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#103 最後の1枚

「はっ、春奈先輩、起きてください! 早く!」


 慌てた様子の恵理子の声で、春奈は目を覚ました。大きく伸びをして声のほうを振り向くと、恵理子は窓の外を指差した。


「見てください、皆もうアップ始めてますよ!?」


「…えっ?」


 ロフトベッドを下りて寮のベランダに出ると、思わず春奈は目を疑った。まだ時間は朝の5時過ぎだというのに、すでにアップを始めている部員たちがいる。春奈は、思わず苦笑いしてつぶやいた。


「性格が出るね…みんな、朝から頑張ってるね」


「つまり、あの人たちって…」


 恵理子に問われて、春奈はうなずいた。


「そうだね。多分、きょう走るんだと思う、あの4人」




 部員たちは学校から少し離れた一ツ森公園へ集まっていた。ひかるがやって来ると、みな一斉に姿勢を正す。挨拶を終えて、ひかるは髪を束ねると切り出した。


「今日は、この一ツ森公園で4区のメンバーを選考します。距離は4キロ。起伏の多いコースなので、トラックではなくロードを走ってもらおうと思う。今日走るメンバーも、悔いが残らないように全力でチカラを出し切ろう。じゃあ、走る人は前に出てきてくれるかな」


「あっ…!」


 春奈は、思わず目を見開いた。昨年、惜しくもインフルエンザで都大路を欠場した卒業生の住吉真衣(すみよしまい)に代わり4区を走った有希。そして、有希に惜しくも競り負けたものの、この1年で障害走に活路を見出し、記録を伸ばしてきた怜名。そのふたりに続いて立ち上がった部員を見て、部員たちからは驚きの声が上がる。進級してからしばらくの間アキレス腱炎のリハビリに専念していた和田垣美穂(わだがきみほ)と、1年生の高橋凛花(たかはしりんか)の姿がそこにはあった。


「美穂!」


 同じ2年生部員から、美穂へ激励の声が飛ぶ。そして、その後ろから歩いてくる凜花を見て春奈はあることに気づき、隣に座る恵理子に声を掛けた。


「凜花ちゃん、ここ最近顔つきが変わったと思わない?」


 恵理子は、春奈の言葉に頷いた。


「入学してから、ストレスもあって少し体重が増えたみたいなんですが、ひかるさんが細かく指示を出してベストに戻したって言ってました。練習メニューもひかるさんのおかげで、最初から4区狙いで頑張ってきたそうです」


 昨年の東日本女子駅伝の時に見た、どこか頼りなさそうな凜花の姿はない。この半年近く、ひかると二人三脚で生活の中のルーティーンからひとつひとつ改めてきた。大一番に臨む凜花の目は鋭くコースを見つめていた。


(凜花ちゃん…がんばれ!)




 スタートまであと3分もない中、ウォーミングアップを行っていた怜名が、ふと春奈に駆け寄ると目の前でピタリと止まった。


「?」


 春奈が不思議そうな表情を浮かべると、俯いている怜名は無言で手を前に伸ばす。


「怜名、どしたの?」


 春奈の言葉に、ようやく怜名は顔を上げた。が、下唇をぐっと噛み締め、目は涙で潤んでいる。伸ばした手をそのままに、春奈を凝視する。


「ぎゅーして」


「ぎゅーして?」


「だから、ぎゅーして」


 怜名の鼻の頭が赤く染まる。春奈はうなずくと、怜名のか細い身体を抱きしめた。身体は、小刻みに震えていた。春奈は静かに頭を撫でると言った。


「ごめんね怜名、気づかなくて…緊張してたんだね。大丈夫。この1年やってきたこと、結果を信じて。きっと、怜名ならいい走りができるから…一緒に都大路に行こう?」


 その言葉に、背中の震えが大きくなる。怜名は、そのまま二度うんうんと頷くと春奈を見上げた。涙でべしゃべしゃになった顔を拭うと、涙声で春奈に訊ねる。


「今日みんなに勝っだら、…春奈と一緒に走れる?…グスッ」


「うん! …だから、この後のレース、応援してるから頑張ろ?」


「グスッ…わがっだ」


 べしゃべしゃな顔のまま怜名は答えた。しかし、スタートまでもう1分しかない。怜名は懐からタオルハンカチを取り出すと乱暴に顔を拭い、頬を二度叩いて気合を入れ直した。




 スタートラインには、もう有希、美穂、凜花の3人がスタンバイしている。怜名が並ぶと、有希は優しく微笑み前を向いた。美穂と凜花は、緊張からかすでに前方を凝視したまま表情が強張っているように見える。怜名は、一呼吸置くと前を向いた。泣いたおかげか、緊張は先程より随分と和らいだように感じた。普段のトラックと違い、今回は1周2キロのコースを2周回るロードレースだ。ちらりと横を見ると、春奈がこちらをじっと見つめている。


「がんばれ!」


 春奈の声に、怜名は大きく頷いた。スタートラインには、舞里奈がスターターピストルを小脇に抱えている。


「10秒前! …On Your Mark!」


 朝から吹いていた風が一瞬止み、静寂が訪れる。


 パァン!!


 4人が、一斉にスタートラインを越えてゆく。有希と怜名が並走するすぐ後ろに美穂、凜花が続いていく。すぐに小さくなってゆく背中に向かって、春奈は声を張り上げた。


「ファイトー!!」




 東北地方とはいえ、気温の高い日はまだ蒸し暑さが残る。生憎この日は早朝から真夏を思わせる強い日差しが照りつける。怜名は、ちらりと横を向いた。汗をかきやすいという有希は、すでに頬が紅潮して何度か手で汗を拭う仕草を見せた。前方に視線を戻すと、ゆるやかな下り坂に入っていくのが見える。


(…行っちゃうか? 行っちゃおう!)


 怜名は、下りを利用してスピードを上げた。下り坂には自信を持っている。前回の都大路では体重移動に苦戦した有希と違い、スムーズに体重移動をすることができるため下り坂も苦にしないのが怜名の持ち味だ。平地に戻り、一瞬顔を後ろに向ける。有希は、やや後ろに下がったのが見えた。しかし、予想もしない顔がすぐ傍に迫っていることに気づき、怜名は目を見開いた。


「…美穂!?」


「やっほ♪」


 美穂は、いたずらな笑みを浮かべた。足の不調に悩まされてきた美穂は、これまでの3,000mのベストも12分台と、部員の中でもかなり遅い部類に入る。しかし、3ヶ月間のリハビリで足の状態もほぼ完治したとみえ、怜名と遜色ないペースで進んでいる。コース沿いには、愛と真理が待ち構えている。ふたりを見つけた美穂が手をあげると、愛は思わず大声で叫んだ。


「美穂、いいペースだよ! ファイト!」


「美穂、行っけー!」


 真理も、愛につられて叫んだ。美穂がふたりを見つけて笑みを漏らす一方で、怜名は思わず複雑な表情を浮かべた。


(美穂が、どのぐらいまでこのペースで来るのか…それに、有希先輩も…?)




「美穂が?」


 コースの途中で涼子と戦況を見守っていた秋穂から電話を受けると、春奈は思わず聞き返した。春奈も、美穂がここまでのペースで飛ばすとは想定していなかったのだ。


「それで、怜名はどんな感じ?」


 秋穂は悩ましそうに首をひねった。


「わかんないな…ちょっと、美穂のペースに驚いてペースをつかめてない気がする。とはいても、最終的にはやっぱり有希先輩が上げてくると思うから、そこまで我慢できればいいんだけど」


 秋穂の話に、春奈は怜名を案ずるように空を見上げた。


「そっか…怜名、ちょっと不安定だったから落ち着いて行ければいいんだけど」




 遠くから、歓声が聞こえる。春奈の目にも戻ってきたランナーたちの姿が見えるようになってきた。目を細めて凝視すると、春奈は笑顔を浮かべた。


「怜名、オッケー! いいよいいよ!」


 声を張り上げる。怜名は笑みを浮かべて右手をあげると、あっという間に走り去っていった。美穂の追い上げにも惑わず、怜名は先頭をキープしたままスタート地点へと戻ってきた。しかし、そのわずか数秒間隔で有希、美穂、凜花が並ぶように走っている。有希には怜名を凌ぐスピードがある。前回のメンバー選考でも、最後は有希がかわし怜名は数秒の差に泣いた。


(どうする…?)


 走りながら、怜名は悩んでいた。まだ半分を残す状況だが、後ろとは僅差だ。数秒以内の差であれば、有希には最後のスパートがある。短い距離での勝負は不利だ。怜名は、一瞬振り向く。美穂と凜花は、5,000mの記録を持っていない。だとすると――


(秋穂、こういう時は我慢だよね? 我慢我慢我慢…)


 勝負に熱くなりがちな自分を戒めるように、怜名は反芻した。




 ひかるは、ポイントにいる部員たちからのメールを順繰りに眺めていた。一通り目を通すと、携帯電話をパタンと畳んでため息をつき、ベンチにもたれかかった。


「ふぅっ」


「どうですか?」


 舞里奈が聞くと、顔だけを舞里奈の方に向けて口を開いた。


「凜花がちょっとだけ遅れたみたいだけど、4人でまだ並走してるみたいだよ。どうかな…このまま行けば、最後の100メートルで有希がスパートするだろうからそれで決まりそうな気は…」


 そこまで言うと、手元の携帯電話がけたたましく鳴る。


「はい。んっ? あ、本当に? 了解。報告ありがとう」


 手短に電話を切ると、ひかるは立ち上がった。


「下りで、怜名がスパートしたって」


「おお!!」




 距離は、残りわずかとは言い難い。ゴールに至るまではまだそれなりにかかる。だが、ラスト100mの勝負には持ち込みたくなかった。怜名にとってロングスパートは初めての経験だが、有希との差をつけるにはこのタイミングの勝負しかなかった。


「ぐっ」


 有希が思わず苦しげな声をあげる。少しずつ距離の開いていく怜名の背中を見て、思わず口元を歪めた。


(もしかして、牧野さんに…読まれてた?)


 昨年の選考レースでの残像が脳裏をよぎる。ホームストレートに入る直前でスパートし、なんとか怜名をかわしたことを、おそらく怜名も鮮明に覚えていたのだろう。勝ちパターンを封じられた有希は懸命に後を追おうとするが、思うようにスピードが上がらない。


「…負けない…!」


 焦りとは裏腹に、重くなる足取りが歯がゆい。




 「れなー!!」


 ずっとゴール地点に控えていた春奈は、ゴール前200mの地点にやって来ていた。大きく手招きするように腕を振る。汗が滝のようにつたい、白い肌が真っ赤に染まって見えるほどだが、怜名は安定したペースを刻み続けている。春奈が大きく手を振るのが見えると、怜名はグッとスピードを上げた。後ろからは、有希もペースを上げてきている。そのすぐ後ろには美穂、凜花の姿も見える。差は大きく開くことはなく、4人はそのままゴールへと突き進んでゆく。


(…あと少し! 待っててね、春奈!)


 体力はとっくに限界を越えていた。息は上がり、鈍い筋肉痛が足を襲う。だが、歩を止めるわけにはいかない。


「「マキレナ! マキレナ! マキレナ! マキレナ!」」


 ゴールへ戻ってきた佑莉や涼子が声援を送る。怜名は振り向いて、有希との差が開いているのを確かめると歯を食いしばって最後の力でスピードを上げた。


「怜名先輩、14分24!」


 舞里奈の声に、部員たちから驚きの声が上がる。想定されていたタイムを上回るペースでゴールすると、怜名は2年生たちの輪の中へと戻っていった。


「おめでとう!」


 春奈も、その輪の中へと戻ってくる。疲労のあまりへたりこんでしまった怜名はその声に顔を上げると、顔を拭っていたタオルを掲げてようやく笑顔を見せた。


「やったー!!」


 疲労を浮かべながら、その表情には都大路への最後の切符を勝ち取った喜びと、走りきった満足感が滲んでいた。




<To be continued.>

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