見つめあうと素直にお喋りできない
「マスタぁ」
とんとん、とノックと共に甘えたような可愛い声がして、ヴァイオレットは飛び上がるように席をたった。
「ど、どうかした? ナディア」
今日の余韻にお風呂上りにのんびりにやついてから、全く何もせずに戻ってきたので、さすがに明日からは仕事だ、少しくらい手をつけておこう。としたところでのノックなので、妙に動揺してしまった。
ドアを開けて迎えると、予想通りお風呂上がりの姿だ。あまりまじまじと近くで見ることは少ない。
動揺を隠して尋ねるヴァイオレットに、だけどはにかんだような笑顔だったナディアはぷぅと頬を膨らませた。
「どうかした、はないと思います……。マスターは乙女心がわかってません」
そう言われて慌てるヴァイオレット。あんまり今日が幸せで、そして常識がひっくり返って、いろんなことがありすぎて疲れていた、と言うのは言い訳だろう。
恋人になったばかりの相手が訪ねてきて、どうかしたもくそもあるか。会いたいから、だけで十分すぎる。用事を尋ねるなんて無粋にもほどがある。
「ご、ごめん。ナディアと恋人になれたことで胸がいっぱいで、ぼーっとしてて。会いに来てくれて嬉しいよ」
「そ、そういうことなら、いいですけど。んふふ」
仕方なく許してくれた風にしているけど、嬉しさが声に出ている。完全に声に出して笑っている。可愛すぎか。
とりあえず、どうぞどうぞと部屋にいれて座るところもないのでベッドに座らせてしまったけど、どうしよう。とヴァイオレットは内心焦っていた。
NOなんて言えるはずもないし、気持ちとしてはもちろん迎え入れることに異論はない。しかし、ただでさえ恋人になって浮かれている状況で、お風呂上がりのナディアを隣に置くなんて。
正直、下心でドキドキしてしまっている。まだ未成年のナディアだ。そんなことは考えていないだろうし、恋人になった当日に手をだすなんて体目当てのようで不誠実ともいえるだろう。ヴァイオレット自身だって、そんな一足飛びの関係は嫌だとも思う。
だけどそれとは別で、やっぱりドキドキしてしまうに決まっている。こんなに可愛い愛しい少女が無防備に自分のベッドに座っているのだ。変な気が起きない方がどうかしている!
ヴァイオレットは誤魔化すように、あえて机の前の椅子をベッドに寄せて座った。
「こ、今夜は少し、暑いね」
「ん? そうですか? むしろ、少し涼しいくらいですけど」
そうだっただろうか。そう言われてみればさっきはそう思ったような? いやいや、これはけしてナディアを目の前にして体がほてってきているわけではない。お風呂上がりだからだ。
「そっか。ナディアが過ごしやすいならよかった」
「マスターったら。私は別に、影響ないですって。もう。そんなのどうでもいいじゃないですか。もっと楽しい話をしましょうよ」
「楽しい話って、例えば?」
「例えばですか? えー、どうしよっかなー。うふふ、じゃあじゃあ、マスターは私のどこが好きですか?」
急な無茶ぶりに思い付かず聞き返すと、非常に楽しそうに提案された。
きらきらお目めで可愛いけど、そんな最初からバカップル全開で。いや、好きなところならたくさんあるし、話題にも困らないけども。だけどもそんな、すでに結構ドキドキしていっぱいいっぱいなのに。
「え、そういうの、聞きたい?」
「聞きたいですよー。なんでですか? あ、私から言いましょうか?」
「い、いいよ。恥ずかしいから」
正直聞きたいか聞きたくないかなら、聞きたい。聞きたいけれども。でも今このシチュエーションでそんな会話したら死んでしまう。
そうほとんど反射的に否定してしまうヴァイオレットに、ナディアはむっと唇をとがらせる。
「もー、なんですか。マスター、ちょっと恥ずかしがりやすぎじゃないですか? 可愛いですけど、さっきだって、背中流すのも断りますし」
「え、それは。と言うか、ついこの間も背中拭いてもらうの遠慮したくらいなのに、なんでそんな背中流そうとしてくるの?」
「何でって言いますか、今は恋人じゃないですか」
むしろ何言ってるの? くらいのきょとん顔で言われた。確かに状況変わっているけども。
「いや、ナディアの方が恥ずかしいのは、その、ナディアのことが好きだから余計恥ずかしいってことなんだけど」
「え。う、うーん? う、嬉しいような。でも、まぁ、そりゃあ赤の他人ならともかく、背中くらいよくないですか? あ、もちろん、大事なところは隠す前提ですよ?」
「えー、うーん」
家族なら、と言うのはわからなくもない。と言うかそもそも、元々はヴァイオレットは赤の他人でも同性ならまじまじ見るならともかく多少肌を見せるくらい気にならない性格だ。前世では公衆浴場も好きだった。
この体になってから、積極的に見せようとは思わないがそこまで気にして生きてきたわけでもない。むしろ普段は体のことなんて全然意識しない。それこそ大事なところさえ隠せばいいのだし、先日の風邪のような状況ではなくて、水遊びの流れで着替える際に背中を見られたところでどうということはない。
しかし恋人となると同性だとしても、そう簡単にはいかない。少なくとも、ヴァイオレットがナディアの肌を見るとなると、平静とはいかないだろう。想像しているだけで、ちょっとくるものはある。
むしろナディアの方が、恋人になったのに何を普通に背中を流そうと言うのか。家族枠により近づいたとは言え、血のつながった家族と言う訳でもないのだから、ヴァイオレットの考えのほうが正しいようなきもする。
と思ったヴァイオレットだが、しかし本人も大事なところは隠す、と言っているのだ。つまり本当に背中しか見えないようにするのだろう。ナディアの理屈で言えば、むしろ背中だけでもよこしまな気持ちになってしまうだろうヴァイオレットの方が問題なのかもしれない。
そこまで考えて、ヴァイオレットはこのまま会話を続けてもいい流れにならないことを察したので話題を変えることにした。
「ごめんね、その内、慣れれば背中もお願いできるようになると思うから」
「ほんとですか? 嬉しいです」
「嬉しいの?」
「はい。だって背中を預けるって、信頼の証じゃないですか」
「そう言われてみれば……?」
蛮族的にはそう言うことになるのか、とヴァイオレットは納得した。
そうしながら、ヴァイオレットは会話をすることで少し落ち着いてきたのを自覚した。ナディアの登場から、正直ずっと動揺していた。
だって可愛いから。お風呂上がりのナディアは可愛いだけではなく、さらに色気があって、しかもそれが恋人で、ベッドの上にいるのだ。その時点でそわそわしてしまうのはしょうがない。
だけどそんなナディアもじっと見つめながら、冷静に会話していれば、多少はなれてきた。お風呂上りではなくたってナディアのことは好きで、すでにドキドキしていたのだ。ならお風呂上りでも、見慣れればそうそう暴走することもないだろう。
ヴァイオレットは、心の中で、よし、と気合をいれた。
「ねぇ、ナディア、隣に行ってもいい?」
「え、いいですけど、と言いますか、マスターの部屋ですし……むしろ、何で椅子に座ったんですか? 私、マスターと手を繋ぎたいです」
「え、あ、ごめん。お、お邪魔します」
不思議そうにしてから、はにかんでナディアはそう軽く手を振りながら提案してきたので、ヴァイオレットは思わず視線をそらしてしまったのを誤魔化すように立ち上がり、おずおずとナディアの隣にすわる。
いつも通りのベッドの柔らかさが、過剰にここが寝具だと意識させてくれて少し挙動不審になりそうだったのを気合でカバーする。
「ふふ、お邪魔しますってなんですかぁ。もう、何だか今日のマスター、可愛いですね」
「え。あ、ありがとう。えへへ」
ふふふと微笑まれて、その年上みたいな雰囲気に照れくさくなりつつも、可愛いと言われて悪い気はしない。
ナディアは年下だし、できれば大人として格好良く見られたい気持ちもあるけど、気持ちは女子なので可愛いと言われるのも嫌ではない。むしろナディアは時々、包容力のある年上の美人に感じる時もあるのでむしろ嬉しい。
年下としてもいいし、年上ぶっても素敵とか、一人で二度美味しいこんな子が恋人とか、夢でも見てるのかも思うくらい嬉しい。また気持ちが高ぶってきた。いけない。落ち着かなければ。
ナディアに気づかれない程度に深く呼吸をして落ち着こうとするヴァイオレットだったが、しかしそれより早く、ナディアがヴァイオレットの手をとった。
「もう、マスター、可愛すぎです」
「え、ああ。えっと、ナディアも、可愛いよ」
まだお風呂上がりの影響か、ナディアの手は熱い。とられた右手がはっとするほどの熱で、小さくて生命力にあふれた力強い指先がぎゅっとヴァイオレットの手をつかんでくる。
動揺しつつもなんとか返事をするヴァイオレットに、ナディアも照れているだろう赤みがかった顔でにんまり微笑んで覗き込むように顔を寄せてくる。思わず視線をそらしそうになって腰が引けるヴァイオレットだが、その気持ちに反して、目はそらせない。
ナディアがあんまり真っすぐヴァイオレットの目を見つめるから、その淡く光る瞳が怪しくヴァイオレットを誘惑して、はなすことを許さない。
「ありがとうございます。でもそうじゃなくて、何だかマスター、いつもと違って、子供みたいにもじもじして、照れて、可愛いんですもん」
「う……その、ごめん、こういう、恋人って、初めてだから」
本当は、年上として余裕をもってリードできたらいいのかもしれない。だけどナディアの瞳を間近で見つめると、上手く言葉が出ない。
いつも、仕事ではその時々にちょうどいいような、当たり障りない言葉をいくらでも言えるのに。なんとなく相手の言ってほしいような言葉を察して、それらしいことを言って誤魔化すことだっていくらだってできたのに。
こんなに近くで見つめられたら、心臓がどきどきして、何も考えられない。今までも距離が近くなってしまうことはあった。だけどいま、その瞳につまった感情が、自分に向けられる感情が、恋情だと知ってしまったのだ。
お互いに両思いだと、そう知っただけで、もういつも通りではいられなくなった。馬鹿みたいに、さっきから言葉につまってどもってばかりだ。
ナディアの瞳に、何もかも見透かされているみたいだ。




