Track.9-12「わたしたち、怖いもの同士だね」
行使者の体外に排出された血液(濾過された体液を含む)を“蜉蝣”の形へと変貌させて投射し、その血液を投与された対象の精神を一時的に汚染、行使者が抱く感情に強制的に共感させる。その深度および効果時間については、投与された血液量に正比例する。
――これが、あたしの異術【共鳴廻廊】についての検証結果。
「感情を伝える、のではなく、共感させる、っていうところが特異的ね。効果だけを鑑みれば言術に類すると言ってもいいんじゃないかしら?」
「賦術くさいなと思ったけど、確かに言術の構造に類似しているね」
病室のベッドの傍ら、常盤さんと叔父さんが立ったままあーだこーだ言い続けている。もう10分以上話しているんじゃないかな、当事者置き去りにしたまんまで。
「ただ、問題なのは――」
そう。問題はまだある。問題というのは術そのものが孕むものではなくて、あたし自身の問題だ。
あたしはまだ笑えない。あたしが抱く楽しいや嬉しい、幸せといった感情は生まれた傍から負の符号を植え付けられて変質する。
あたしが魔術を望んだのは、アイドルとしての活動にそれを何らかの形で活かせるんじゃないかと思ったからだ。
例えば霊基配列を介さない瞳術や躰術――瞳術で視覚を増強すれば遠くの方にいるファンの方の表情とか見れると思ったし、躰術で体力を増強すればライブ終盤でも軸がブレないかな、とか。
魔術だって、色んなことが出来るようになれば、って単なる思い付きでしかないけど。
でも、正直この魔術――じゃなくて異術は、期待以上に使えるんじゃないかと思った。
だってライブは汗を掻くものだ。それを透明な蜉蝣にして飛ばして、ファンの方にあたしと同じ気持ちを抱いてもらえる――RUBYに入って良かった、ファンの方に来てもらえて嬉しい――こんな奇跡的で運命的な手法が他にあるだろうか。
だからこそ問題は、あたしがそんな感情を抱けるのか、ということ。
アイドルに、RUBYに戻るからにはあたしはいつか笑えていなければならない。
本当にそれが可能なのか――やるしか無いのは解っているけど、やれる確証が無いままというのは、目隠しをして全力疾走する恐怖に似ている。
走り出す瞬間に、躓いて転ぶかもしれない、空いた大穴に落ちるかもしれない、聳え立つ壁にぶち当たるかもしれない――ゴールすら、見えはしないのだ。
「わたしたち、怖いもの同士だね」
「え?」
あたしのそんな告白に、咲は何だか嬉しそうな顔で呟いた。
いろいろあった、の、その3だ。
「……じゃあさ」
「じゃあ?」
「……ううん、何でも無い」
その日の真夜中――トイレに行ったあたしは見た。
洗面台の鏡の前で、そこに映った自分を睨み付ける咲ちゃんの姿を。
その様子に思わずドアの所で身を引っ込めたあたしは、でも戻るに戻れなくてその場で彼女を見守った。
「……」
何かを呟いているようだったけれど、残念ながらあたしの耳には遠くてよく聞こえない。
すると彼女は、決意したような表情でゆっくりと両手を顔の前まで持ち上げて、何かを掴もうと半ば曲げた五指を僅かに震わせて――そこからは動かない。
「……、……」
また、何かを呟いた。包帯越しにも判る、追い詰められた獣のような形相。
五指が蠢く。
覆われていない右側の頬に涙が落ちる。
「――――っ!」
堰を切ったように荒い呼吸を繰り返し、脱力した彼女は洗面台に両手をついて自分を支えた。
ああ、きっとそうだ。
彼女は、包帯を外そうとしたのだ。
そうだ。絶対にそうだ。
彼女は彼女の恐怖と戦っていたのだ。立ち向かっていたのだ。
呼吸を整えた咲ちゃんは、もう一度確りと立って鏡の中の自分を睨み付ける。
大きく息を吐き、食いしばるようにして震える五指を持ち上げ、それを顔へと近付けていく。
もしかして。
彼女はこの営みを、ずっと続けてきたのだろうか。
昨日の夜も一昨日の夜も、そのまた前の日の夜も。
一人きりで、乗り越えようとしてきたのだろうか。
乗り越えきれずに。
涙に塗れながら悔しさに蹂躙され、それでも今夜また立ち上がり立ち向かおうとしているのか。
「――――ばれ」
震える指先が包帯に触れる。
「――がん、ばれ」
皮膚に、その爪が届く。
「がんばれ!」
「――っ、芽衣ちゃん」
両手で目の周囲を拭う。彼女の姿がやけにぼやけて、滲んでよく見えなかったからだ。
呼吸もしづらい。喉の奥から空気がしゃくり上げてくる。
「がん、ばれぇっ!」
「……うんっ」
再び、その手が顔を覆う包帯に伸びる。
零れる涙を拭うように。
溢れる恐怖を祓うように。
嗚咽すらも掻き消すような素振りで――そして彼女は包帯を取り払った。
呪縛から解放されるように。
お姫さまが眠りから覚めるように。
魔法が、消え去ってしまうように。
あたしの目の前には、咲ちゃんがいた。
蛍光灯の光を纏って天使の輪を被る黒い艶髪は内巻き外跳ねのS字ラインを作り。
薄くぼんやりとした眉毛とは対照的にまるで荘厳な額縁のようにはっきり・確りと縁取る睫毛、それに囲まれた大きく円らな目は、その額縁に相応しい美術品めいた、無条件の愛らしさを誇っている。
虹彩は鼈甲飴みたいな淡い色で、その肌の色からもやや色素に欠けていることが分かる。
小ぶりだが筋の通った鼻。
淡く色付いた頬。
薄くとがった唇。
ほんのりと紅潮した頬の柔肌は、少女の瑞々しさをもやはり兼ね備えている。
「――――可愛い」
そう呟いたあたしの顔を見た咲ちゃんが、信じられないものを見るような表情で呆然としたのだけは、どうしてだかはっきりと目に焼き付いた。
あんなにも流していた涙は、いつしか綺麗さっぱり消え去っていた。不思議だけれど、事実なのだからしょうがない。
「芽衣ちゃん、――笑ってるよ」
彼女の愕然とした表情が、泣き笑いに崩れる。
「――え?」
彼女の言葉が、あたしの琴線を再び掻き鳴らす。
「芽衣ちゃん、今、笑ってた、笑ってたよ!」
「嘘……え、あたし……え?」
「笑ってたよぉ!」
泣き笑いの泣きと笑いの均衡も崩れ、再三涙は溢れ出る。人体って不思議だ、さっきまであんなに泣き腫らしたって言うのに、いとも簡単にこうやって溢れる。
あたしたちは互いに互いを強く抱き締め合い、泣き喚き散らした。
当たり前のように夜回りの看護師さんに見つかり――でも別に何がどう、ってことじゃなくて。
ただ、咲ちゃんが包帯を取ることが出来て。
ただ、あたしがほんの少しだけ笑えたってだけのこと。
何処かが痛いとか、何かがどうにかなっているとかじゃないってことを看護師さんに説明するのには、15分ほどの時間を要した。
それほどあたしたちは、抱き締め合って泣いていた。
それからあたしはまた上手く笑えなくなったけれど、でももう大丈夫だと思えている。
幸せな気持ちが確かにあたしの中にあって、そしてそれはその輪郭のままで存在し続けているのだから。とても小さい、種火みたいなものだけど。
だからあたしは、いつかちゃんと笑えるようになるだろう。彼女が、見事に乗り越えられたように。
本当――あんな応援の仕方って無い。あんな姿見せられたら、応援するしかないじゃないか。あたしも頑張るしか、無いじゃないか。
今晩はたくさん書きますよ。
→次話 5/14 1:00公開です。
宜候。




