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湖の上で

 今回はそれほどはしゃぎまわったわけでもないので、ほんの短い仮眠で済んだ。目が覚めて、開くと同時にナディアの顔が目に入る。さすがにじっと見ていたわけではないようで、ちょうど楽しそうに遠くを見ていた。

 下から見ても、こんなに美しいと感じるとは。改めてナディアはつくられたかのように美しい。顎の輪郭線ひとつとっても、はっとするほどだ。


「あ、おはようございます、マスター。起きたんですね」

「うん、おはよう、ナディア」


 目を開けているヴァイオレットに気が付き、ナディアは微笑んで髪を耳にかけながら振り向いた。可愛い。


「ふふ、マスターは今日も、良い顔で寝てましたよ」

「ん、そう言われると恥ずかしいな。涎とかたらしてないよね?」

「よ、よだれって、もう。えっち」

「え? まぁ、ないならいいけど。起き上がるね」


 ゆっくり起き上がる。ボートも問題ない。もちろん、いまのところはと言うただし書きはつくが。


「とりあえず大丈夫そうだし、ボートをここに放置してみて、時間がたっても大丈夫かを確認してみようか」

「それだと、雨とか降ったら転覆しません?」

「一応、固定するためのロープと、カバーもあるんだけど。まあそうなったらそうなったで、どうなるかだよね。一応、あくまで遊具ってことで売り込むからそこまで本格的な性能は求めてないけど」

「釣りとかには使えないんですか?」

「少しくらいなら使えるけど、大量にとると重量オーバーになるし、そこまで大きくないからね」

「と言っても、一人で乗って普通に各家庭分くらいなら大丈夫ですし、悪天候で流されること考えたら、逐一持ち帰れるのも結構いいものの気がしますけど」

「うーん? 確かにそうかもしれないね。私にとっては漁ってもっと大きい船で網をつかって大量にとっているイメージだからそう言ったけど」


 仕事、までいかなくても自給自足生活くらいの人の生活用品としても需要はあるのか。その発想はなかった。あくまでこれは手慰みと言うか、思い付きでつくったものなので、別に駄目でも構わない。まだ発注をかけたわけでもない。そこは商人任せにする予定だ。だけど売れたらそれはそれでもちろん嬉しい。


「まぁ、そこは実際に売る人に任せてもいいでしょ。とりあえず陸にもどろうか」

「わかりました。じゃあ漕ぎますね。お店にも持って行くなら、そろそろ帰りましょうか」

「うん、あ、でも逆に膝枕したりしなくていい? なんだか私だけ癒されて、私の都合で湖にきて、申し訳ないんだけど」

「ふふ、なに遠慮してるんですか? 全然気にしなくて大丈夫ですよ。街もマスターの家も好きですけど、やっぱりこう、たまに森とか自然のところに来るの、なんというか、落ち着くと言いますか、楽しいですよ」


 今の生活に不満があるわけではないけど、やっぱり故郷の雰囲気を感じるような自然にふれるのも好きらしい。だったらよかった。ヴァイオレットもたまにはこうして自然を感じるのは好きだし、そこも気が合うようでよかった。

 なんだか嬉しくなるけど、だけど今の時間は本当に、膝枕してもらったままで何もしていなかったけど、それでもいいのだろうか。


「今日は釣りとか、何にもしてなくても?」

「マスターが傍にいて、何にもしていないのがいいんですよ。すごく幸せでしたよ」

「ナディア……ナディアは、何ていうか、本当に、いい女だね」


 健気で献身的で、それを苦に感じずに笑顔でいてくれる。ただ傍にいるだけでいい、と心から言ってくれる。それは、ヴァイオレットだってそう思ってはいる。ナディアが何もしなくても、傍にいてくれるだけで、何となく落ち着くし嬉しくなる。

 だけどナディアがそんな風に思ってくれているのは、本当に嬉しい。胸にこみ上げてくるものがある。ずっと一緒にいたいねと言いあうだけではない。純粋に傍にいる瞬間に、これが幸せだと感じてくれている。それが、それ自体が、言葉にならないほどの幸福だと思えた。


 しみじみと言うヴァイオレットに、ナディアはくすくす笑いながらオールを漕いで、ボートの底がつくところまで寄せた。そしてボートから降りて引いて陸に向かう。


「ふふ、なんですか、それ。エルフなので女じゃないんですけどね。でも、マスターがそう思うなら、女になってもいいですよ」

「あれ? エルフの中でも、男女の役割分担はあるんだよね?」

「男女の、ではないんですけど。家庭をつくるなら、家庭内でできる仕事や家事を主にする側と、外に出て働く側に役割分担しますし、魔力量の関係でどちらかだけが産む側になるので、産んだ親と、産ませた親でもかわるので、まぁこっちでの男女の役割分担に似たところはありますね」

「なるほどね。まぁそうか。でもナディアはお姫様になりたいんだよね? お姫様は女の子じゃない?」

「お姫様は立場と言うか、役割のような感じじゃないですかね? 私は女として扱われるのは全然いいんですけど、ただ、こっちで言う男性的な役割をしているエルフが、男として扱われるのは多分嫌だと思います。女はエルフと同じ体ですけど、男は全然違いますもん」

「あーなるほどね」


 そもそもこの世界は同性でも子供ができるのだ。だからヴァイオレットが思う以上に、男女の役割差と言うのは明確になっていないのかもしれない。

 ただそれは置いておいて、エルフにとっては全員が女よりの無性であって、外見は女と同じ形なので女扱いはいいけど、男とは全然違うから男扱いはさすがに怒ると。


 頭では理解しても、ヴァイオレットにとっての男女などの価値観はどうしても前世よりになってしまう。だけど今、少しだけ実感できた気がする。

 ナディアは男であることにも、女であることにもこだわっていないのだ。似ているから女扱いならセーフ、くらいのものなのだろう。例えば仮に性格であっても外見が可愛い動物に似ていると言われて悪い気はしないけど、醜い動物と似ていると言われていい気はしない、ようなものだろう。


「はい、到着です」

「ありがとう、ナディア。すっかりお世話になって、ごめんね」

「ふふ、いいんですよ。でもそこまで言うなら、マスターの……ふふ、後の楽しみにしますね」

「うん、わかったよ」


 何だかわからないけど、とりあえずいい笑顔なので覚悟だけしておくことにした。


 ボートから降りて、何か重しになるものを、と言うところでナディアが駆け足で行って大きな石、と言うかもはや岩を持ってきてくれた。1.5人分はありそうだ。岩をのせて、雨で水没しないようカバーをかけて、その上に小さい石をいくつかのせて飛ばないようにする。ボートの先端にある穴にロープを通し、ロープを木に括り付けて固定する。


 これでとりあえず大丈夫ではないだろうか。本当はカバーもしっかり紐を通して止められるような穴があれば良かったが、お願いする時にそこまで考えていなかったので仕方ない。


「じゃ、帰りましょうか。今からなら夕方には街につきますし、そのままお店に行きます?」

「んー、そうだね。実物はまだ実験中だけど、とりあえず遊具としては大丈夫だったからね。設計図とか発注書とか家にあるから、それを持って挨拶だけしてくるよ」


 並んで鞄を置いておいた場所まで移動しながら、そう言うと、ナディアはにっこりほほ笑む。


「わかりました。じゃあ私は夕食作って待っておきますね」

「ありがとう。ごめんね、途中から仕事みたいになって。デートなのに」

「いいえ。私、マスターがお仕事してるの好きですから。それに、ボート楽しかったですよ」

「……ナディア、ちょっと」

「ん? 何ですか?」


 荷物置き場にたどり着き、鞄に手をかけたナディアを呼び止め、振り向かせる。そしてそのまま、正面から抱きしめた。

 ナディアはヴァイオレットより頭半分ほど小さいので、抱きしめると肩がちょうどすっぽりと腕の中に入り、とてもおさまりがいい。

 きゅっと軽く抱きしめると、ナディアはヴァイオレットの服の裾をひっぱるように持ち応えながら、顔をあげた。


「マスター? どうしました?」


 不思議そうに、だけど照れてはにかんだ笑顔も、ぎゅっと握られた裾から伝わる感覚も、全部がヴァイオレットの行動を受け入れてくれていて、たまらなくなってぎゅうっと抱きしめる力を強くして、頭をナディアにあてておでこ同士をぶつけるような形になる。


「ふふ、ごめんね。ナディアがとっても可愛いから、抱きしめたくなって」

「も、もう。そんなに急がなくても、家に帰るじゃないですか」

「街中ではできないからね。我慢できなくなって。ごめんね」

「あ、謝らないでくださいよ、そんなの、全然、良いですって言うか、私も、嬉しいです」

 

 ナディアは首をひねるように顔を押し付けてきて、頬と頬がぶつかる。ぐいぐいと頬ずりされると、少し汗ばんできた肌はさらさらではなくもちっとした感触を伝えてくる。


「ナディア、くすぐったいよ」

「ふふふ。マスターのほっぺた、気持ちいいです。ね、いいですか? 今いいですか?」

「え?」

「んっ」


 至近距離すぎて表情が確認できず、ナディアの勢いのいい問いかけに聞きかえすが、それに答えずナディアはぐっと背伸びをしてヴァイオレットの頬に口づけた。

 あっけにとられる間もなく、ナディアはさらにぺろりと舌を出した。当然その舌は密着したヴァイオレットの頬を撫でる。


「!」

「んー!」


 驚いて抱きしめていた腕から力が抜けてのけぞるヴァイオレットに、ナディアは顔を離して自身の頬に手を当て、左手は自分の太ももを叩いている。その表情はとても幸せそうだ。

 そのまま一歩退いたヴァイオレットに、にこっとナディアは微笑む。


「ごちそうさまです、マスター。ふふ、びっくりしました?」

「び、びっくりした」

「ふふふ、お返しです。続きは帰ってからしましょうね」


 そう言いながらナディアは元気に鞄を背負った。ヴァイオレットはつられるように自分の頬に右手をあて、ぬるりとした感触に胸が高鳴った。

 ただ帰る前に顔と手は洗った。何か言いたげに見られたけど、いや、人と会うのにこのままではちょっと、まともに挨拶できる気はしないから許してほしい。


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