第二十九頁「ただいま」
―――ピピピピピピ
昨日と同じ、アラーム風の電子音で目が覚めた。
まだかなり早い時間だが、真夏だけあって、日はもうかなり高い。
「朝、か……」
誰に言うわけでもなく呟いた。
朝がやって来たというよりは、朝になってしまったというような感覚。
昨日の朝以上に体が重たかった。
夕べはほとんど眠れていない。
加えて、その少ない睡眠もかなり浅いものだった。
体は間違いなく疲れていたが、あるひとつのことが気にかかって、とてもじゃないが眠れなかったのだ。
―――明先輩、そしてつばさちゃんのこと。
『それなら……。みんな、お姉ちゃんを待ってるって、それだけでいいから、伝えてほしい』
つばさちゃんが見せた、優しさと―――妹としての想い。
『つばさは優しい娘だからね。そりゃあ気にしないだろうさ。
けどね、あたしはあの娘に色んな事を押しつけて家を出たんだ……。
そんな優しさに、甘えられるわけないだろ?』
明先輩が見せた、悲しい決意と―――姉としての想い。
お互いがお互いを想っているはずの姉妹の気持ちは、それ故にすれ違っていた。
どちらの想いも間違っているわけではなく、どちらもが正しい。
少なくとも、僕にはそう思える。
『けどね。これはあたしの問題だから。
―――ホント、すまないね。心配してもらってるのに』
夕べ、あの浜辺で明先輩は最後にこう言った。
……確かにそうなのかもしれない。
明先輩の心の問題に対して、何もしないのがいいのかもしれない。
まして、三年近くもすれ違ったままの二人だ。ぽっと出の僕には何もできないのかもしれない。
でも、だからといって悲しそうな二人―――明先輩とつばさちゃんの姿を見て、黙っていられるほど僕は聞き分けがよくない。
何をすればいいのか、何ができるのか。
そもそも、二人に対して何かをするべきなのかどうなのか。
今の僕にはそのどれもが分からなくて……分からない答えを探す内に、夜は明けていた。
合宿3日目の朝。何かをするにも、何もしないでいるのも、時間はもうあまりない。
………
………………
朝食が済み、ミーティングが終わると今日も浜辺での基礎トレーニングが始まった。
無機質な時間が流れている―――少なくとも、今の僕はそう感じていた。
寝不足のせいでコンディションは最悪だったが、なれた作業しかないので何とかこなせている。
マネージャーの仕事になれるほど手伝わされたことが幸いしたらしい。
……そもそもそれだけ手伝わされているからこそ、ここにいるのだが。
「―――ら。 ちょっと章、聞いてるの!?」
「えっ? ……ああ、茜ちゃんか……どうかした?」
「“どうかした”じゃないって。ホントにもう……。
さっきから何回も呼んでるのに全然聞いてないんだし」
「……ゴメン。ちょっと、ボーっとしてて」
昨日もあったな、こんな展開。
ただ、今日の方が明らかにタチが悪いが。
手元を見やると、ランニングの計時をしていたストップウォッチはとんでもない時間まで回っていた。
……作業、全然こなせてないな。
「しっかり集中してよね。経緯はどうあれ、今はソフト部のマネージャーなんだしさ」
「ゴメン、ホントに」
「…………」
「えっと、次のメニューだよね。
次はっと―――」
「ねえ、章」
「ん?」
「なんか、あった?」
「え?」
「なんだか今日の章、いつもとちょっと違うからさ。
ボーっとしてるのはいつもだけど、今日は心ここにあらずって言うか、なんて言うか」
「…………」
図星だった。
さっきまでだって、作業していながらも、やっぱり考え事してたし。
寝不足のだから、ちゃんと頭が働いているかといえば微妙なところだけど。
それにしても……さすがは茜ちゃん、だな。
伊達に毎日顔を合わせてるわけじゃないか。
「顔色だってよくないし……大丈夫なの?」
「一応は」
「ちゃんと寝てる?」
「それも、一応は」
「……はぁ。―――全然大丈夫じゃないし」
茜ちゃんは呆れたようにため息をつくと、聞き取れなかったが、何かを呟いた。
「とにかく、辛くなったら言いなさいよね。
いくら崎山先生がいるって言っても、無理して倒れちゃったりしたらシャレになんないし」
「ありがとう」
「……それから、なにを考えてるかは知らないけど、あんまり周りに心配かけないように」
「茜ちゃん……」
「もし悩みでもあるんなら、誰かに相談したっていいんだし。
あたしでもいいし……それにここには、章と仲がいい人だってたくさんいるでしょ?」
「……うん、そうだね」
「そういうことだから。忠告というかアドバイスというか……それだけ。
それじゃ、この後も頼むわね」
そう言うと、茜ちゃんは部員の輪に戻っていった。
「内助の功、ね」
「だ〜れがよ、誰が!?」
……どこ行っても、翔子ちゃんとのやりとりは変わらないみたいだな。
そんな変わらないやりとりを見て、さっきの茜ちゃんとの会話を思い出すと―――少しだけ、心が軽くなった気がした。
………
………………
今日は午後から球場で練習試合なので、午前の練習は軽めで終わった。
軽めとは言っても、運動部員じゃない僕からすれば十二分にキツそうに見える代物だが……。
まあ、こちらとしてもこの状態でマネージャー業を続けるのは辛いものがあるし、ちょうどいいと言えばちょうどいい。
今は昼食を終え、みんなまったりしている所だ。
それぞれ、トランプをしたり喋ったりと思い思いの時間を過ごしている。
そんな中で、自分は何をしているのかと言えば―――茜ちゃんと一緒にいた。
「クイーンと8で20! これでどうよ茜ちゃん!?」
「ふっふっふっ……。まだまだ甘いわね、章」
茜ちゃんはそう言って不敵に笑い、ゆっくりと手札を見せた。
「げっ!? キングと8で21……ブラックジャック!?」
「はい、残念でした。
アンタって、ほん―――っとに弱いよね」
「……ほっといてよ」
これで悪夢の16連敗。
何も賭けていないからよかったものの、ここがラスベガスなら完全に破産だ。
「なーんか、勝ってばっかりってのも、あんまりおもしろくないかも」
「……そう思うなら一回ぐらい勝たせてくれてもいいのに」
「しょうがないじゃない、何でかあたしの方にいいカードがくるんだから」
確かにブラックジャックはそういうゲームだからしょうがないけど……なんだろう、この理不尽な感じ。
せめてカードゲームでぐらいは茜ちゃんに勝ってみたいものだ。
「茜ちゃん、もしかして今日は勝ち運ついてるんじゃない?」
「確かに、これだけ連勝するとそんな気もしてくるかな」
「よかったじゃん、今日はこれから試合なんだし、はくがついて。
茜ちゃんが先発なんでしょ?」
「うん、まあね。ソフトボールとトランプじゃ全然別物だけど……でも、縁起がいいのは間違いないわね」
「そうそう。頑張ってね、茜ちゃん」
「ありがと」
茜ちゃんの返事は力強さを感じさせた。試合のほうも期待できそうだな。
「……それにしても章、ちょっと顔色よくなったね」
「そうかな?」
「さっきよりはいくらかマシになったってぐらいだけど」
「まあ……確かにそうかも」
問題が根本的に解決したわけじゃなかったが、多少気分は軽くなっていた。
―――それが茜ちゃん達のおかげだなんては、さすがに言えるはずもないが。
「ねえ、茜ちゃん」
そう、茜ちゃんには随分助けられた―――。
「ん……どうしたの、改まって」
「あのさ、悩みがあるなら、話してくれればいいって。
さっき声かけてくれた時、そう言ってたよね」
だったらば。ここまで来れば、どんなに甘えても、もう迷惑かける度合いは振り切ってるはずだから―――。
「うん、まあ」
「じゃあさ、その……相談に乗ってほしいというか、ちょっと意見を聞きたいというか」
だから、茜ちゃんの気持ちに、思いっきり甘えてみることにした。
「別にいいけど……どんな話?」
茜ちゃんはめんどくさそうな様子を見せることもなく、真剣な眼差しをこちらに向けてきた。
今さらながら、いい友達をもったなと思う。
「ちょっと詳細は言えないから、たとえ話みたいになっちゃうんだけど……」
いつかは、福谷姉妹のことをちゃんと話すつもりだ。
でも、今はその時ではないと思えた。
「今、困ってる人が自分の目の前にいて……けれど、その人は助けを拒んでる。
でも、助けられそうな人は周りにいなさそうで、しかもその困ってる人も明らかに助けが必要そうだ。
……だけど、助けを拒んでる、困ってる人の気持ちを無視できないってのも確かで。
―――その人が望む通りに何もしないべきなのか、それともやっぱり助けるべきなのか……。
どうするのが正しいのか、分からなくってさ」
「……なるほど」
静かに聞き入っていた茜ちゃんはそれだけ言うと、少し考えるような仕草を見せた。
だが、意外にも思考タイムは短かったようで。
「なんていうか……章がそういう風に悩むのが意外かも」
「へっ?」
「だってさ、章って困ってる人は放っておけない性格だから。
福谷さんの生徒会長選挙の時もそうだったし、
新聞部の手伝いとか、西園寺さんの部活案内だってそうかもしれない」
「それは……」
確かに、それはそうかもしれなかった。
「それに……ほら。アンタって、あれこれ悩まず、自分にバカ正直に行動できるじゃない?」
「バカ正直って……」
「ほめてるんだってば。そこが章のいい所なんだし
なのに、こういうことで悩むのが意外だなって」
「…………」
自分では考えたこともなかったが……だけど、茜ちゃんはそう思っているらしい。
「そうねぇ……だから今度のことも、きっと章が思うようにやればいいと思うよ。
詳細を知らないあたしが言うのもなんだけど、それが一番上手くいくと思うんだ」
「そうかな?」
「うん。自分のいい部分なんだから、前面に押し出していきなさいよ」
「…………」
そう言われても、まだ確証が持てない心があった。
すぐに返事をすることができない。
「ほ〜ら、そんな顔しないの。
長い……ホントに長い付き合いのあたしが言ってんのよ? 信用しなさいって」
茜ちゃんはそんな僕の心を見抜いたのか、そう言ってくれた。
これこそ、長い付き合いのなせる技なのかもしれないな。
「……うん、そうだね。ありがとう、茜ちゃん」
「いえいえ。いつまでもボーっとされて、スコアリングでミスされちゃたまらないし」
茜ちゃんは、最後は冗談めかしてそう言った。
―――僕の決意は固まった、
あれこれ悩みはしたが、後は茜ちゃんが言ったように、自分が正しいと思うことをバカ正直にやるだけだ。
もう時間はない。思い立ったが吉日ならぬ、“吉時”だ。
「茜ちゃん、相談ついでにちょっとお願いがあるんだけど、いいかな」
「別に、いいけど」
「携帯を貸してほしいんだけど、いい?」
「それは構わないんだけど……そんなの、何に使うの?」
「ちょっと電話をね」
携帯を受け取ると、訝しがる茜ちゃんをよそにある人物にダイヤルした―――。
………
………………
もはや見慣れた風景になりつつある砂浜。
その場所で、さっき呼び出した人物―――つばさちゃんを待っていた。
僕が正しいと思うこと。
それはつばさちゃんに夕べの明先輩の言葉を伝え、その上で先輩に会ってもらうことだ。
何をすべきか、何かをするべきなのか……悩みに悩んで、茜ちゃんに相談までして出した結論。
茜ちゃんに言わせれば、きっと僕らしいと言うだろう。僕だって、自分でもそう思う。
何のかんの言っても、このまま黙って成り行きを見守るのは性に合わない。
多分、時間が経ってもずっとすっきりしないままだろう、
茜ちゃんに言われて、ようやく気がついたことだった。
独善的な行動かもしれない。
明先輩の気持ちを無視しているわけだし。
そして、つばさちゃんに先輩の意思を伝えた上で会ってもらうのは、きっと彼女にとって辛いことだろう。
それでも……それでも、何かしなければ、ずっとこのままだから。
このまますれ違ったままじゃ、いつまで経っても状況はよくならないから。
ならば、ぽっと出の僕だけど……できるだけのことをやろう。
それが、僕が“正しいと思うこと”だ。
「章くん」
「つばさちゃん……ごめん、急に呼び出して」
「ううん、それはいいの。
―――お姉ちゃんの話、だよね?」
「……うん」
昨日からの流れでつばさちゃんも気づいていたのだろう。
だが、それなら話は早かった。
「昨日、明先輩と話す機会があったんだ
それで、つばさちゃんが言ったことを伝えた」
「お姉ちゃんは、なんて?」
「……落ち着いて聞いてほしい。
あんまり、芳しくない答えだったから」
つばさちゃんの表情はあからさまに暗いものになった。
無理もない、期待がなかったはずはないから。
そんな彼女を見るのは僕も辛かったが、それでも一度固めた決意を曲げることはしない。
「明先輩は、つばさちゃんには会えないって、そう言ってた」
「……っ!」
「福谷の家をつばさちゃん一人に押し付けて出て行った自分は、つばさちゃんと会わせる顔がないって。
つばさちゃんの優しさに甘えるわけにはいかないって」
「……そう」
瞳を潤ませ、何とか泣かないようにとこらえながら、つばさちゃんはただそれだけ答えた。
「……ゴメン、辛い報告になっちゃって」
「ううん、いいよ。……章くんは、ちゃんと……伝えて、くれた……から」
ついにこらえきれなくなって、ポロポロと涙をこぼしながら、嗚咽混じりに言葉を続けるつばさちゃん。
いくらなんでも、このまま話を続けるのはためらわれたので、少し落ち着くまで待つことにした。
「大丈夫、つばさちゃん?」
「……うん。ごめんなさい」
しばらくして、涙は止まったものの、未だ表情は重い。
やはり、そうとうショックが大きかったのだろう。
しばらくの間お互い黙っていたが、やがて僕の方からその沈黙を破った。
「―――あのさ、つばさちゃん」
「…………」
「今日、この後で隣にあるグラウンドでソフト部が練習試合をするんだ。
……もちろん、明先輩も出る」
「…………」
「それで、よかったらその試合を見に来てほしいんだ。
無理にとは言わない……たぶん、つばさちゃんにとっては辛いことだと思うから」
「…………」
僕が話す間、つばさちゃんは黙ったままだったが、その目はずっとこちらを向いていた。
少なくとも、聞いてはいてくれているという証拠だった。
「半分、部外者みたいな僕が言うことじゃないのかも知れないけど……。
たぶん、このまま会わないでいても、状況は絶対によくならないと思う。
明先輩はああ言ってたけど。でも、つばさちゃんの事を想っているのは確かだから。
だから、会えば何かが変わると思うんだ」
「…………」
「明先輩の気持ちを汲んで、会わないのも優しさだと思う……。
でも、直接先輩に会って、自分の気持ちをちゃんと伝えて、帰る場所を示してあげるのも……優しさだと思うんだ」
「…………」
つばさちゃんは終始黙っていたが―――それでも、その澄んだ瞳はずっと僕を見据えていた。
「―――じゃあ、僕はもう行かなきゃならないから。
最後まで自分勝手でゴメン。
でも……僕の考えは全部伝えたから。その後どうするかは……つばさちゃん次第だよ」
「…………」
無言でつばさちゃんが頷いたのを確認すると、球場へと向かった。
つばさちゃんは浜辺に残って、ただただ海の方を見ていた―――。
………
………………
「プレイボール!」
審判の掛け声で、練習試合が始まる。
相手は前回の大会でベスト8の強豪。しかも、ケガで主力が本調子でない状態での成績とのことだった。
志木高とはブロックが違うので対戦はなかったが、華先生曰く『実力は互角』とのこと。
ウチは後攻なので、まずは守備。
ピッチャー茜ちゃん、キャッチャー翔子ちゃんの黄金バッテリーに加え、ショートは明先輩が守っている。
投球サークルに立つ茜ちゃん。
いつぞやの体育の時とは違い、当然利き腕の右手にボールを持っていた。
そして、ついに放られた第一球!
「ストライク!」
外角低めに速球が決まった。相手のバッターは見送り。速くて手が出せないようにも見えた。
少し間をおいて、二球目が投げられる。
―――キンッ!
詰まったような音がして、ボールが転がった。
ボテボテのゴロ、これを明先輩が難なくキャッチして一塁に送球。早くも1アウトとなる。
その後も茜ちゃんは後続を抑え、一回表は無安打で終わった。
どうやら、調子の方は心配なさそうだ。
一安心した所で観客席に目をやってみたが、つばさちゃんの姿はない。
……いや、まだ来ていないだけだ。
一回表が終わったばかりなんだし、今は作業に集中しよう。
………
………………
4回裏、ゲームは中盤戦に差し掛かっていた。
バッターは、今日2回目の打席に立つ4番の明先輩。
2アウトでランナーは無し。まだ点は入っていなかったが、そろそろ一点がほしい所だ。
だが敵もさるもので、ここまで志木高が放ったヒットは翔子ちゃんの1本のみ。
やはり大会ベスト8のエースともなると、そうそう簡単に打てるものではないらしい。
対して茜ちゃんが許したヒットも1本のみ。
ソフトボールには多いことだが、試合は投手戦の様相を呈していた。
「プレイボール!」
野球と違い、ソフトボールのプレイ再開はすべて“プレイボール”で宣告される。
それに従い、明先輩の打席が始まった。
まずは第一球。
「ボール」
真ん中低めへの、少し外れた速い球。
その辺は読んでいたのか、明先輩はピクリとも動かなかった。
先輩はこの辺でも名うての選手らしく、かなり警戒されているらしい。
ボールになった初球は、その警戒の表れかもしれない。
続く二球目。
今度は内側に高く外れる球で、これもボールになる。
多分、失投だろう。
カウントはノーストライク2ボールと明先輩有利となった。
その後、第三球もボールとなり、これでノーストライク3ボール。
そして、外せばフォアボールとなる第四球目。
―――カキンッ!
外角に甘く入った変化球を、明先輩は逆らわずに流し打ち。
ライト前に落ちる、我がチームにとって本日2本目のヒットとなった。
これでランナー一塁になったものの、5番の茜ちゃんがサードライナーに倒れ、それで攻撃終了。
スコアは相変わらず0−0のままだ。
明先輩の見事なヒットを、つばさちゃんも見ていてくれただろうかとスタンドを見るが―――。
相変わらず、彼女の姿はなかった。
……な〜に、試合終了までには来てくれるさ。
さっ、とっととスコアつけないとな。
………
………………
こうして両チーム決定打が出ないまま、最終回の7回となった。
現在、相手チームが攻撃中。
そして……まだつばさちゃんは来ていないようだ。
だが、それどころではないとまではいかないが、試合は大きな動きを見せていた。
状況はツーアウトでランナー2,3塁。
ここに来て、茜ちゃんは一打で失点という最大のピンチを迎えているのだ。
遠目に見ても、茜ちゃんは疲労しているのが分かる。
この回も打たれたヒットは実質1本だけだったが、バントやエラーが絡んで招いたピンチ。
それだけに、精神的な面も疲労に拍車をかけているのだろう。
打席に立つのは相手チームの4番打者。この日もヒットを放っている。
カウントはツーストライクワンボールと、あとストライクひとつというところだったが、
ファールで粘られ、茜ちゃんはこの対戦で既に七球を投げていた。
少し長い間をおいてから放たれた、第八球。
だが、投げた瞬間に茜ちゃんがしまった、という表情をする。
失投だった。
すっぽ抜けの変化球が、真ん中付近の甘いコースに入る。
すかさず、相手バッターはこれをスイング!
―――カキンッ!
バットは快音を響かせ、鋭い当たりが二遊間を襲う!
文句なしでヒット性の当たりだ。
……が、しかし。
そのままセンターへと抜けるかと思われた強烈な打球を、横っ飛びでキャッチした選手がいた。
―――明先輩だ。
ショートを守る明先輩が抜群の打球反応でダイブ、ファインプレーを炸裂させたのだ。
すんでの所で捕球した明先輩は素早く体勢を立て直し、そのボールをファーストに転送する。
「アウト!」
響く判定。
この瞬間、志木高ソフト部はこの試合最大のピンチを乗り切り、そして引き分け以上が確定したのだった。
ピンチを救った当の本人は、ホッと安堵の息を漏らした茜ちゃんの背中を軽く叩くと、何事もなかったかのようにベンチへと戻ってきた。
今度こそ、姉のナイスプレーをつばさちゃんも見ていただろうとスタンドに目をやったが―――。
だが、探し人の姿はそこになく。
結局、つばさちゃんがいないまま、志木高最後の攻撃となった。
………
………………
ピンチの後にはチャンスあり、とはよく言ったものだと思う。
7回の裏、今度は志木高が絶好のチャンスをえていた。
先頭バッターの翔子ちゃんがレフト線ギリギリの当たりで一気に2塁まで走り、これがツーベースヒット。
ノーアウト2塁という状況で、この日絶好調の明先輩が打席に立っているのだ。
当たりが当たりなら一打サヨナラの場面。
大会に向け勢いをつけるためにも、何とかヒットがほしい所だった。
―――だが、相手もそうそう簡単に勝ちをくれはしないようだ。
最終回で、ピッチャーの疲労はもはやピークに達しているはずなのだが、
ここにきてコントロールが冴えているのか、きわどいコースにいい球をどんどん放り込んできていた。
明先輩は何とかそれをカットしてはいるものの、今ひとつ決め手にかけている。
基本的にバッター不利のスポーツだ、粘るのもそろそろ限界に近いだろう。
カウントは当然のようにフルカウント。
次で12球目になる。
そこで明先輩は一度タイムを取り、軽く素振りをした。
間を取って呼吸を整えるつもりのようだ。
その間に、また観客席を見てみる。
この動作も、もはや今日何度目になるかも分からない。
……だが、何度見ても、やはりつばさちゃんの姿はなかった。
―――やはり、来るのは辛いのだろうか。
僕の行動は先走ったものだったんだろうか……。
……いや、そんなことない。
つばさちゃんはきっと来る。
自分の気持ちを、自分の言葉で伝えるために。
そして僕は信じてる。
―――明先輩が、その気持ちに必ず答えてくれることを。
だって、二人はお互いをあんなにも深く想いあっているんだから―――。
「プレイボール!」
明先輩が打席に戻り、ゲームの再開が宣告される。
キッと相手投手を見る明先輩。
その真剣な瞳は、時折つばさちゃんが見せるものと似ているような気がして。
……ああ、やっぱり二人は姉妹なんだなと思う。
なぜだか、相手方のサインのやり取りが随分長く感じられた。
ピッチャーがようやく頷き、この打席で十二回目の投球動作に入る。
―――その時だった。
姿を見なくても分かった。
両チームの大応援で、球場は相当な喧騒に包まれているはずだったが、
それでも……その声は一際はっきりと聞こえた。
―――今日、僕が何度も何度も探した人。
―――きっと、世界で一番明先輩のことを想っている人。
―――そして、打席に立っている明先輩にとっても、一番大切であろう人。
「がんばってーーーーー!!!
おねえちゃーーーーーん!!!」
―――つばさちゃんの声。
声の限りを尽くした、精一杯の応援だった。
最後の最後、ギリギリだけど、一番見てほしい場面につばさちゃんはやって来たのだ。
彼女が何を思い、ここに来たのかは分からないけど……。
でも、今の大声援に彼女の気持ちのすべてが込められているような気がした。
「っ!!」
そんな妹の声に、そして気持ちに応えるように、明先輩は迷いなくバットを振りぬく。
球はインコース一杯の際どいものだったが、今の明先輩にはそんなの問題にならないだろう。
―――カキンッ!
この日一番の快音が響いたかと思うと、ボールは綺麗な放物線を描き、センターの頭を越える。
完璧、そんな二文字がふさわしいサヨナラツーベースヒットだった。
「ゲームセット!」
明先輩が1塁と2塁の間を走る間に翔子ちゃんが先制、そして決勝のホームを踏んだ。
試合終了の声が響き渡り、そして志木ノ島高校女子ソフト部は1−0で勝利を決めたのだった。
………
………………
サヨナラ勝ちで歓喜に包まれた球場だったが、残っているのは三人だけだった。
僕とつばさちゃん―――そして、明先輩。
夕日が差し込む中、ホームベースを挟んでそれぞれ左右のバッターボックスに立った状態で向き合っている。
約三年ぶりとなる、姉妹の再会だった。
ここまで来たら、口出しなんて無粋以外の何物でもない。
今“できること”は、ただ二人を見守るだけだ。
「お姉ちゃん……」
「…………」
「ずっと……ずっと、会いたかった」
「つばさ……」
つばさちゃんは、こらえることもせずに泣いていた。
けど、それは昼間のものとは違い、喜びから来るものだろう。
つばさちゃんの表情も、晴れやかなものだった。
「すごかったね……お姉ちゃん。
カッコよかった。お姉ちゃんのカッコいい姿を見れて……本当に、よかった」
「…………」
相変わらず、とめどなく涙が零れているものの、つばさちゃんは笑っていた。
一方、明先輩は神妙な表情でただただ黙っていた。
「やっぱり、ソフト部に入ってたんだね」
「やっぱりって?」
「だってお姉ちゃん、よく話してくれたじゃない。志木高のソフト部はすごいんだって。
こっそり志木高のグラウンドに練習を見に行っては、話してくれて。
その時のお姉ちゃんの目、すっごくキラキラしてたから……だから、志木高にいるなら、絶対ソフト部だろうなって思ってたんだ」
「……よく覚えてたね、そんなこと」
「うん。だって、お姉ちゃんのことだもん」
そう言うつばさちゃんの表情はますます晴れやかなものになっていたが、
明先輩は相変わらず顔色一つ変えることなく立っている。
「―――私も志木高に進学したの、お姉ちゃん、知ってるんでしょ?」
「……うん。つばさは生徒会長だからね、もちろん知ってるよ」
「私が志木高に進学したのはね……お姉ちゃんに会いたかったからなんだよ」
「えっ」
つばさちゃんの一言で、張り付いたみたいに同じ表情だった明先輩が、初めてその表情を変えた。
「志木高に行けば、いなくなったお姉ちゃんに会えると思ったから……だから、私も志木高にきたんだよ」
「……そっか」
明先輩の表情が少し柔らかいものになった。
つばさちゃんの想いに直に触れたからだろうか。ともかく、先輩らしい表情だった。
「―――お姉ちゃん……本当に会いたかった」
「つばさ……。気持ちは嬉しいよ。
嬉しいけど、でもあたしは―――」
少しためらってから、明先輩が続けた。
「あたしは、やっぱりつばさに会わせる顔がないよ。
いくらつばさが許してくれても……あたしが福谷の家を全部押し付けちゃったことには変わらないから」
「…………」
「あたしは、そんな自分が許せないんだ。
だから、あの家に帰ることはできないし、それにつばさとこうやって会うことだって、もう―――」
「そんなの嫌!」
否定の言葉を続けようとした明先輩を、つばさちゃんはさっきと一転して強い調子で遮った。
「そんなの、嫌だよ!」
「つばさ……?」
「もうお姉ちゃんと会えないなんて、もうこうやってお話できないなんて……そんなの、絶対に嫌!」
「…………」
あの明先輩を黙らせるほど、今のつばさちゃんには有無を言わせぬ強さがあった。
「許したとか許さないとか、そんなの関係ない!」
涙ながらの、つばさちゃんの訴え。
「関係ないよ、そんなの……。
だって、お姉ちゃんに帰ってきてほしいのは……私が、お姉ちゃんを大好きだから!
お姉ちゃんが……世界でたった一人しかいない私のお姉ちゃんだから!」
これまで、彼女の強い意志は何度か見たことがあったが、今の彼女には圧倒されるばかりだ。
「だから……お姉ちゃん、帰ってきて。
もう、私の前からいなくならないで……」
「つばさ……っ!」
妹の名を呼ぶと、明先輩はつばさちゃんを強く抱き寄せた。
「ごめん……ごめん、つばさ!
今まで心配かけて……悲しませて……本当にごめん!」
「おねえちゃん、おねえちゃーーん!」
明先輩の腕の中で、つばさちゃんは声をあげて泣いている。
抱きしめる明先輩も、その目からは熱いものが流れ出ていた。
「もう……つばさを置いていったりしない!
つばさを悲しませたりしない……約束する」
「おねえちゃん……」
「おかえりなさい、おねえちゃん」
「―――ただいま、つばさ……」
色んなわだかまりが消えて、抱き合う二人は、完全に姉妹に戻っていた。
迎える言葉と、迎えられる言葉。
そこに込められた気持ちに、過去も今もなくて。
あるのはただ、妹が姉を想い……そして姉が妹を想う、姉妹の絆みたいなものだけだった。
暑い暑い夏の夕暮れ。
僕は再会を喜ぶ姉妹の姿を、いつまでも見つめていた―――。
作者より……
ども〜作者です♪
Life二十九頁、いかがでしたでしょうか?
ご覧いただきました通り、明先輩とつばさも無事和解。
大団円という形で、四頁に渡ってお送りしてきた明編もフィナーレとなりました。
ここ二,三頁ぐらいは重要なシーンが連続していることもあり、作者も緊張しっぱなしでしたが(笑)
その甲斐あってか、クオリティーの高いエピソードになったと思います。
読者の皆様に楽しんでいただけたなら幸いです。感想など、お待ちしています。
さて、次回からは生徒会執行部がいよいよ学校祭に向け始動!
ついに三十頁の大台にも突入です。
いつものごとく、期待し過ぎない程度にご期待ください。
それではまた次回お会いしましょう。
その時まで……サラバ(^_-)-☆byユウイチ




