菫
翌週末に建国祭を控え、町全体が浮ついた雰囲気になっている。それに反比例して、治安を守ろうとピリピリしている人たちもいるが、ヴァイオレットは呑気なもので、今日も今日とていつもの週末と同じで、ナディアとデートである。
「次の週末のお祭りでは、どういう風に回ろうか。お祭りについても色々聞いてきたんだよね? 興味あるのとかあった?」
「全部あります!」
「なるほどね。じゃあ、まぁ初めてだし、全部回ろうか。初日のパレードも見やすい場所知っているから、そこで見て、二日目の観戦も席はなんとかなるし、三日目は町全体がお祭り騒ぎ状態で色んな出店をしてるのを見て回る感じでいいかな?」
「はい! 楽しみです」
ヴァイオレットも学生時代は友人たちと穴場を探して回ったりしていたので、一通りお祭りには精通している。さすがにここ数年は適当にぶらつくくらいだったが、それも逆に今年が新鮮に感じられていいだろう。
そんな話をしながら、今日は以前にも来た学園棟から見えるちょっとした丘と花畑の穴場のピクニックスポットに向かっている。街への出入りが厳重になりだしているので外に出るのも億劫だし、町全体が騒がしい。しばらく涼しくなっていたのが、この数日は太陽が季節を間違えたようにあたたかく春のように感じられたのもあり、ちょっと喧騒を離れる気持ちでやってきた。
「ここに来るのは久しぶりだね」
「そうですね。そう言えば、初めてマスターにマッサージしたのもここでしたよね。今日もしましょうか?」
「お願いしようかな」
あれから体の調子はすこぶるいい。かなりコリもほぐれていて、毎日のマッサージは必要ないくらいだ。もちろん今も定期的にやってもらっていて、体調をキープできている。前回は2日前にしてもらったところだが、マメにしてもらって悪いと言うことはない。ナディアがいいならお願いすることにする。
「はい、いいですよ。マスターをとろとろにしてあげますね」
「その言い方、何だか恥ずかしいなぁ」
「そうですか? ふやけているマスターの可愛さをうまく言えたと思ったんですけど」
「人には言わないでね」
「ふふ、わかりました。マスターは恥ずかしがり屋さんなので、二人だけの秘密ですね」
「う、うん」
にこっと微笑んでウインクしながら言われた。可愛すぎるけど、今のはわざとヴァイオレットを恥ずかしがらせようとした気がする。可愛いので文句言えないけど。
誤魔化すようにヴァイオレットはナディアから視線をそらす。
「あ、菫だ」
「え? この花ですか? この花、スミレって言うんですか?」
「あー、いや、違うんだけど」
「?」
思わず視界に入ったのでそう言ってしまったけれど、菫ではない。菫はヴァイオレットの前世の世界にあった花の種類だ。この世界はよく似ているけれど、違うところも多い。見た目が似ていても、実際の生態なども違う種類だろうし、何より名前が違う。
だけど菫はヴァイオレットにとって、思い入れのある花で、ついついその名前を呼んでしまったのだ。
「菫は前世での似た花の名前なんだ、この世界ではオレットって名前だよ」
「そうなんですね。オレットって名前は知ってましたから、ビックリしました。すみれ、ってなんだか可愛い名前ですね」
「そ、そう? ありがとう」
「? なんでマスターがお礼を言うんですか? あ、もしかしてマスター、マスターが発見してスミレって名前をつけたとか?」
「いやいや。そうじゃなくてね」
その発想は少しヴァイオレットを過大評価しすぎである。なかなか新種を発見して名前をつけるなんてない。仮にヴァイオレットの前世が熱心な植物学者だったとしても、一生に一度でもそんな機会がある方が少数派である。
だけどこれを言うのは、少し気恥ずかしい。ヴァイオレットにとって、前世はもはや遠く、終わった話だ。思い出の中の遠い遠い出来事だ。けしてないがしろにするわけでも、捨てたわけでもない。だけど遠すぎて、誰にも言ったことがない。心の奥にしまってきたことを口に出すのは、抵抗がある。
「マスター? 何か言いにくいことなら、言わなくてもいいですけど」
「うーん、そうじゃないんだけど……前世で、私の名前、菫なんだよね」
もう、家族の名前も思い出せない。だけどその名前を誰かが優しく呼んでくれた、そんなぼんやりした記憶は、その感じた幸福は、胸の中にちゃんと残っている。大事な思い出であることは間違いない。
「え、そうなんですか!? じゃあ、マスターの今のお名前は?」
「ああ、たまたま、生まれてすぐに名前を決める段階になって、スミレって変わった名前だし、生まれ変わったのだから変えようってなって、その時、窓からこの花が見えたんだ。それで、菫は菫色の、この花の色の意味もあるんだけど、その別名、と言うか、別の言い方がヴァイオレットって言うのを思い出して、ちょうどいいかなって」
オレット、と言うのは単にこの花を見つけた人の名前からとられているので、ヴァイオレットを思い起こす音、オレットがついているのは偶然に過ぎない。だけどその時はその奇妙な偶然が、とても嬉しく感じられて、オレットの響きがおかしくないならと、ヴァイオレットにしたのだ。
生まれ変わったのだと、名前を変えることに同意しておきながら、結局前世に引きずられた名前をつけてしまう。そんな己の女々しさが恥ずかしくなって、濁したようにそう伝えた。
するとナディアは一瞬、ぽかんとしたような顔をしていたけど、すぐに口を開けたり閉めたりして躊躇ったような態度になった。
ヴァイオレットもそれに気が付き、そらしていた顔を向けて、握ったままの手を揺らして気を引く。
「ナディア? どうかした?」
「あ、あの、それじゃあ、私……スミレさんって、呼んでみてもいいですか?」
「……そう、だね。今の私は、ヴァイオレットだし、それは間違いないけど、でも、ちょっとだけ、今だけ、やってみようか」
「はい……じゃあ、その、スミレさん、行きましょうか」
「うん」
スミレさん、と呼ばれた瞬間の気持ちを、何と言おう。
すごくすごく、懐かしくて、だけど二度と手に入らないものの幻を見たような、少し悲しい気持ちになった。でも同時に、それを今、愛しい少女が口にしたのだ。間違いなく自分に対して。
それは、子供の頃の宝物を、自分でも忘れていた人から見たら価値のない、だけど自分にとって輝いて見えて地面に埋めた宝物を、掘り起こして褒められたみたいな。そんな一言では言い表せない喜びも感じた。
ヴァイオレットは言葉がでなくて、黙ったまま、ナディアの手をひいて前回の場所まで歩いた。ナディアもまた、黙ってくれた。ただ歩く距離はいつもより近くて、肩がぶつかるほどで、それがどこか、道を照らしてくれる灯りのように頼もしさを感じた。
「あの、スミレさん、つきました、ね」
「うん、そう、だね。ちょっと、座ってゆっくりしようか」
「はい」
手を離す。殆ど無意識にお互いに力をこめていたせいか、繋いだ手は蒸れて、空気がやたらと冷たく感じられた。
それを寂しさに勘違いしてしまいそうになるのを堪えて、荷物を置いて、マットをひく。靴を脱いで、マットに座って腰をすえて、お茶をだす。カップに入れてゆっくりと飲む。少し心が落ち着いた。
ナディアを見ると、ナディアもお茶を飲み終わったところだった。
「ねぇ、ナディア。もう一度、名前を呼んでもらっていい?」
「はい。スミレさん」
落ち着いて正面から聞く。ナディアはどこか照れたようなはにかんだ優しい笑顔で、ぎゅう、と胸が締め付けられるようだ。
殆ど反射的に右手を自身の胸において服を握りしめていた。落ち着くために息をついて、くるりと体を回して空を見上げ、そのまま後ろ向けに倒れた。
だいたい計算していたけど、ちょうどナディアの膝に納まれた。顔を撫でるように髪が整えられる。そしてそっと額に手が当てられる。少しだけひんやりした手だ。
目を閉じる。瞼ごしに光が照らしてくる。木陰を通して、ちらちらと光るのがわかる。
「ナディア、もう一度、呼んで」
「スミレさん、好きです」
「……うん、私も」
目をあける。ナディアの瞳と目があう。その優しい、美しい瞳。これ以上ないだろう。何度だって見とれるし、何度も見たいし、何度でも恋に落ちるだろう。この人と生きていきたいと、今まで以上に思った。
ヴァイオレットはじっくりと自身の感情を噛みしめて、そして起き上がった。ナディアと向かい合う。ナディアは少し不思議そうで、もっと膝枕したかったとばかりに、自身の膝に手を置いて軽く叩いている。ちょっとおかしい。
「ありがとう、ナディア。もう、スミレはいいよ」
「そうですか? これから二人の時はずっと呼ぶとか、そう言う風にしないんですか?」
「うん。だって、今の私は、ヴァイオレットだからね」
確かに、菫はヴァイオレットにとって、自分の名前だった。今ヴァイオレットと名前を変えても、最初には自分の魂に菫と言う名前がつけられたのだと、そんな気でいた。
だけど今、ナディアに菫と呼んでもらって、それを噛みしめて、わかった。
ヴァイオレットはもう、菫ではないのだ。この世界で生きる一人、ヴァイオレット・コールフィールドなのだ。頭でわかっているだけではなく、もうそれが当たり前で、それが無意識に染みついているのだ。
スミレと呼ばれて、懐かしかったし嬉しかった。だけどそれ以上に、この、心から愛する少女には、ヴァイオレットと呼ばれたいと、そう思った。
「久しぶりに菫って呼ばれて、嬉しかったよ。だけど、だからこそ、もういいんだ。私はもう、ヴァイオレットだから」
「そうなんですか?」
ナディアは不思議そうにしている。ヴァイオレットが、菫と言う名前を教える時の表情、呼んだ時の雰囲気が、それほど求めていたように見えたのだろう。
それは本当だ。だけどそれは本当に、ただの未練で、過去の残骸でしかなかった。ナディアが当たり前に前世を受け入れてくれて、当然のように愛おしさを込めて呼んでくれたから、もういいのだと思えたのだ。ナディアが呼んでくれたから、菫はもう、十分なのだ。
だけどそれはナディアにはわからなくていい。ただ純粋に呼んでくれたから、ただヴァイオレットを思ってくれているから、菫はすくわれたのだ。だから、わからなくていい。




