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#97 宿敵、相見える

 さくらはしばらく城之内の話を直立不動で聞いていたが、大河内が怒り収まらぬ様子で立ち去ると、そそくさと春奈の方へやって来て、春奈が声をかける間もなく速射砲のように一方的に喋り始めた。


「ああああ、もう! ほんのこて悔しか! 悔しかーー!! 冴島さん、あたしん分まできばって、ぜってに優勝したもんせ!! な! じゃ、また!!」


 それだけ言うと、さくらは春奈の返答を聞かずに他の部員の輪の中へと戻っていってしまった。すると、今度は先輩部員に勝手な行動を叱られたようで、またシュンとしている。一連の行動を眺めていた春奈はポカーンと大きな口を開けている。


(や、やっぱりあの子、変な子…さくらちゃん…)




『インターハイ女子陸上、5,000m決勝です。先ほどまで青空の覗いていたここ長崎県立総合運動公園陸上競技場ですが、やや雲行きが怪しくなってきましたか、空には黒い雲が増えて参りました。解説は日本陸連強化委員長の古瀬稔さんです――』


『よろしく!』


 実況席に姿を見せた古瀬は、愛用の扇子でパタパタと自らを扇ぎながら、スタートライン周辺を見渡すとニヤリと笑みを浮かべる。その様子に気づいたアナウンサーが訊ねた。


『古瀬さん、早くも出場選手が気になっていらっしゃるようですが、やはりお目当てといいますと――?』


『もちろん、冴島くん、秋田学院の冴島選手ですね。つい先日も強化合宿に参加して、心身ともに非常にレベルアップしていることを感じましたのでね、非常に今日もいい走りを見せてくれるんじゃないですかね』


 古瀬の見つめる先には、本番前のウォーミングアップで身体を動かしながらシラと談笑する春奈の姿があった。古瀬は、昨年の高校駅伝での春奈の姿を思い出していた。当時は険しい表情を浮かべ、ひとり黙々とウォーミングアップを行っていた春奈だが、今は違う。心に余裕が生まれ、それがよい結果をもたらしていると古瀬は読んでいた。


『古瀬さんも注目選手として挙げられた注目の秋田学院・2年生エースの冴島春奈ですが、この決勝、やはり優勝候補の筆頭となると冴島でしょうか?』


 古瀬は、少し首をかしげながら言う。


『日本人選手だけならやはり冴島がズバ抜けて速い存在ではありますが、最有力候補を挙げるならやはり仙台共和大高のワンジラ選手、そして浪華女子のムワンギ選手ではないでしょうか。なにせ、この他にも留学生選手が4人出場することになりますので、冴島選手のライバルというならばこの選手たちになるのではないで…』


 そこまで言うと、古瀬は言葉を止めた。何やらスタートラインの方を眺めては、デレデレと鼻の下を伸ばしている。アナウンサーは訝しむように一瞥すると、苦笑いで口を開いた。


『今、古瀬さんの視線の先にはつい先日ご自身でも指導されたという冴島の姿があります――古瀬さん、決勝の展望を…』


 実況席に古瀬の姿を見つけて、笑顔で飛び上がって手を振る春奈にもはや古瀬はデレデレだ。アナウンサーは古瀬を呆れ顔で見つめると、苦笑いでその場を仕切る。


『…試合開始まで5分を切りました。注目の冴島春奈は、東京・八王子実業高校の3年生井田天と談笑している姿が見えます。高校生ナンバーワンを決めるこの試合、間もなく熱戦の火蓋が切って落とされます!』




 「はぁっ、はぁっ、はぁっ」


 史織は、一面に広がる田んぼの真ん中を突っ切る道をひたすら走っていた。相模川のせせらぎがわずかに聞こえるが、風もなければ陽をさえぎる建物もない。ここは、神奈川県平塚市。実業団チームを退社しフリーになった史織は、母校の望海大学の大学院生として籍を置き、大学の施設を利用しながらトレーニングを続けていた。むせ返るような暑さに、史織は思わず顔をしかめたが、腕時計をちらと見るとしまった、という表情を浮かべた。


「あっちゃー、春奈ちゃんの決勝もうそろそろじゃん! 早くクラブハウス戻らないと…」




 そのころ、秋田学院陸上部寮では多目的ホールの大型テレビの前に人垣ができていた。1年生部員たちは鳴り物を手に、上級生たちはテレビの前に座っている。


「春奈、勝つよね」


 怜名が少し不安そうに秋穂に訊ねると、秋穂はうっすらと笑みを浮かべて言った。


「もちろん…今の春奈は走る力もそうだし、精神的にも余裕がある…だから、今日は安心して見れるんじゃないかな…あっ!」


「どうしたの?」


 怜名が聞くと、秋穂はテレビの画面を指差す。同時に、アナウンサーが競技場の様子を伝える。


『決戦を前に、空からは雨がポツポツと降って参りました。午後の長崎の天気は弱い雨ですが、ところにより大雨との予報となっています。レースはおよそ20分程度ですが、この雨がどう展開に影響するでしょうか…』


「ああっ…」


 思わず怜名はため息をついた。悪天候は、今の春奈にとっては一番の泣き所と言っても良い。しかし、秋穂は平然と画面を見つめている。


「心配じゃないの?」


「全然。もう、春奈だって何度もこんな天気の中で走ってきてるし、心配することはないよ」


「でも…」


 なおも怜名が不安げに言うと、秋穂はぐいと怜名に顔を近づけた。


「ひぃ!!」


 今までに見たことのないような形相に思わず怜名が身を固くすると、秋穂は耳元でボソッと呟いた。


「心配せんでも平気だ、って言うとるじゃろ…黙って見とかんかい」


 怜名が思わず無言で頷くと、秋穂は表情を和らげて肩をポンポンと叩いた。


「なーんてね。でも、春奈は本当にもう大丈夫だと思うよ。うまく説明はできないけど…、そんな気がしてる」




 『18番。冴島春奈さん。秋田学院高校、秋田――』


 春奈が右手をスッと上げると、会場からは大きな拍手と声援が起こる。もう、春奈は誰もが知る陸上界の期待の星だった。テレビでは今朝取材を受けたインタビューの様子が映し出され、「月刊アスリー卜・マガジン」はもちろん、スポーツ新聞やテレビ番組でも度々特集が組まれている。出場する18人の選手の中で、春奈への声援は桁違いだ。春奈も、以前ならば緊張していただろう。しかし、今はぽつぽつと降り出した雨も、響き渡る歓声も楽しむ余裕ができた。最後にスタートラインへ進み出ると、隣りあう天と目線を併せて笑顔でうなずいた。


(よし! …このレース、絶対に勝つんだから!)


 頬を両手でピシャリと二度叩くと、用意していたキャップを被る。キャップに黒のハイソックスは、春奈のトレードマークにもなっていた。


『18人のランナーがスタートラインに立ちます。女子3,000m競走、あと10数秒の後にスタートいたします。注目の秋田学院・冴島春奈、初優勝を飾ることはできるでしょうか――』


 スターターが静かにピストルを掲げる。


『On Your Mark』


 18人のじり、という足音が静まり返った競技場に響く。


バァン! バァン!


 一瞬、張り詰めた緊張が破れる。一番外側のランナーが思わず足を踏み出してしまい、首をひねった。フライング。春奈は、大きく深呼吸をすると天と顔を見合わせて笑った。再び、スタートラインに静寂が戻る。


『On Your Mark…』


 右膝に手をつき、春奈は前方の一点のみを集中して見つめた。




バァン!




 今度は、18人が一斉にスタートラインを飛び出した。いつものスタートよりも気持ち早めに、春奈は先頭の留学生たちと並走の態勢に入る。


『先頭には5校の留学生選手、そして秋田学院の冴島、八王子実業の井田…さらにそこへ宮城高校のエース・鈴木葵も追随しています。冴島は宿敵と呼んでも差し支えないでしょう、仙台共和大学高校のガドゥニ・ワンジラの真横にピッタリとついて集団をリードしています。先日の東北総体ではワンジラとの熾烈な先頭争いの末、3秒差の2位に沈みました。古瀬さん、このワンジラの実力はいかがでしょう?』


 ガドゥニは春奈を気にする様子もなく、ハイペースでピッチを刻んでゆく。古瀬は顎をなでると、ガドゥニと春奈を交互に見やって口を開いた。


『今年豊川工業に入部した去年までのエースにエレナ・ジオンゴという選手が共和大にはいましたが、比べてみるとこのワンジラ、接戦でのスパートの力が段違いですね…3,000mの現時点での公認記録は9分04秒ですが、潜在的には8分台で走れる力は十二分にあるんじゃないかと思います。とはいえ冴島くん…冴島選手も、この1ヶ月のコンディションは非常に良いですので、このふたりを中心とした争いになるんじゃないかと思いますね』


 当の春奈も、ガドゥニをさほど気にしてはいなかった。すでに戦ったことのある相手だ。敗れたとはいえ、どのような走りをするかは前回のレースで把握していた。それよりも未知の相手、もしくは今までとは全く別の走りを見せる選手のほうが恐ろしい。春奈がガドゥニ対策を練っているのと同じように、他の選手が春奈対策を練っていると考えるほうが自然だ。すると――


『ここで後方から鈴木がペースを上げていきます! 鈴木葵、宮城県立宮城高校の3年生です。3,000mの公認記録は9分09秒。これは、同じ宮城県のライバル・仙台共和大高の3年生でキャプテン・石元仁美の記録を3秒上回ります。しかし、これだけの記録がありながら、過去2回の全国高校駅伝はいずれも仙台共和大高に出場を譲りました。今年は最終学年を迎え、なんとしてでも共和大を倒し、宮城高校17年ぶりとなる高校駅伝出場を目標にしているこの鈴木です。今、先頭を走るワンジラと冴島に追いつこうとしています!』


 上下深緑のユニフォームが、後方から迫ってくる。この葵も、春奈は東北総体で対決の末勝利した選手だが、明らかにペース配分を変えてきているのがわかった。前回は終盤に第2集団から追い上げてきたが、決勝では序盤から先頭争いに加わっている。春奈は、葵を一瞥したが、すぐさまガドゥニに目線を移した。今の所、ギアを切り替える様子はない。間もなく、春奈たちは最初の1キロに到達しようとしていた。


『先頭を行くワンジラと冴島がいま1キロを越えました。手元の時計で3分02。このままのペースでも9分06秒ですし、後半のスパートを考えると8分台でのゴールも想定される非常にハイペースな展開です。古瀬さん、今のところは両者様子見といった感じでしょうか?』


 古瀬は、首を横に振った。


『雨脚がやや強まってきているので様子を見ているのだと思いますが、これでこのふたりが牽制しあった結果、後ろの誰かが先行することもあると思いますので油断はできませんね。実際ほら』


 古瀬が指差した先には、葵のほかにも数人の選手が春奈たちを追い上げようとする姿がある。


『試合前に冴島が要注意人物として挙げていた浪華女子のムワンギと桜島女子のギタヒ、そして白鳥学園のワリオが冴島とワンジラを追いかけます!日本人選手も、ギタヒと同じ桜島女子の河野萌絵(こうのもえ)が先行する鈴木にピッタリとつけています!先頭は変わらず冴島とワンジラですが、このふたりを続々と他の選手が追う展開となっています!』




 望海大学のクラブハウスに戻ってきた史織は、慌ててラウンジの大型モニターの前へとやって来て画面をじっと見つめると、ひとつため息をついた。


「何この展開、こわっ…」


 自分が高校時代にこの争いの中に入って勝てただろうか、と史織は思案を巡らせたが、すぐに首を横に振った。さほど陸上の強くない県立高校の出身だったとはいえ、仮に出場のチャンスがあったとしても――


「いや、無理でしょこれは…強すぎるよ、この子たち」


 高校生とは思えぬほどのハイペースな展開に、史織は思わず苦笑いを浮かべた。




 春奈は、仕掛けどころを探っていた。ガドゥニがまだスピードを上げる気配がないとはいえ、直線でのスパートは間違いなく分が悪い。とはいえ、後ろに迫るマケナ・ムワンギやニャンブラ・ギタヒらもガドゥニに勝るとも劣らないスピードの持ち主だ。手元に油性のマジックで書いたタイムをちらりと見ると、春奈は上空を見上げた。後半勝負を試みたとしても、数分後に天気が好転する保証はどこにもない。


(…仕方ない、行くか)


 誰も勝負を仕掛けてこないことを確かめるように一瞬後ろを振り向くと、春奈はぐいとペースを上げた。最初の一瞬でふたりほど反応したが、その他の選手は特にペースを上げる様子もない。大きく頷くと、さらに春奈は腕の振りを強めた。


『さぁ中盤、ここで先頭の冴島が仕掛けます! これを追うのはワンジラとギタヒ、高校陸上界のスピード自慢3人が一気に後続を引き離すか? 冴島はロングスパートを仕掛けたか、ワンジラとギタヒを引き連れるようにしてジワジワとスピードを上げていきます!』




<To be continued.>

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