#100 真夏の決闘
「えっく、えっく、ひっく」
食堂を出た春奈が目にしたのは、入口の脇に体育座りでしゃがみこんで、まるで小学生のようにしゃくりあげながら号泣しているさくらの姿だった。春奈はその様子を一瞬まじまじと見つめると、慌ててさくらの元へと駆け寄った。
「ね、ねえ、桜庭さん、もう泣き止もう? これから午後の…」
「いやだ…さくらって呼んでくれんないやだ」
「じゃ、じゃあさくらちゃ…」
「…『さくら』がいい!」
駄々をこねるさくらに辟易としたのか、さすがの春奈もふん、とひとつ鼻息をたてると、涙と鼻水でべしょべしょのさくらに顔を近づけ、じっと目を見て訊ねた。
「…ねえ、さくら。わたしと勝負したいの?」
さくらは泣腫らした真っ赤な目で首を縦に振る。春奈は続ける。
「いいよ、じゃあやろう。だけど、条件がひとつ。わたしたち、どっちも帰るのは日曜のお昼でしょ?そしたら、日曜の朝練終わったら5,000で勝負しよう。どう?」
「うっ…うっ」
すぐに対決できると思っていたさくらは、不服そうな表情を隠さなかった。が、しゃがみこんでいた春奈がすっくと仁王立ちすると、思わず嗚咽を引っ込めて春奈を無言で見上げた。
「ねえ、さくら。ここは、わたしたちだけの合宿じゃないでしょ? お互いが良いところを勉強して、どっちも強くなってまた都大路でいいレースするために先生たちが企画してくれたんだから、楽しみにしてくれてたのは嬉しいけど、最終日までは我慢して頑張ろうよ」
春奈は、まるで小さな子供に言い聞かせるようにゆっくり、しかしつとめて冷静にさくらに語りかけた。さくらは唇をぐっと噛みながら、
「うん…」
そう頷くとしおらしく隣接する旅館の部屋へと戻っていくかと思われたが、歩き始めてしばらくすると突如跳ね上がり、声を上げてスキップを始めた。
「イヤッホー!! 春奈と対決しきってー!! ヒュウ―!! めっちゃ練習楽しみじゃあー!! いえええい!!」
「あ…さくら…ハハ…ハハハハハ…別人みたい…」
春奈は思わず呆然としばらく立ち尽くしていたが、ハッと我に帰ると、旅館のひかるがスタンバイしている部屋へと走っていった。
「すっ、すみません、うちの冴島が勝手に決めてしまい…!」
春奈は、ひかるの言葉に合わせて深々と頭を下げた。すぐにひかるに報告すると、慌てたひかると共に城之内の泊まる部屋へとやって来ていたのだ。その光景に、慌てた城之内は両手を大きく振ってふたりを止めた。
「そんな、お詫びなんて滅相もない! 状況はこちらも把握しとっとです。駄々をこねてご迷惑をおかけしているのは桜庭ですから…しかし、冴島さん、本当なら最終日は余裕のあるスケジュールだったと思うけど、本当に大丈夫かい?」
春奈は、頬を指で掻くと思わず苦笑いを浮かべた。
「わたしも、あそこまで言われると断れなくって…それに、去年の都大路は引き分けたようなものなので、せっかくだから決着をつけたいなって…思っちゃって」
春奈の脳裏に、昨年冬の都大路の光景が蘇る。当日変更で急遽1区を走ることになったさくらは、序盤から果敢にハイペースを保って春奈に追いつくと、そのまま春奈と半身も差のないまま次の2区へとタスキリレーを果たした。春奈はどうにかさくらをかわして区間賞を獲得したものの、リレーの瞬間に肉離れを起こしていた。そして、痛みに悶える春奈の横を、平然と立ち去っていったさくらの無邪気な横顔を――
城之内が、歯痒そうな表情を浮かべて当時を回顧する。
「あの区間、本当なら当時の3年生を起用するつもりやったです。ところが、当日の朝になって膝の痛みがあると言い出した。帯同していた他の3年生を起用することも考えたんですが、あの時…」
「あの時?」
「絶対に冴島さんを抜くと宣言して、桜庭が立候補したとです。記録上は平凡なタイムですが、わたしもあの子のツボにハマった時の爆発力は知っていますから、半ば賭けのつもりで起用した。そげんしたら、あんなタイムで走りよったからそりゃもうビックリとしか言いようがなかですよ」
そこまで一息で言うと、城之内は手元のお茶をぐっと飲み干してため息をついた。
「あの子は、もっと早く走れる可能性を秘めた子です。じゃいが、内面は同い年の生徒と比べてもまだまだ子供…この1週間で、冴島さんたちと一緒に過ごすことで、その変化を促すことができたらと思っとったですが、まぁなんとも難しかですよ」
そういって首をひねる城之内にかける言葉が見つからず、春奈はひかると顔を見合わせると困惑した様子でため息をついた。
「えーっ、春奈、ならわたしも一緒に走りたいな」
春奈がさくらとの一件を話すと、久しぶりに同じ部屋で過ごす怜名が口をとがらせた。温泉で上気した春奈の頬を触ったり突ついたりする怜名の手をどけると、春奈は戸惑った様子で口を開いた。
「だって、最終日はみんなでゆっくりレクするって話だったでしょ? みんなを巻き込んじゃったら、なんか申し訳ないなって」
怜名は首をぶんぶんと横に振る。
「ううん。桜庭さん以外にも、一緒に走ってみたい人もいるし。2年生の是永伊織ちゃんって子が、障害走メインでやってるらしくて、せっかくなら最後一緒にレースしたいなって」
「そうそう、ウチもニャンさんと一緒に真剣勝負したいなぁ」
「秋穂ちゃん?」
「せっかく一緒に練習しとるし、最後の集大成でみんなで走ったら面白いじゃろ? あっ、ハマ先輩、ちょっといいですか」
「なになに? …なにそれ、超面白そうじゃん! サエコ、ひかるさんと相談しようよ」
「えっ、あっ、ちょっと、みんな…!?」
富士見高原での合宿の日々は矢のように過ぎていった。両校の選手たちは、ときに共に汗を流し、ときに熱い議論も重ねながら充実した合宿期間を重ねていた。
春奈は、旅館の一室で目を覚ました。手元の目覚まし時計には、『日曜日 4:49』とある。あっという間に迎えてしまった最後の日に春奈はため息をつきながら、顔を洗うと大きく背伸びをしてカーテンを開けた。
「さっ、張り切って行きましょうか!」
スタートラインに、臙脂と白のユニフォームと、上下鮮やかなブルーのユニフォームがきれいにふたつに別れて並んでいる。木々に囲まれたアスファルトのトラックを10周する5,000mの勝負だ。手元にストップウォッチを持った彩夏がスタートラインに立つと、両軍の選手たちを見やって口を開いた。
「さぁ、これが合宿最後のメニューです。みなさん、一生懸命走っていい思い出にしましょう!じゃあ、10秒前です。位置について!」
春奈は、すぐ隣のさくらをちらと見た。すると、さくらも春奈の方を向く。ふたりで同じタイミングで頷くと、お互いにキリッとした表情で微笑み、前を向き直す。彩夏がスッと右手に持ったピストルを高く掲げる。
パァン!
数十人にもおよぶ選手たちが、一斉に緑の中へと駆け出す。夏の太陽が八ヶ岳から覗き、選手たちを煌々と照らしている。春奈はあわててサングラスを下ろすと、さくらがすぐ真横についていることを確認してぐい、とスピードを上げた。さくらは一瞬驚いたようだったが、ニヤリと笑うとすぐ春奈の後ろについた。
「フフ、もう始まっとんのか…ウチも行かな!」
秋穂も、追随すべくスピードを上げると、動きを合わせるように並走していたニャンブラが笑顔を見せる。この1週間という短い期間の中で、それぞれが同じ目標に向けての決意を新たにし、友情を築いていた。春奈はちらと後ろを振り向くと、春奈を追う双方の部員たちと目が会った。それぞれの意志に満ちた視線を感じると、春奈は笑みを浮かべて再びペースを上げた。
「それじゃあ、撮りますね!10秒後にフラッシュが光るから、そうしたらみんな、笑顔でお願いします!『チーーーーーズ』で!」
春奈は、慣れない手付きでカメラのセルフタイマーを合わせる。母の琴美に憧れて、カメラを扱う場面では撮影係に立候補するようにしているが、まだ母のような腕前には遠いようだ。グッとシャッターを押し込むと、慌てて春奈は部員たちが整列する方へ向かおうと急いだ。
「うわっ!」
慌てたその瞬間に緩んだ靴の紐を踏んでしまい、春奈は画角のど真ん中で転んでしまった。驚いた部員たちが声をかける。
「春奈、急いで! もうシャッター下りちゃうよ!」
「うっ、もう間に合わない…それなら…ほいっ!」
その瞬間、転んだその場所で春奈はくるりと身体を半分回転させると、カメラの方を向いてピースサインを送る。
パッシャッ!
「うそ、マジで! 冴島さん、超面白いね!」
「さえじ、やるじゃん!!」
咄嗟にカメラの方を向いた春奈だったが、いざ撮れた写真を目にすると、春奈は真っ赤な顔をしてプレビュー画面から目をそむけてしまった。
お互いの部員たちを乗せた観光バスが、駐車場を後にする。それぞれの目的地へと向かうバスは、高速道路に乗ると異なる方向へと向かってゆく。お互いのバスから部員たちが顔を出して手を振る。
「また、都大路で会おうね! 約束だよ!」
「県大会頑張ってね! 今度もいいレースしよう!」
春奈も、窓から外を覗くと少し寂しげなさくらに向かって大声で叫んだ。
「さくら! またメールするね! 次会ったらまたいいレースしようね!」
「…うん! 春奈もきばりやんせ! また一緒に走るん、約束じゃ!」
「オッケー! またね!」
春奈がそう応えると、さくらはお互いのバスが見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。
<To be continued.>
節目の100話を迎えました。
いつもこの物語を読んでいただける皆様、ここまでの数々のエールを心から感謝いたします!
これからも心に残る物語を紡いで行けるよう頑張ります。
夢に向かって全力で頑張る春奈たちのさらなる活躍をお楽しみに!(あんじょうなほみ)




