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#102 意志ある所に道は開ける

 寮の玄関を出て、トラックへと向かう部員たちの表情にいつものような笑顔はない。一様にピリピリとした空気に包まれ、無言のままウォーミングアップを始める。部員たちの後から現れたひかるも、バインダーとストップウォッチを手にいつもより厳しい顔つきでゆっくりとトラックへと向かってゆく。すると、春奈はストレッチだけを済ませるとトラックの外にあるベンチへと腰掛けた。そこへ、一美と秋穂もやって来て春奈の隣へと座った。


「すごい…空気ですね」


 その様子をじっと見つめながら、春奈がつぶやくと一美も頷く。


「そりゃあそうでしょ…初めてチャンスが巡ってきた子もいるしさ、にこやかにはいられないよね」


 一美の言葉に深く頷き、秋穂は珍しく日中も掛けたままの眼鏡をずりあげた。座ったままの3人をよそに、他の部員たちは慌ただしくアップをこなしてゆく。




 数日前の放課後のことだ。授業を終えた春奈たちが寮へと戻ってくると、入口には仁王立ちになって部員たちを待ち構えるひかるの姿があった。


「ひっ…!!」


「…お帰り」


 いつものように、明るく声をかけるひかるの姿ではない。春奈はただならぬ気配を感じ、おそるおそる声をかけた。


「あっ、あの、ひかるさん、どうしたんで…」


 春奈が言い終わる前に、ひかるは無言で右手をぐっと振り上げると親指で後方を指した。


「4時から、多目的ホールでミーティングやるから。着替えて準備しといで」


 ひかるは表情を変えず、淡々と声を発する。いつものように寮へと戻ってくる部員たちは、ひかるの殺気を察してかそそくさと中へと入っていく。春奈も、思わず声を上ずらせて叫ぶと、慌てて寮の中へと駆け込んでいった。


「はっ、はいーーっ!!」



「みんな揃ったかな、始めるよ」


 ひかるがマイク越しに話し始めると、みるほたちがホールのカーテンを引き灯りを消す。ホールには、プロジェクターに映し出されたパソコンの画面のみが煌々と照らされている。


「お疲れ様です。今日はまぁ、これから12月の都大路に向けて駅伝シーズンが始まっていくわけだけど、その駅伝に出場するためのメンバーの選出について説明したいと思います。じゃあ、みるほ、画面の操作よろしくね」


 『メンバーの選出』という言葉に、緊張が走る。授業直後のミーティングでくたびれた様子の部員たちも、全員背筋を伸ばしてひかるの方を向いた。ひかるは、指示棒を取り出すとスクリーンを二度指した。


「去年までなら、選抜チームという制度があったと思うの。選考レースに出場できるのは、この選抜チームに入っているメンバーだけだった。でも、今年は少しやり方を変えようと思うんだ。次の画面よろしく」


 みるほが次のスライドを映すと、ホールにどよ、と部員たちの声が響く。スライドには、5区間の駅伝を現した図が書かれており、それぞれの区間に顔写真が浮かんでいる。


「…!」


 部員たちにどよめきが起こる。ひかるは、スライドを見ながら声をあげた。


「今回は、本当に本気で優勝を狙います。そのために、この3人は欠かせないというのはみんなもわかってくれると思う。1区、一美。2区、春奈。そして、5区秋穂。選考レースでは、残る3・4区のふたりと、当日補欠に入ってもらう3人。5人を選びます。出場資格はなし。走りたいと思ったら、選考レースに出てくれればいい。持ちタイムは関係ない。この半年、キミたちはそれぞれに目的意識を持って取り組んできたと思う。まずはその成果を見せてほしい」


 そこまで言うと、ひかるは手元のバインダーを大仰に閉じて部員たちを見回した。


「意志ある所に道は開ける。都大路で走りたいという意地を、この選考レースにぶつけてほしい」




 すでに時計は午後6時半を回り、9月の空は暗くなり始めている。春奈は、スタートラインをじっと見つめた。3区と4区、それぞれ別日で選考が行われる。今日は、3区のメンバーを先行するための部内レースだ。トラック12周半。5,000mを走りきり、トップでゴールした部員が3区のメンバーに選ばれる。


「3,000じゃなくて、5,000走るんだね」


 春奈がつぶやくと秋穂はむむ、と口をへの字に曲げた。


「ひかるさんが言うように、しんから優勝狙うんじゃったら3,000じゃ足りんじゃろ。3区の子が5,000をしっかりスピードに乗って走れて、初めて4区以降で勝ち目が見えるんやないかな」


 スタートまで1分を切った。かつての選抜チームの選考でも経験したことがないほど、トラックは緊張感に包まれていた。一美が思わず唾をゴクリと飲み込む音が春奈たちにも聞こえるほど、皆が無言で最後のルーティーンをこなしてゆく。3区の選考には、なんと12人が名乗りをあげている。


「ふうっ」


 沙佳は、周囲を見回した。すぐ隣には、同部屋の菜緒がスタンバイしている。最終学年になって調子を取り戻し、自己新記録をマークしている菜緒はこの12人の中でも最有力候補と言える。


「芳野先輩…」


 菜緒は気づくと、ニヤリと白い歯を見せた。


「さーや…真剣勝負や。お手柔らかに頼むで?」


 そういって差し出した左手を、沙佳はぐっと強く握り返した。


「もちろんです!」


 沙佳も笑みを浮かべた。とはいえ、ライバルは菜緒だけではない。同じく自己ベストを更新している3年生の加藤夏海(かとうなつみ)や、東北総体で一時は春奈を追い抜く走りを見せた真理。穂乃香と友萌香の松山姉妹に、地道に距離を重ねてきた恵理子。思わず、沙佳は胸の奥がギュッとなるような痛みを覚えた。しかし、気持ちで負けてはいられない。不安な心持ちを隠すように、沙佳は前方を鋭く睨みつけると歯を食いしばった。


(…負けるもんか! 昨日の自分に、山川のメンバーに、そして…ここにいるライバルたちに!)


 スタートラインのすぐ横に待っていた彩夏が叫ぶ。


「10秒前!」


 その声が、夜のトラックに響き渡る。12人のランナーが、静かにスタートラインへ歩を進める。トレードマークの臙脂ではなく、蛍光イエローのプラクティスシャツをまとったランナーは夜の景色に一際目立つ。春奈たちは、無言でランナーたちを見つめている。


「On Your Mark」


 彩夏は、叫ぶと同時に右手に持った電子式のスターターピストルをかざす。12人が一斉に足を下げると、ずざ、という音が聞こえてくる。


パァン!


 ピストルが一瞬発光すると同時に鳴り、部員たちは一斉に駆け出す。誰ひとり遅れることなく、横一線に飛び出した部員たちは我先にと最初のコーナーへと吸い込まれていく。


「ハマ先輩、誰が行くと思います?」


 秋穂が一美に訊ねたが、一美は大きく首をかしげた。


「わっかんないな…タイムだけ見れば菜緒だろうけど、さーやは最近調子いいからね。もしかしたら最後までもつれる気がする」


 そう一美が部員たちを見つめると、春奈が突然声を上げた。


「…選べない」


「「えっ?」」


 春奈は、体育座りで膝に顔を埋めて呟いた。


「わかんないし、誰がなんて選べないよ…みんな、チャンスに賭けて最後の追い込み頑張ってきたから…みんなに勝ってほしいけど、だれか一人なんて…難しいよ」


 複雑な表情で見つめる春奈の背中を、秋穂がポンと叩いた。


「?」


「そうじゃの…誰が選ばれてほしいなんてウチらが決められんし…それに案外、本当に最後の最後までもつれるかもしらんの」


 そう言って秋穂は集団の先頭を指さした。2周目に入ろうというタイミングで、菜緒と真理が集団を率い、その後ろから友萌香がふたりに迫ろうと距離を縮めている。




 (ゆめが来た…?)


 内心、菜緒は首をひねった。いつもお互いをペースメーカーのようにして同じリズムで走る穂乃香と友萌香だが、今日はどうやら勝手が違うようだ。双子の妹で、ショートカットを尻尾のように結んでいる――友萌香が、菜緒と真理の間に割って入る。並走するかと思いきや、友萌香はペースを落とさずそのままふたりを抜き去った。菜緒はちらと横を見た。真理と目が合うと、お互いにアイコンタクトを交わした。


(どうする?)


 真理は、小さく首を横に振った。


(ほのは、ペースを崩していません。…途中でタレてしまう気がします)


 真理は、後ろを見やった。穂乃香は、真理たちのさらに後方に位置取っている。公認記録はもともと穂乃香の方が上で、友萌香が先着したことはない。それに、穂乃香が一向に追う気配を見せないということは――


(ちょっと、様子見よう)


(そうですね)


 菜緒の問いかけに真理は頷くと、オーバーペースの友萌香を見送って少しだけペースを上げた。




 しばらく友萌香は先行していたが、2キロを過ぎた辺りから失速し、穂乃香のさらに後ろの方へと下がっていった。再び先頭は菜緒と真理のふたりが引っ張る状態となった。春奈たちは、じっと無言で菜緒たちを見つめていた。


「このまま、菜緒先輩と真理が引っ張りますかね…」


 春奈が言うと、一美は首を振った。


「どうかな…菜緒も真理も、スピードはあるけど5,000を走った事自体がそんなに多くないよね。むしろ、終盤に入ってペースが落ちなければいいんだけど」


 一美がそう口にしたタイミングで、菜緒たちの後方にいた選手たちがじりじりと間隔を詰め始める。距離は、間もなく3キロを過ぎるところだ。


「仕掛けたね」


 スタートライン近くで戦況を見つめていたひかるが、春奈たちのすぐ後ろに座る。菜緒たちのすぐ後ろには涼子、夏海、そして沙佳がぴったりと位置取り、先頭集団は5人に変わる。春奈は、5人の表情をじっと見つめていたがやがて口を開いた。


「沙佳ちゃん、余裕ありそうですね?」


「そうだね…この中だと下手したら、一番体力残ってるのかもね」


 168センチと部内で最も背の高い沙佳は、大きなストライド走法ということもあってそもそもゆったりとした走りに見えがちだが、ペースを上げても表情は変わっていない。後半にさしかかろうというタイミングで夏海や真理、涼子が少し苦しげな表情を浮かべる中、沙佳は特別に余裕があるようにも感じられた。コーナーを抜けても、5人の並走が続く。すると、


「仕掛けた!」


 春奈は、思わず立ち上がって叫んだ。菜緒が、バックストレッチに入るタイミングでぐいっとスピードを上げたのが見えた。続く真理と2メートル、3メートルと差が開いてゆく。


「でも、菜緒もちょっと苦しそう…ああっ!」


 一美は、拳を作ると両手を大きく振り上げた。少しずつ後退する真理たちの背後から、沙佳が一気に抜け出すと菜緒に掴みかからんばかりの勢いで猛追を始める。


「さーや! なんてスピード…」


 思わず秋穂もため息を漏らした。ホームストレートに戻って来る頃には、菜緒と沙佳はほぼ並走する状態になっていた。菜緒が振り向くと、やや遅れて沙佳も後方を見た。だが、もう真理たちはコーナーの直前ぐらいまで後退している。さらにその後ろから迫る夏海にも捉えられると、真理は粘る体力はないのか差がじりじりと開き始める。


「…ああっ!!」


 真理は、自分でもあげたことのないほどの大声で叫んだ。トラックを囲む校舎に反響して、その声は響き渡る。夏海にかわされると、真理はその細い腕で足を叩いた。


(…さえじたちと一緒に…都大路で…走りたいのに!)


 紅潮する頬に、一筋の涙が流れ落ちた。




 ひとり、またひとりと先頭集団から脱落し、残り1キロを過ぎるころには、3区ランナーの椅子は菜緒と沙佳の争いに絞られていた。表情には疲労が隠せずにいたが、横並びの状態で変わらずに軽快なリズムを刻んでいた。


 沙佳は、菜緒との争いに特別な思いを抱いていた。プライドが高く鼻っ柱の強い沙佳を、同部屋になった菜緒は叱ろうとはしなかった。初めての記録会で菜緒、そして同期の恵理子たちにも敗れ、自信が音を立てて崩れ落ちた。ショックでうなだれる沙佳に、菜緒は優しく、しかし毅然と語りかけた。


「確かに、さーやは山川の3年間があるから、ウチらが1年生だったころより知識はあるし、自信もあるかもしれん。だからって、それをひけらかしたり、他の部員を見下したりしてええ理由にはならんやろ? スポーツやから、結果がすべてや。でも、挑戦を止めなければいつでも挽回はできるやろ? ほら、顔上げえ。今回がダメでも次がある。下向いたらあかん…」


 あの日から、沙佳は練習態度も見違えるようになった。いつかの傲慢な態度は謙虚な姿勢に変わり、誰よりも研究熱心に取り組んだことで今では1年生の中でも頭一つ抜けたタイムを記録するようになっていた。気がつけば、レースは残り2周を切っている。沙佳は、並走する菜緒のことを横目で見た。すると、同じタイミングで菜緒も振り向き――


「行った!」


 春奈たちが思わず叫ぶ。同じタイミングで、ふたりはスピードを一気に上げた。勝負はあと1分と少しの間に決する。必死で振る両腕から、汗が飛び散る。沙佳がコーナーの内側を奪おうとすると、菜緒が手で制し思わず見守る部員から悲鳴にも似た声が上がる。


(芳野先輩…)


 コーナーを抜けると、ここぞとばかりに沙佳は手足に力を込める。菜緒は、もともと短距離出身のランナーだ。最終直線の勝負では勝ち目がない。


(行きます!)


 奥歯をぐっと噛みしめると、ホームストレートで一気にスピードを上げる。見守っていた部員たちから思わず大きな歓声が上がる。もう、振り向きはしなかった。そのままのスピードでコーナーへと進んでいく。とにかく、行ける所まで突き放しておきたい。


「菜緒…! さーや…!」


 一美が思わず声を漏らした。息が詰まるような攻防に、春奈は口を真一文字に結ぶと隣にいた秋穂の手をぐっと握っている。バックストレッチに入ると、菜緒もスピードを一気に上げて再び沙佳に迫る。沙佳も、最後の直線までに決着をつけなければいけないことは知っている。それまで余裕の見えた表情が一気にゆがみ、食いしばった歯をのぞかせて最後のコーナーへ進んでいく。


「「沙佳! 沙佳! 沙佳! 沙佳!」」


 見守っていた1年生たちが声を上げる。その声に呼応するように、コーナーを抜ける直前に、沙佳の身体がぐいと押し出されるように前へ進む。菜緒も、最後の力を振り絞るようにスピードを上げた。


「…!!」


 春奈は、言葉を失ったままホームストレートの争いを見つめていた。わずかに前に出た沙佳が、限界まで手足を前後に振り出す。その差がゆっくり、ゆっくりと開くと、沙佳は転がるようにゴールラインへ飛び込んだ。


「沙佳、16分29! 菜緒、16分31!!」


 ゴールラインで見守っていた彩夏が、感極まった表情で叫ぶ。力を使い果たし身体を地面に投げ出したままの体勢で、沙佳は両手を天に突き出した。


「さーや!」


「芳野先輩!」


 沙佳の元へ駆け寄った菜緒は、沙佳を抱き起こして頭を撫でた。


「さーや、すごいやん! やるやん! おめでとう!」


「ありがとうございます…!!」


 最後の方は、声にならなかった。春からの色々な思い出が溢れたのか、沙佳も菜緒も笑い泣きながら抱き合い、お互いの健闘を称え合っていた。




「沙佳ちゃん…、すごい!」


 春奈が驚嘆の声を漏らすと、一美も深く頷いた。


「菜緒だって、決して調子悪くなかったのに…さーや、やるね…」


 ゴールラインを次々と選手たちが越えていく。沙佳たちに及ばなかった夏海や真理、穂乃香たちがお互いを称え合いながらも悔しさに崩れ落ちるさまに、春奈たちも涙を抑えきれない。その後ろでは、ひかるも選手たちの感情が交差するさまを黙って見守っていた。


(菜緒、それに夏海、真理、穂乃香たち…キミたちは、悔しさを絶対に忘れてはいけない…悔しくても、それは進化のための原動力になってくれる。悔しさがキミたちを成長させてくれる…)




 そして、レースをみるほたちと見守っていた怜名もやはり、沙佳たちの激闘に決意を新たにしていた。手に持っていたドリンクを口にすると、ひとつ大きな深呼吸をして拳を握りしめる。


(…4区は明日…、今度こそ有希先輩に勝って、春奈たちと都大路を走るんだから!)





<To be continued.>

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