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#106 静かなる異変

 真っ直ぐ伸びた直線道路のはるか先にそびえる京都の山々から、雨まじりの冷たい風が吹き付け、思わず春奈は顔をしかめた。前をいく留学生たちの背中は徐々に迫ってきている。仙台共和大高のガドゥニ、桜島女子のニャンブラ、浪華女子のマケナ・ムワンギ、そして大泉女子のシルビア・ヌデレバ。強靭なバネを活かしてホップするように走る彼女たちの背後に、春奈はもうピッタリと着こうとしていた。


『さぁ、先程第1中継点では12秒あった差は僅か2秒ほどに縮まってまいりました! 高校陸上界と言わず、この日本女子陸上界の将来を背負って立つ存在といっても過言ではないでしょう。冴島春奈。秋田学院の2年生エースが、もう前をいく4人の留学生に並ぼうとしています! 並んだ、並びました! 冴島が戦闘集団に追いついています!』


「ぐうっ」


 未曾有のハイペースに、思わず表情が歪む。期待に満ちた実況とは裏腹に、春奈の表情は険しいままだ。先程中継所で感じた違和感が未だに残っていた。まるで頭をギリギリと締め付けられるような痛み。見上げると、黒い雲が空を覆っている。大きなため息をつくと、春奈は心のなかで反芻した。


(我慢するしかないか…!)


 その表情をモニター越しに眺めていた青山が声をあげた。


『秋田学院の冴島選手、表情が厳しいままですが大丈夫でしょうかね』


 その声に反応したかのように、春奈は首を横に二度振ると腕に力を込めた。並走する留学生たちは、表情を変えずに淡々とハイペースを刻み続けている。ふと、ニャンブラが春奈の方を向いた。春奈がうなずくと、ニャンブラも少しだけ笑みを浮かべて頷き返した。


『先程険しい表情を浮かべた冴島ですが、今桜島女子のギタヒのアイコンタクトに応えるように笑顔で頷きました! この両校、夏休みには富士見高原で合同合宿を行ったとのことで、冴島もレース前の取材でニャンブラさんには絶対に勝ちたいとコメントしておりました――おっと?』


 アナウンサーが、集団の後方に目をやると叫んだ。


『なんと、集団に合流したのは冴島だけではありません! 冴島のすぐ後ろから追い上げてきた、2年ぶりの都大路となります山川学園のキプコリルもこの集団に合流しようとしています! キプコリルが加わり先頭集団は6人となりました。その中で、秋田学院の冴島がただひとりの日本人選手として奮闘しています!』




「はあっ…!」


 涼子から手渡されたスポーツドリンクを飲み干すと、一美は大きくため息をついた。


「一美先輩…ナイスランでした!」


 感極まったように問いかける涼子に、一美は頭を振った。


「いや…春奈にトップで渡したかったけど、共和大も桜庭さんもみんな速かった…悔しいな…それに」


 一美はテントの外に視線を向けた。紺とピンクのガウンに身を纏った芽里が、やはり一美たちの方を向いていた。一美が歩み寄ろうとすると、芽里は視線を外し遠くへと去っていった。


「…芽里ちゃんですか?」


 一美は無言でうなずくと、力なくつぶやいた。


「多分、何かわたしたちに本当は言いたいこともあるんだろうなとは思う…でも、彼女にとってそれを思い出すのはつらいことだから」


「そうですよね…本当なら今頃、同じユニフォームを着て走ってたかもしれないのに」


 涼子がため息をつく。すると、携帯電話が鳴った。


「お疲れさまです。はい、一美先輩ですね?」


 首をかしげる一美に、涼子が携帯電話を手渡す。


「ひかるさんからです」




 1キロ地点には、伝令として真理がスタンバイしている。よほど寒さが堪えるのかチームのジャージにマフラーと手袋、さらにレインコートという重装備で持ち場で足踏みをしながら春奈の到着を待ちわびていた。


「去年も今年も…寒いな…ウウウッ」

 そう言いながら、手元の携帯電話でテレビ中継を眺める。すると、切り替わった画面を見るや真理は前方に目をやった。


『まもなく先頭集団は1キロを迎えます。6人となった先頭集団を引っ張るのは、秋田学院の冴島です! 今大会屈指の実力を持つ留学生たちを引き連れるように、冴島がこの1キロを先頭で走り抜けようとしています!』


 周囲でも同じようにワンセグ放送に目をやっていた観衆が、臙脂色のジャージを着た真理にも一斉に目を向ける。視線を感じた真理は照れくさそうに観衆に一礼すると、手元の時計と前方に迫る春奈を交互に見た。


「そろそろ…!?」


 タイムを確認した真理が春奈に叫ぼうと口に手をやると、迫ってくる春奈が突然被っていたキャップを取り、真理の方へ放り投げた。真理は慌ててキャップを取ろうと身体を伸ばしたが、放り投げられたキャップは奥にそれて転がってしまった。慌てて体勢を戻すが、春奈は先へと進んで行ってしまった。


「…しまった!」


 真理は思わず膝を叩いた。タイムは、他校の伝令も伝えている。春奈の耳にも届いているだろうと真理は考えたが、キャップを投げてよこした瞬間の表情を思い出すと眉をひそめた。


(春奈、去年残り1キロでもあんな顔しなかったのに…体調が悪いのか…まさか…!)




 寮のテレビの前で固唾を飲んで見守る部員たちも、春奈の異変に気づいていた。


「春奈、今までこんな険しい顔して走ってたことあったっけ…?」


 瞳が美穂に訊ねると、美穂は首を振った。


「ないね…少なくともウチに来てからは見たことないかな…無理してなきゃいいんだけど」


 美穂のその言葉に、部員たちの表情も曇る。すると、アナウンサーが春奈の事を語りだし、瞳たちもじっと耳を傾ける。


『先程からやや厳しい表情の冴島ですが、依然としてペースは安定しています。レース前、冴島に話を聞くことができました。実は秋田学院、チーム創部以来およそ四半世紀に渡って寮長としてチームを支え続けてきた樋村雅代さんが、来年3月一杯で退職をされるそうなんですね』



 突然アナウンサーに名前を読み上げられたマサヨさんは、驚いた様子で画面を見つめた。部員たちも、一斉にマサヨさんを見つめる。その表情は皆寂しげだ。


『部員たちの生活を支えてきた恩人の退職ということで、冴島はじめ選手たちはやはり大きなショックを受けたそうなんですが、冴島たちは「マサヨさんに優勝をプレゼントしたい」と、今日のこのレース非常に意気込んで臨んでいるということです』


 マサヨさんは、無言のままテレビを見つめている。昨日の朝、バスに乗り込む選手たちと言葉を交わした光景が脳裏に蘇っていた。


「マサヨさん、中継見ててくださいね。絶対に優勝してきますから」


「ハハハ、当たり前じゃないか。あんたたちが走るところは1秒足りとも見逃さないよ」




「ひかるさん、すみません、トップでリレーできなくて…」


 そう言って肩を落とす一美に、ひかるは興奮気味に語りかけた。


「何を謝るの? 12秒差なら最高のスタートだよ。一美、よく頑張った。落ち込む必要なんてない。都大路を2度走って、5区区間賞、1区5位で終えられる選手なんてそうそういない、ほんの一握りだ。胸を張ろう。キミは歴史に名前を残したんだ」


「ひかるさん…!」


 一美は一瞬感極まったが、すぐに表情を引き締めるとひかるに訊ねた。


「春奈は…どうなりましたか?」


 ひかるの表情は厳しい。すう、と深呼吸をすると静かに口を開いた。


「ペースは良好。留学生たちの前に立って先頭で走っているけど、ずっと顔色が良くない…体調不良を押して走ってる感じはあるね。リレーまで持ってくれたらいいんだけど…あっ!」


「どうしました?」


「春奈が抜け出したよ」




 コースが右に折れ、北大路通りへと入るタイミングで春奈がスピードを上げる。勢いを増す雨とも重なり、後を追う留学生たちは一瞬たじろいだようにも見えた。


『北大路通りへ入るこの交差点で、冴島が抜け出します! 共和大のワンジラ、桜島女子のギタヒ、そして大泉女子のヌデレバが追いますが、冴島が数メートル前に出ています!』 


 春奈はハイペースをかろうじて保っていたが、寒さもあってか頭の痛みは引くどころか徐々に増しているようにさえ感じた。ズキズキと頭が痛むたび、視界がぐらりと揺れるような感覚に見舞われる。


「ううっ…」


 思わず呻き声が漏れる。痛みのあまり手をやると、スタンドで見守るひかるたちも身を乗り出してビジョンを見つめる。


「大丈夫でしょうか、春奈…」


 彩夏が心配そうに訊ねたが、ひかるは首を横に振った。 


「わからないな…涼子たちから連絡は入ってる?」


 ちょうど、通話を終えたみるほが答えた。


「涼子ちゃんも真理たすも、春奈ちゃんが頭を痛そうにしている様子は見かけたそうです。ただ、本人は大丈夫だと…見る限り脱水症状や低血糖ではなさそうですけど…」


 ひかるは、ビジョンに映し出されているテロップを見た。先頭集団は1.7キロ地点を過ぎた。次の第2中継点まではまだ2キロ強の距離がある。思わず腕組みをして、深くため息をつく。


「春奈…あと2キロ、なんとか頼む…」




 第2中継所では、沙佳が春奈の到着を待ちわびていた。少しだけ伸びた髪を後ろで結いて、ガウンを脱ぐ。と、吹き付ける風の寒さに思わずまたすぐにガウンを羽織ってしまった。


「ううううううううっ…」


「…さーや、大丈夫?」


「いや、ダメかも…アームカバーしていくわ」


 心配そうに見つめる恵理子に、沙佳は思わず首を激しく振った。中学から北国暮らしの沙佳とはいえ、この北風は堪えるようだった。奥歯をガタガタと言わせながら待機用のテントに戻ると、不意に後ろから肩を叩かれた。


「…あっ」


「沙佳、久しぶり」


 ライトブルーのガウンに、黄色で書かれた校名が映える。山川学園のガウンを脱いだ小柄なその選手は、笑顔を浮かべずに沙佳を見つめた。


「綾音…」


 山川学園の3区を走る苫米地綾音(とまべちあやね)は、中学の3年間を沙佳と共に過ごした仲間のひとりだった。だが、沙佳が中学卒業を機に秋田学院へ移って以来連絡は途絶えて久しく、実に9ヶ月ぶりの再会だった。沙佳は、今でも忘れられない。小柄な綾音が、卒業式の日に沙佳を見上げて言ったことを――


「ねぇ、沙佳、どうしても秋田に行くの?」


「…うん」


 山川の寮を去り東京の実家へと戻ろうとする沙佳の前に立ち止まると、綾音は両手を目一杯に広げた。口を真一文字に閉じ、沙佳のことをまっすぐに見つめている。


「今からでも遅くないよ、沙佳。考え直そう? わたしたち、みんなで都大路で優勝目指そうって決めたじゃん? 分かんないよ…何で秋田に行かなきゃいけないの?」


 沙佳は、困った様子で髪を掻き上げた。


「綾音、わたしにも決めたことがあるんだよ…みんなと別れなきゃいけないのも分かってる…ゴメンって思う…でも、今までの自分を変えないと、これ以上成長することはできない。独歩先生もみんなのことも大好きだけど…ゴメン」


「なんで…!? それは山川にいたらできないことなの…? 一緒にもう走れないの? ねぇ…考え直してよ…沙佳」


「綾音…」


 泣き崩れる綾音の前で、沙佳は何も言えずに立ち尽くした。綾音に言えないことも沢山あった。顧問の大河内独歩の指導法に疑問を感じていたことや、両親の方針など――しかし、この場で綾音に理解を求めるのは難しいと沙佳は察していた。綾音の肩に手を置くと、沙佳は静かに口を開いた。


「綾音…わたしは、もっともっと速くなりたい…弱いわたしを変えたい…3年間頑張って絶対に都大路で走れるようになるから、その時は一緒に走ろう…今よりもっと速くなるために…努力してみせるから」




 今目の前にいる綾音は、1年前と変わらないように見える。だが、厳しい練習を詰んでいない訳がない。それは、沙佳とて同じことだった。沙佳のことをじっと見つめる綾音を同じように見つめ返すと、沙佳はあの時と同じように静かに口を開いた。


「綾音…わたしもなんとかここまで来たよ。今日は…一生懸命戦おう。よろしくね」


 綾音は表情を崩さぬまま、深々と頷いた。




 残り1キロに近づいたところで、それまで淡々と実況していたアナウンサーが突如叫ぶ。


『先頭集団に変化があります! 先程までトップを走っていた秋田学院の冴島ですが、じりじりと後方へと下がって行きます…2メートル、3メートルと差が開いて行きます。タスキリレー直後から時折険しい表情を見せていた冴島ですが、残り1キロを迎えるところで少し疲れが見えたでしょうか? 先頭集団から離れていきます!』


「春奈!」


 スタンドで戦況を見つめていたひかるが思わず叫ぶ。春奈の表情は険しさを増し、足取りも重くなっているようにひかるには見えた。同じようにビジョンを眺めていた部員たちから悲鳴のような声が上がる。舞里奈が叫ぶ。


「この1キロは多分3分15ぐらいになると思います…ずっと3分フラットぐらいのペースで来ているので、やっぱり身体に無理が…!」


 舞里奈が叫ぶと同時に、画面の向こうの春奈が両足を拳で二度叩くのが見えた。




 頭痛はより強さを増し、視界が揺らぐほどガンガンと響くような痛みが襲う。目の前にいた留学生たちの背中が少しずつ遠ざかるのを感じた。思わず、春奈は歯ぎしりしようと奥歯に力を込めた。それすら痛みに変わり、春奈は苦悶の声を漏らした。


「うっ…うう」


 握りしめていた手にも力が入らなくなるのを感じた。痛みのあまり、再び春奈が頭に手をやると、側道から大きな声が聞こえた。


「春奈ちゃん、あと1キロ! あと1キロやから、なんとか頑張ろう! 春奈ちゃん! 春奈ちゃん! ファイト!!」


(…佑莉ちゃん!)


 その声に、朦朧とし始めていた意識がはっきりと戻る。必死の形相で呼びかける佑莉に左手を挙げると、春奈は再び正面を向いた。


(あと1キロ…なら、後悔したくない! …まだ行ける!)


 力強い眼差しで、遠ざかった留学生の背中を見据える。春奈は両手を何度か開いて閉じるを繰り返すと、両手両足に力を込めた。


(ひかるさん、一美先輩、マサヨさん、みんな…行きます!)


 何かに突き動かされるように、春奈の身体は前方へと押し出される。


『少し差の開いた冴島、沿道に待機していた2年生・柿野佑莉の声が聞こえたか、ペースが蘇りました! いや、先程までとは比較にならないほど力強い足取りにも見えます! 先を行く留学生たちとの差は5秒ほど、今秋田学院の冴島春奈が再びスパートの体勢に入り、先頭を奪い返そうと猛追しています!』




<To be continued.>

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