Track.7-1「オレは死なないし、お前に殺させもしない」
跳び出した瞬間、世界は劇的に在り方を変えた。
いや――そうじゃない。世界は何一つ変わらない。変わったのは、オレの方だ。
オレの、世界に対する認識の在り方こそが変わったのだ。
まるで七色の飴を砕いて鏤めたような空気が、オレが慣性に従って前進するのに対しそれらの輝きはこの身体を過ぎ去って後方へと流れていく。
その銀色線の流れに身を任せながら、オレの身体はやがて跳躍が重力に負けて落下を始める。
手を伸ばしても、あのバルコニーの手摺には届きそうにない。
だって言うのに、オレは必死でそれを覆すために藻掻き、足掻く。
その足は、流れる銀色線を踏んで。
この体は、虚空を蹴って前進する。
それは跳躍を超え、しかし飛翔には届かない――きっとそれを、オレ達は“飛躍”と称んだ。
――ダガンッ!
かのマイケル・ジョーダンよろしく、空中を3歩だけ駆け抜けたオレは叩きつけられるように三階のバルコニーの手摺に衝突し、ほんの一瞬意識を手放したがそれをすぐさま取り戻してどうにか離れていく手摺の縁を掴む五指に力を入れた。
「ぐ――――ぅ、おっ!」
身体を押し上げるようにして手摺を乗り越え、這い蹲る格好でどうにかバルコニーのコンクリート床に降り立ったオレは、息を荒げながらそれまで佇んでいた校舎の屋上を仰ぎ見た。
「――――茜ぇぇええっ!」
変貌しきった巨躯。だって言うのに、その顔は憎悪を皺深く刻んでまでアイツの面影を残している。
「――っ、――っ、――――暁ぁぁぁあああっ!!」
咆哮は銀色線を切り裂いて震わせ、親友の元へと届く。
「――どうした、オレはまだこの通り、死んで無ぇぞ」
「殺す、殺してやるよ!茜ぇ!」
きっと。
この後オレは、苛まれることになるだろう。
自らの手で親友を打ち、殴り、蹴りつけるのだ。
その感触を、きっとオレは忘れることが出来なくなるだろう――予感にしか過ぎないけれど、でもそう出来てしまえる人間になることもまた、怖くて仕方が無い。
勿論、死ぬことも怖かった。
結果、こうしてどうにか屋上から吹き抜けを超えてバルコニーまで跳び移れた――何か、異質な力が働いて。その力もまた、不鮮明で酷く恐ろしい。
怖い。
恐い。
こわい――――それでも。
ダンッ――――屋上の縁を蹴り、鷲のような翼を拡げた暁が滑空してこちらへと向かってくる。
それを悠長に眺め、待っている暇はあるがつもりは無い。身を翻して階段を駆け下り、一路運動場を目指す。
怖い。
恐い。
こわい――――それでも、オレは。
「来いよ、暁――オレは死なないし、お前に殺させもしない」
どれだけ恨まれようと構わない。
この覚悟が、この行為が、この抗戦が。
お前を止められるなら。
どんな悲劇でも、受け止めてやる。
そして、あの頃に戻れるのなら――――そう願ったオレの脳裏に、走馬灯のようにオレたちの青春が迸る。
春。
桜吹雪が舞う、あの並木道を抜けて。
オレたちが出逢った、あの4月へと――――。
◆
げ ん と げ ん
Ⅶ ; 幽 玄 と 夢 幻
◆
「茜!遅刻するよ!」
道場で一人、形の稽古に熱中していたオレを、オレと同じ顔が怒鳴りつける。
安芸葵――双子の妹だ。もう制服を着て、リュックタイプの鞄を背負ってる。
「んぉ?え、マジ!?やべー時間じゃん!」
時計を見ると既に七時を回っていた。一時間以上も誰も声をかけてくれないとは、うちの家族は子供想いだ。
オレは慌てて風呂場に駆け込み、脱衣所で汗を吸って重くなった道着を脱ぎ散らかしながら風呂場のドアを閉める。磨硝子の向こうでオレの道着を回収してくれてるのは多分、双子じゃない方の妹―― 櫻だろう。
「お兄ちゃん!もう行っちゃうね~」
シャワーの激しい音にかき消されそうな妹の可愛らしい声にオレは「おう、いってら!」と返す。
熱の篭った身体に冷たい飛沫が気持ちいい。朝風呂はとりあえず汗を流すだけに留め、早々にバスタオルで体中の水分を拭き取る。
「やべ、下着持ってきて無ぇじゃん……」
呟いて項垂れると、しかしタオルを詰めてあるラックの上に、オレのボクサーパンツやタンクトップなどが置かれてある。櫻め、やるじゃないか。流石に制服は自室か。
「うわ、ニキビ出来てんじゃん」
下着を着た後でドライヤーの熱風を髪の毛に浴びながら洗面台の鏡を見ると、そこにははっきりとした顔立ちの女の子がオレを見詰めていた――言わずもがなオレだ。
体つきも、去年よりさらに女性らしさが出てきたように思える。鍛えているので筋肉質だけど、その筋肉の上に薄らと脂肪の膜が包んでいる気がする。
少年そのものだった顔つきは、中性的なそれに推移している。もっと年を食ったらさらに女性っぽくなるのだろうか。
「……空手少年のままでいいんだけどな」
呟いて、ドライヤーのスイッチを切った。伸び放題にしていた髪の毛も、もう後ろで結べるくらいだ。そろそろ切りに行きたい。妹たちは「伸ばせばいいのに」なんて言うけれど。
そんなことを考えてぼんやりとしていたオレは、唐突に自分が遅刻寸前だと言うことを思い出し、慌てて下着姿のまま脱衣所を飛び出して廊下を走る。途中で出くわした親父に「何て格好してんだ」なんて叱られたけど、そんな声を置き去りにして自室に駆け込んだオレは、真新しい制服に身を包んだ。
「悪ぃ、いってきま!」
ダイニングの戸棚から食パンを一枚だけ取り出し、咥えて玄関でおろしたてのスニーカーを履く。靴紐を結び、ドアを開けて。
自宅の前の桜並木は満開、それこそ全開だ。風に煽られた薄桃の花弁が舞い散り、降り注ぐ日差しとともにまるで祝福してくれているように綺麗だと思える。
安芸茜、15歳。この春、オレは女子高生になった。
安芸茜、過去編。スタートです。
→次話 9/9 3:00公開です。
宜候。




