#9 リレーゾーン
【前回のあらすじ】
史織からタスキを受けた春奈は、懸命に前のランナーを追う。1キロ3分を切る驚異的なペースで次々と順位を上げていくが、突然春奈は蛇行し始める。雪まじりの強風にさらされた結果、低体温症に陥った春奈は前後不覚の状態に陥ってしまった。ところが、途中棄権を促した審判を避けて春奈は前へと進む。
春奈が到着するはずの河原町の中継所では、4区を走る逢沢琴音が心配そうな面持ちで春奈の到着を待ち侘びていた。しかし、ブレーキの報を聞くや一度側道へと戻り、再びグラウンドコートを羽織った。当初の春奈のハイペースを考え、先頭集団とほぼ同じタイミングでリレーゾーンへ出てきた琴音だったが、思わぬ展開にそわそわと中継所にあるモニターへと近づく。
「あ…」
朝のミーティングの時点では想像もしなかった苦境がモニターに映し出されるのを見て、琴音は言葉を失った。意識を保っているのかどうかも怪しいほど、小さな身体がゆらゆらと左右に揺れている。辛うじて走っているといえるほどのスピードだが、走っていること自体が信じられないほどの姿だ。テレビに顔を向けたまま、琴音はその場に崩れ落ちた。
(冴島ちゃん…どうしてこんな状態になってまでリタイアしないで走ってるの…?)
数百メートルを進む間に、さらに4、5人のランナーに抜かれ30位前後まで順位は下がった。その後ろは多少間隔が空いているとはいえ、数人の集団が見え始めていた。吹雪はさらに勢いを増している。万全の体調でも厳しい状況に、前後不覚の状態に陥ったランナーが走っていることに無理があるのだ。さきほど振り切られた再び審判団が春奈の傍へと駆け寄る。
その時、春奈が恐ろしいほどの大声で叫んだ。
「来ないで!!」
春奈の声に審判が怯んだ隙に、再び腕をぐっと振り出し前へと進む。困惑の表情を浮かべる審判を置き去りにしようと体勢を立て直そうとするが、右へと起こした上体の勢いで、再び大きくコースの外側へと振れてしまう。
「…も、もう無理をしたらいかん!君にはまだこれからのレースがある!」
それまで目もうつろな状態で走るのがやっとだった春奈が、審判の呼びかけに一瞬立ち止まると、眉間にぐっと力を入れて審判に叫び返す。
「…いやだ!…ゴールしたい!」
その場にいた観衆には、呂律の回らないうなり声のような叫びにも聞こえた。しかし、審判の目を見据えてこう言い切ると、それまでの蛇行が嘘のようにしっかりとした足取りを取り戻した。
残りは300メートル。つい数秒前に抜かれたランナーを再び捉えると、胸に掛けていた臙脂のタスキを右手でつかみ、グルグルと拳に巻き付ける。
テレビ中継は先頭争いを映す一方で、大ブレーキとなった春奈の姿をワイプで捉え続けていた。
『中継、バイクです!先ほどからペースを急激に落としていた神奈川の冴島春奈ですが、残り300メートルを前に先ほどのスピードが蘇りました!いえ、ゴールまでのこの残りの距離を何とか走り切りたい、その思いだけで全力を尽くしているようにも見えます!続く4区は、横浜市立青葉高校の逢沢琴音ですがまだリレーゾーンには現れていません!残りは250メートル、神奈川の冴島春奈が再び2人を抜き返して猛然と中継所に迫っています!…』
実況に自分の名前が出たことに気づきハッとした表情を浮かべると、琴音はグラウンドコートを脱ぎ捨てて慌ててリレーゾーンへ向かう。3区の方向を振り向くと、向こうから黄色のユニフォームが向かってくるのが見えた。
琴音は大声を張り上げる。
「冴島ちゃん、ここだよ!あと少しだよ!冴島ちゃん!がんばれ!」
琴音もまた、昨夜の宿舎での会話を思い出していた。
「えっ、それじゃあ琴音先輩…」
「そう、市ヶ尾南中」
琴音は、春奈の3学年上だ。直接の接点はないが、同じ市ヶ尾南中学校の出身だとわかり、春奈に笑顔が浮かぶ。
「そうなんですか!?ビックリです!じゃあ、…西端先生が顧問だったんですか?」
「ううん、私の時の顧問の先生は卒業と一緒のタイミングで他の中学に異動しちゃった。でも、私の時の先生経由で今の顧問の先生の話は聞いたことあるよ。すごい生徒がいるってニコニコしてたって」
そういうと、琴音は春奈を見つめてニヤリと笑みを浮かべた。
「え、うそ、なんか恥ずかしいです」
「うちの中学の周りさ、結構上り下りあるじゃん。外周走らせると、みんなハアハア言って戻ってくるのに、冴島ちゃんだけヨユーで笑いながら戻ってきたって言ってたみたいだよ」
「え、そんなことまで」
春奈が露骨に眉をひそめると、琴音はケラケラと笑った。
「もう、進路は決めたの?どこの高校行くか」
「それが…」
春奈は、秋田学院からの誘いを受けていること、秋田学院の立派な施設を目の当たりにしたこと、親元を離れるのが寂しくて迷っていることを琴音に話した。
琴音は、息をスーッと吸い込むと大きな溜息を洩らした。
「そうだよね、こんなスゴい記録持ってる子、強豪の学校がほっとくわけないもんね。地元で進学するなら、うちの高校に来たらいいなぁって思ったけど…やっぱ無理か」
「…なんか…すみません」
「ううん、いいんだ。せっかくチャンスがあるなら挑んでみたほうがいいと思うし」
「チャンス?」
「チャンス。だって、チャンスは誰にだって来るわけじゃないから。チャンスをつかむことができる人は、ある程度決まってるんだよ。結果を残せる人。努力した人」
春奈は、努力した人という言葉がピンと来ずにまたもやキョトンとした顔をした。
「難しいかな。でも、秋田学院に推薦で入れる人なんてそうそういるわけじゃないし。冴島ちゃんがこれからも競技を続けようと思ってて、もっと速くなりたいとちょっとでも思うなら、トライしてみていいと思うんだ。それに」
「それに?」
「わたし、大学で競技続けるんだ」
「わぁ!どこの大学ですか?」
「わたしは、中東大学。男子ほどまだ強くないけど、今どんどん強化してるから、これから強くなっていくところ」
中東大学の男子陸上部は箱根駅伝で最多の出場回数を誇るいわば古豪で、近年では女子チームの強化にも積極的に取り組んでいると言われている。
琴音は続ける。
「3年後、高校卒業するときに進路がどうなるとかまだ分かんないかもしれないけど、もし秋田学院行くならこれから3年間は秋田チームだよね、しばらくはライバルチームだけど、またどこかで一緒に走れるようにお互い頑張ろうよ」
本当は社交辞令かもしれない。が、先輩に褒められてうれしくないはずがない。
「はい!わたし、陸上頑張って続けます!琴音先輩みたいになれるように頑張ります!」
『スーパー中学生として今大会の注目を集めた神奈川の15歳、冴島春奈ですが、前半はとてつもないペースで一時は10数人を抜き去るハイペースで走りました。ですが、この残り1キロで低体温症と思われる体調不良に見舞われ、一時は蛇行し止まってしまうというブレーキ状態ともなりました。一時は棄権の可能性もございました。ですがですが、この残り数百メートル、気合だけで走り切り、今25番目を走っています、この冴島であります!中継所には続く4区、同じ横浜市立市ヶ尾南中学校の先輩にあたります、横浜市立青葉高校の3年生逢沢琴音が待ち構えております!さぁ冴島、まもなくリレーゾーンでタスキの受け渡しに入ります―』
春奈は、右手のタスキをほどいて両手で広げるしぐさを見せた。
もう、その姿は中継所のすぐ手前まで迫っていた。もう、体力はない。最後の力を絞り出したのか、再び身体が左右に大きく振れる。
食いしばったままの口元から、精いっぱいの声がこぼれる。
「はぁ、はぁ、琴音先輩!!はぁ、はぁ」
叫び声は荒い呼吸にまみれて、絞りだすのがやっとだ。だが、白くちらつく視界に確かに琴音の姿を捉えると、残る数歩に力を込めた。琴音が大きな声で応える。
「冴島ちゃん!」
春奈がリレーゾーンに踏み込んだのを確認すると、琴音はタスキを受け取り、右手の拳を掲げて春奈をねぎらった。
「よく頑張ったよ!タスキ受け取った!」
その声を聞くと、ここまで数百メートル食いしばってきた口元に笑みがこぼれた。視界の中にたしかに琴音の右手が、エンジ色のタスキを掲げるのが見えた。
そのぼんやりとした映像を最後に、視界が暗転する。
『走り切りました、神奈川チームの中学3年生冴島春奈ですが、今タスキを逢沢琴音に渡し終わりますと体力をすべて使い切ったか、そのままコースに倒れこみました!今、救護の係員が小柄で華奢な冴島の体を担架へと乗せます!冴島は意識はあるでしょうか…体力はすでにこの1キロ、限界を迎えていました…今、暖かい毛布が掛けられ、冴島が運ばれて行きます――』




