配から泣き出しそうな顔をしている。ひかるは携帯電話を握り締めるとグッと下唇を噛んだ。


(春奈も心配だけど、後を走る怜名と秋穂のことも気にかかる…春奈…!)




「お名前、フルネームで言えますか?」


さえいま(冴島)あるな(春奈)…ハァッ」


「誕生日はいつですか?」


ひょうわ(昭和)…62年…いがつ(2月)ゆういちいち(11日)…」


「今日は何日ですか?わかりますか?」


ゆーにがつ(12月)いじゅういにち(22日)…」


 目は救急隊員を追っているが、思うように言葉が出てこない。体温計を見て、救急隊員が春奈を見た。


「あと10分程度で病院に到着しますから、もう少しの我慢です」


 隊員を見上げる春奈の目は焦点が合っておらず、紅潮した顔で力なくため息をこぼした。




『桜島女子の河野萌絵と、浪華女子の紺野まどかも秋田学院と山川学園に追いつきます! これでトップは再び4校の争いとなりました! 集団を牽引するのは秋田学院の荒畑ですが、後方から追い上げてきた河野、紺野も非常にいいペースで進んでいます!』


 長身の沙佳の背後から、萌絵、まどか、そして綾音が迫る。怜名は携帯電話を片手に戦況を見つめていたが、沙佳の後ろにつく3人が飛び出さないことに気づくと、ハッとした表情を浮かべた。


(さーや…風よけに使われてる!)


 身体の大きな選手は、空気抵抗を減らす狙いから小柄な選手の風よけに利用されることが少なくない。振り切ろうとしても、したたかな選手はピッタリと背後について、風よけの選手が疲れたタイミングを見計らって置き去りにするという戦略もある。背の高い沙佳は、嫌でも風よけとしてのターゲットにされやすい。


「さーや…なんとか抜け出せますように…!」


 怜名が画面に向かって祈るように手を合わせると、後ろから肩をたたかれた。


「怜名ちゃん、久しぶりやね!」


「いおりん!」


 怜名に声を掛けたのは、桜島女子の是永伊織(これながいおり)だった。伊織は怜名同様に障害走を得意とする選手で、身長も150センチ足らずと怜名との共通項の非常に多い選手だ。伊織も怜名同様に、4区にエントリーされていた。


「春奈ちゃん、心配やね…大丈夫かな?」


 怜名は首を振った。


「まだどんな状況かはわかんなくて…恵理子が付添で病院に向かってるから、大丈夫だと思うけど…心配だよ」


 伊織も心配そうな表情を浮かべたが、怜名の方へ向き直ると手を差し出した。


「春奈ちゃんのことはウチも心配やけど…この前の合宿ではあんまり一緒に走れなかったから、今日はめっちゃ楽しみにしててん。怜名ちゃん、今日は一緒に頑張ろうな」


 怜名はずっと不安そうな表情を崩さなかったが、伊織の言葉にようやく笑顔を浮かべた。


「おっけ! いおりんとトップ争いしたいから、わたしもがんばるよ」




「さーや! ラス1だよ! ファイトー!」


「ガッツだよさーや! 区間賞とったらモンブラン増量だかんね!」


 予想外の声援に、思わず沙佳は苦笑いを浮かべた。沿道に待ち構えていた穂乃香と友萌香の声に手を上げて応えると、沙佳はペースをぐいっと上げた。


『ここでトップの荒畑が少しペースを上げます! 168センチと非常に背の高い荒畑ですが、吹き付ける風雨もものともせず美しいストライドを刻んでいます。荒畑は、中学は実は山川学園の出身ですが、「より強い自分を見つけたい」との理由から、高校は秋田学院を選んだという経歴の持ち主です。その荒畑、残り800メートルを迎えて後ろの選手を少し離しています! このままのペースで終盤へと持ち込みたい秋田学院の荒畑です――』




 ひかるの携帯が鳴る。メールを見たひかるは、みるほを呼んだ。


「受け入れ先が桂の三葉病院に決まったって。岩瀬先生と一緒に、タクシー拾って向かってくれるかな」


「わかりました! 校長先生と向かいます」


 みるほは、岩瀬に声を掛けると慌ただしく競技場を後にした。ふと、スタンドの後方を見ると部員たちは一様に暗い表情を浮かべている。未経験のトップという状況に、却って部員たちは緊張を隠せない様子だ。加えて、春奈のアクシデントもあり、声援を送るどころではないというのが本音のようだった。


 ひかるは、しばらく思案するとふと声をあげた。


「ねえ、由佳! 由佳、ちょっといいかな?」


「はい!」




 残り500メートルを切り、レースが動き始める。


『500メートルを切ったところで桜島女子の河野萌絵がスパートします! 先頭の秋田学院・荒畑沙佳をかわしてトップに立つと、その差を4メートル、5メートルとつけていきます! 荒畑も今スパートの体勢に入りましたが、河野がやや有利か!』



ライトブルーのジャージからは歓声が、臙脂のジャージからは悲鳴があがる。ひかるは桜島女子の一団へと近づくと、ビジョンを凝視していた城之内のもとへと歩み寄った。


「ご無沙汰しておりますわ、城之内先生」


「やあやあ梁川先生、ここまでいいレースですね」


 白髪まじりの柔和な表情を浮かべ城之内は頭を掻いたが、心配そうな表情を浮かべた。


「冴島さんは…大丈夫ですか? 搬送されたという話まではわたしも聞いているのですが…」


 ひかるは首を横に振った。


「今、病院へ向かっている最中ですので詳しい情報はまだ…この展開で部員たちも緊張しているところですので、あまり悲観的にならなければいいのですが」


 落ち込むひかるに、城之内は秋田学院の一団を指差す。


「でもほら、みんな声を出し始めたみたいですよ。ほら、あそこ」


「あっ」


 城之内の指差す先――スタンドの最前列には、寒空にも関わらず上着を脱ぎ捨て、ビジョンに映る沙佳に声を送る由佳の姿があった。


「レッツゴー・レッツゴー・さーや! レッツゴー・レッツゴー・さーや! いけいけさーや! 速いぞさーや! レッツゴー・レッツゴー」


「「さーや!!」」


 すっかり応援団長が板についた由佳を、ひかるは頼もしげに見つめた。最後の300メートルを切り、沙佳は先行する萌絵に懸命に食らいついている。


(沙佳…なんとかこのポジションで怜名につないで!)




 緊張とプレッシャー、吹き付ける雨の寒さで、怜名は顔色を失っていた。最後のウォーミングアップを終え硬い表情のままガウンを脱ぐと、付き添っていた有希から声を掛けられた。


「牧野さん」


「はい!」


 怜名が険しい状況のまま振り向くと、有希は怜名をそっと抱き寄せて頭をポンポンと撫でた。思わず、怜名の涙腺が緩む。


「有希先輩…」


「去年、わたしが走る時にも牧野さん、目一杯励ましてくれたでしょ? わたしは不甲斐ない走りしかできなかったけど…牧野さん、ううん、怜名ちゃんならできるよ。頑張って走って、高島さんにいいところでタスキ渡してあげよう?」


 有希に抱き寄せられた怜名の顔に、生気が戻る。有希の顔を見ると、怜名は涙を拭ってこう言い切った。


「わかりました…今日は有希先輩の想いも、このタスキに乗せて全力で走ってきます!」


 そう言ってガウンを有希に手渡すと、怜名は降りしきる雨の中を勢いよく飛び出し、大きな声で叫ぶ。


「さーや、ラストだよ! ファイト! さーや、あと少し頑張ろう!」


 


<To be continued.>

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