名前を呼んで
「ねぇ、ナディア。こんなことを言って、今更かもしれないけれど、どうか、笑わずに聞いてほしいんだ。いいかい?」
「ん? 全然いいんですけど、何だか急に、格好いいですね」
「ん? そう?」
「はい」
ちょっと気持ちが昂り過ぎて、芝居がかったようになっていた。ナディアはオールオッケーとばかりにむしろうっとりしてくれているが、恥ずかしいので落ち着こう。
ヴァイオレットは小さく呼吸をしてから、改めてナディアを正面から見つめる。そっと手を取る。何度も触れて、キスをした手。可愛くて、だけどいつだって頼もしく、ヴァイオレットを支えてくれる。
「ナディア、私と結婚してほしい。今まで何度も、結婚を前提に話をしてきて、今更と思うかも知れないけど、ちゃんと言うのは初めてだよね? 愛してる。だから家族として一生を共にしてほしい。結婚しよう」
「っ……はい。はい、はい! もちろんです!」
ナディアはぎゅっとヴァイオレットの手を握り返し、何度もうなずきながらそう元気いっぱいに応えてくれた。
返事何てわかっていた。それでも嬉しい。幸せに限りなんてないのだと、ナディアはヴァイオレットが今まで知れなかったことをたくさん教えてくれる。
ナディアと一生を共にすることは、もう疑うことのない未来だ。失うことなんて、考えることすらできない。
「うん、ありがとう。じゃあさ、今度は、ヴァイオレットって呼んでみて。婚約者なのに、いつまでもマスターじゃおかしいしね」
いつ頃言おうかと思っていた。マスターと言う呼ばれ方も新鮮だし、親愛を込めて呼んでくれているのでナディアだけの特別な呼び方で、けして嫌ではなかった。関係上、あまり外聞の悪いこともできないので、仕方ない部分もあった。
なによりナディア自身がそれに馴染んでいるようだし、呼び方を変えるのはもっと後からでいいだろうと思っていた。
だけど、呼ばれたくなった。ずっとではなくてもいい。だけど二人きりの時くらい、名前で呼ばれたい。だってヴァイオレットの名前は、マスターでも菫でもなく、ヴァイオレットだから。
「え、ヴァ……あ、改まると、恥ずかしいですね」
ヴァイオレットの提案に、ナディアは手を下ろして、両手でヴァイオレットの手を揉むようにしながら、照れて視線を泳がせた。
「えー、さっき、スミレとはすぐ呼んでくれたのに」
「そ、それはその、マスターの名前ってわかっても、実感がないので、その、ちょっと変わった別名を呼ぶくらいの感覚でしたもん。だから、他ならぬヴぁ、ヴァイオレット、さん、って呼ぶのは、その、やっぱり、名前を呼ぶって意識しちゃって、なんだか、どきどきしちゃいます」
躊躇いながらの、拙い、慣れない呼び方。だけどそれをナディアが、ときめきに身をよじりながら言ったのだとわかっているので、ヴァイオレットもまた全身が動き出しそうなほど嬉しくなってしまう。
「そ、そっか。ありがとう。慣れないならずっとじゃなくていいけど、とりあえず今とか、二人きりの時とか、ちょっと、呼んでみてよ」
「ふふ。二人きりの時だと、殆どずっとじゃないですか」
「はは、ばれたか。うん、じゃあ、とりあえず今だけ。はい、もう一回」
「う……、はー」
ナディアは大きく3回深呼吸してから、きっと睨み付けるかのような真剣な顔でヴァイオレットを見て、ぎゅううと痛いくらいにヴァイオレットの手を握りしめ、自身の胸元に引きよせる。
濡れた瞳で見つめれ、谷間に押し付けられた指先がかすかに胸にあたるのも心地よくて、どんどんドキドキが加速するヴァイオレットに、ナディアは切羽詰まったような色っぽい声を向ける。
「ヴぁ、ヴァイオレットさん……好きです」
愛おしすぎる! 今すぐ抱きしめてキスしたくなったが、握られている手を握り返して胸にあたらないようにして、感情を力に込めて逃がして我慢する。
「……もう一回、名前を呼んで」
胸にたまった空気を鼻から出して、勢いで閉じてしまった目を開け、お願いする。ナディアは真っ赤になったまま、眉を寄せて、だけど嬉しそうに口角をあげて、そっと口を開く。ほんの少しあけた唇の隙間から、可愛い声を聞かせてくれる。
「ヴァイオレットさん」
「うん、ナディア……愛してるよ」
「ふふ、もう。……ヴァイオレットさん、私も、愛してます」
じっと見つめあっていた。そして、どちらからと言うことなく、ヴァイオレットは腕に力を込めて、ナディアもまた自分から近寄り、ヴァイオレットはナディアを抱きしめた。
そしてその力のまま、軽く転がる。腰に手を回し一体となって、余った力を発散させるように、ごろごろと数度転がる。お互いの重さを感じあえるのが、どうしてかとても幸せに思えた。ナディアの体重は、思った以上に軽くて、だけど自身の体にのった状態になるとそれなりに重くて、これがヴァイオレットの幸せの重さか、と思うと、とても尊くて、愛おしく感じれた。
「ま、マスター」
「あ、マスターに戻ってるね」
マットの端まで転がって、じっと抱きしめるとナディアが堪えたようにそう呼んだ。からかうように指摘すると、ヴァイオレットの上にのりあげている形になっているナディアは、顔をあげて上からヴァイオレットを見下ろしてから、視線をそらした。
「う。すみません、つい」
「謝ることはないよ。その内、慣れていってくれたらいいから。今はまだ、マスターで、呼びやすいように呼んでよ」
「は、はい。じゃあ、マスター」
呼びながら、ナディアはヴァイオレットと目をあわせる。ナディアの今日の髪形は、ポニーテールだ。さすがにずっと変え続けられるほど髪形のレパートリーはない。ただ結ばれているだけの髪は重力に従い降りてきて、光を遮る。
まるで世界から、ナディア以外の全てがなくなったようだ。だけどそんな非現実的な発想になっても、全く悲壮感はない。むしろ、なんて幸福なことなのかとすら感じられた。
「ナディア、生まれてきてくれて、ありがとう」
「……ふふ! もう、なんですか? もう、本当に、マスターは……」
言葉を切ったナディアは、そっと顔をよせて、ヴァイオレットの頬にキスをした。触れるだけで、舐めることもない。だけど、確かに愛を、幸福を感じた。
「そんなマスターが、本当に、大好きです」
「うん……ありがとう、ナディア。これから、末永くよろしくね」
「はい、マスター。ずっと、ずっとですよ」
可愛く念押ししてくるナディアに、ヴァイオレットはたまらずもう半回転してナディアを下にして、頬にキスを何度も落とした。
○
「ねぇナディア、先走って言ってしまったから、後回しになって申し訳ないんだけど、指輪を買いに行くのは今度でもいい?」
ついつい気持ちが高ぶってしまった。告白の時が急だったので、プロポーズこそ準備をして、ロマンチックなものにしようかな、なんて考えたこともあったのに。その前に結婚前提の会話をし過ぎていつにするかも決められず、実行に移す準備をする前にしてしまった。
こらえ性のない自分に呆れつつ、だけど思いが爆発してしまうほど、ナディアに対しての愛情が膨れてしまったからで、それはヴァイオレットにとって悪い気持ちではない。ナディアさえ許してくれるなら、こんなのもいいだろうと思えてしまう。
だけどそんなヴァイオレットに、ナディア手を繋いで隣で寝転がったまま顔をあわせてきょとんとした。
「え、指輪ですか?」
「うん、あ、でも成長するかも知れないし、まだ後の方がいいのかな?」
「え? いえ、と言いますか、指輪が後回しと言われましても。絶対必要な物みたいな言い方ですけど、そうなんですか?」
「うん? まぁ結婚したなら結婚指輪をつけるよね。結婚した証として。これは私の前世でもそうだったけど、宝石店でも同じ話を聞いたから、この世界でも同じはずだけど」
結婚指輪と言う概念は間違いなく存在しているはずなので、普通に共通概念として話題に出したのだけど、ナディアの反応に語尾が弱くなってしまう。
そんな不安げになるヴァイオレットに、ナディアはへーと軽く相槌をうつ。
「あ、そうなんですね。エルフでは必ず指輪ではないですね」
「そうなの? ならエルフ流の結婚の証は何になるの?」
「んー、証、と言うほどではないですね。結婚する時に必須ではないですし。ただ耳飾りを送りあう習慣はありますし、子供が生まれるころにはだいたいみんなつけてますね。大人の証みたいな印象の方が強いです」
「あー……確かに、飾り甲斐がありそうな耳だもんね」
横向けに寝返りをうち、空いている右手を伸ばしてナディアの右耳をぴこぴこはじく。ナディアは、もう、と口では文句を言いながら微笑んでヴァイオレットに向かって寝返りをうって向かい合う。
ヴァイオレットはナディアの動きでいったん宙にあげた手をまたおろして、今度はナディアの左耳を軽くつまんで親指で撫でる。ナディアはそれにくすぐったそうに身をよじってから笑う。
「ふふ。飾り甲斐って。まぁそう言うことなのかも知れないですけど。でもそれもずっとつけるものでもないですし、つけているから結婚した証みたいな感じではないですね」
「そうなんだ。うーん、じゃあ、こだわりがないなら、とりあえず指輪でいい? もちろん、耳飾りもいずれ購入するとして」
「無理に買ってもらうことはないんですけど、ネックレスでは駄目なんですか?」
不思議そうにされる。駄目と言うことはない。ヴァイオレットはそうではないが、仕事上指輪をつけていられない職業も少なくないし、アレルギーだって認知されているし、そもそも宝飾品なので安いものではないのだから、無駄だからいらない、と言う選択肢もあるはある。
なので一般的に結婚しているけれど結婚指輪はなし、と言ったから変に思われるようなことではない。ないけれど、つけていれば結婚していると思ってもらえる程度には一般に浸透している。だからヴァイオレットとしてはつけてほしい。ナディアに悪い虫がついてほしくないので。
「駄目って言うか、少なくともこの街では結婚指輪をずっとつけて結婚している既婚者の証みたいなものだからね。ナディアにつけてもらって、私のものだよってわかるようにって言うか、変に絡まれないようにしたいだけで。あ、っていうか、ものって言い方失礼だよね、ごめんね」
「謝らないでくださいよ。どきっとしたのに。そういう事なら是非是非。もちろんマスターもつけてくれるんですよね? 前はあんまり指輪をつけないっておっしゃってましたけど」
「それはもちろん。結婚指輪は特別だからね」
嫉妬しているとか余計な感情をつけないようにして言おうとしてよりおかしくなってしまった、と思って慌てて修正したのだけど、ナディア的にはむしろよかったらしい。
提案も前向きに受け入れてもらい、少しほっとしながら頷くヴァイオレットに、ナディアは何故かにんまり笑う。
「……んふふ、マスターに私のものって言う証が付くと思うと、なんだか、こう、嬉しくなっちゃいますね!」
「う、うん。そうだね」
同じ独占欲のはずだけど、何故かちょっと勢いに押されてしまうヴァイオレットだった。テンションの上がったナディアは、にまにま笑ったまま左手でヴァイオレットの耳を撫でだした。
自身が先にしているのだけど、ナディアはこの丸い耳を触って楽しいのか、いまいち謎なヴァイオレットだった。




