Track.6-29「阿鼻叫喚の地獄絵図が生まれる」
12月6日、16時28分――――安芸茜は前回と同じ、JR立川駅に隣接する駅ビル内のカフェ、その一番奥の席で、販売されている中でも最も安いホットコーヒーを注文しスティックシュガーを1本・コーヒーフレッシュを2つ注ぎ、元からやや強い酸味を抑えたそれを喉に流し込んで眠気を覚まそうとしていた。
本来であれば彼女の退勤時間は朝の8時。今朝方は横浜赤レンガ倉庫での勤務だったため、最寄り駅であるみなとみらい線・馬車道駅まで徒歩およそ10分、そこから電車に乗り武蔵小杉駅で東急目黒線に乗り換え、直通の都営三田線・高島平駅まで約1時間40分。そこから自宅まで徒歩15分――食事・風呂・着替えなど諸々を済ませて、11時には床に就き、本日の勤務のために17時には起床する、6時間は寝ていられる計算だった。
しかし結果としては。
8時に日勤者に勤務を引き継ぐはずがまさかの異界侵攻。
魔術学会から駆け付けた間瀬奏汰と谺葛乃、そして本部にて百戸間リリィがその窮地を薙ぎ払い、警護対象であるRUBY一期生メンバーや運営・収録スタッフとともにクローマーク本社ビルに離脱できたのがおよそ8時30分。
諸々報告を行い、異界内での幻獣との交戦で傷を負ったことと、そもそも入界したことで受けざるを得なくなってしまった病院での診察・治療・検査がそこから2時間。
漸く終わったと思ったらまさかの阿座月真言からの入電と度し難い憤慨。
そして東京メトロ有楽町線・新富町駅から高島平駅までが1時間弱――しかし疲労困憊のために電車内で寝過ごすこと3回――結局茜がどうにか帰宅できたのは13時をちょうど回ったくらいの時間だった。
とにかく食事を摂り、風呂に入って着替えをし。
スマートフォンの専用アプリから勤務スケジュールや会社からの連絡事項などを確認して時計を見ると、もう14時だ。
茜は思った。いや、その思いは無意識のうちに愚痴となって唇から漏れ出た。
「もう寝れねーじゃん」
いくら愚痴を零そうが、いくら頭を抱えようが、その事実は覆らないことを茜は承知している。
一瞬、真言との約束をすっぽかしてしまおうかと本気で考えたが――これから待ち受ける結末のことを想うと、それは出来ないなと諦観を抱き締めた。
そしてまた電車内で寝過ごすことを懸念して仮眠すら取らないまま自宅を出た茜は、夜勤に備えたそこそこ大きな荷物を背負ったままで駅へと舞い戻る。
そうして2時間近い移動の果てに、こうして一足早くコーヒーブレイクにありつけたわけだ。
(大体、何で立川なんだよ。家から近いとかそういう理由だったらぶっ飛ばすぞ)
まだ湯気の立つコーヒーを啜りながら胸の奥で愚痴る茜。
現在確認できている夜勤の開始位置は南青山だ。やはり電車での移動は1時間近くかかり、遅くとも18時30分には移動を開始していたい。
約束の場所が23区内ならまだ時間にゆとりを持てるのにと小さな怒りが沸々とこみ上げる中、さらにそれを助長する報せを茜のスマートフォンは表示する。
「――あ?」
メッセージアプリが通知したそれは、茜にとってひどく腹立たしく映る。
『急な仕事で行けなくなりましたΣ(゜д゜lll)
僕抜きで話しといてください(m´・ω・`)m
まこと(●´ω`●)ゞ』
危うく「ふっざけんなバカ野郎!」と大声で吠え立ててしまうところだった。その言葉をすんでのところで飲み込むことに成功した茜だったが、しかし水蒸気爆発のように急速に膨れ上がった感情が彼女の身体を勢いよく立ち上がらせ、数拍の間を置いて再び腰掛けさせるという失態を演じさせた。
茜自身見ようとはしなかったものの、目端に不思議そうな顔で向けられるいくつかの視線が映ってしまい、それが一層真言に対する憤りを強固なものへと変えていく。
「あの」
しかし。
「安芸さん、ですよね?」
「はい?」
その小っ恥ずかしいタイミングで。
とても可憐で、脅威となりうる胸囲を持つ少女は茜の前に現れた。
手にはスマートフォンを持ち、その表情は何とも絶妙だ。恐る恐る、や、おどおど、といった表情にも伺えるし、しかしその奥には確信や確固たる決意のような芯の通った潔さも垣間見える。
「……そう、っすね。オレが安芸茜ですね。で、あんたは?」
まさか眼前の美少女が現れるとは思っていなかった茜は面くらいはしたものの、名を問われたことでそれが真言が差し向けた“四月朔日夷の計画を阻むために必要な人物”であることを察した茜は牽制のような警戒心を向ける。
もしもその言葉とその抑揚とが実体を持っていたなら、その姿はまさしく握った拳を構えていつでも迎撃できる体勢だっただろう。しかしそれを目の当たりにしながらその少女は一切怖じず、剰えどこか安堵したような表情すら見せた。しかしその表情は直ぐに申し訳なさを灯す。
「ごめんなさい、急にこんな所に呼び出してしまって……しかも、その呼び出した本人は休急用で来れなくなってしまって。あ、申し遅れました、私、糸遊愛詩と言います」
ぺこぺこと頭を小刻みに下げながら丁寧に紡がれた言葉に、再度茜は面食らった。
真言が差し向けた人物なら、四月朔日夷と繋がりを持つ敵である可能性は大いに有り得る。しかしその物腰は敵対する者のそれとは到底思えない。
「――とにかく、座ってください。あ、何か飲まれますか?」
「あ、はい。いいですか?」
背負った可愛らしいリュックを椅子の座面に置くと愛詩は少女らしい小走りでカウンターの方へと向かっていく。
その背中を見送りながらコーヒーを啜る茜。先程までの真言に対して湧き上がっていた怒りはもう忘れていた。
「改めまして、糸遊愛詩です」
「あ、ども。安芸茜です」
二度目の自己紹介を終えた2人の間には実に気まずい雰囲気が流れている。しかしそれをそう感じているのは茜だけで、愛詩はその容姿に適合した甘めのミルクティーを口に含むと、その温かさにほわっと顔を綻ばせた。
「……それ、美味そうっすね」
「え?あ、これですか?はい、とっても美味しいです。アールグレイ好きなんですよ」
「……それで、今日は何のつもりでここでオレたちは会ってるんですか?」
「あ、すみません……お時間大丈夫ですか?」
「一応この後20時から夜勤なんで、18時半には電車乗りたいっす」
「分かりました。あ、夜勤明け、なんですよね?」
「ええ、まぁ――そこはあんまり気にしないでくれてもいいですけど」
「はい、じゃあ出来るだけ手短にお話しますね?」
「そうしていただけると助かります」
そうして2人は一度、それぞれがそれぞれの飲み物の入ったカップを手に持って口につけ、ほんのりとまだ温かいコーヒーとミルクティーで喉を潤してから会話を再開する。
「もうご存知だと思うんですけど……今月末のRUBYのクリスマスライブで私たちは事件を起こします」
「ああ、やっぱあんたそっち側なのね」
「え、あ、はい。こっち側です。――それにより、ライブ会場は新しく誕生した魔女が創り上げた異界に飲み込まれ、阿鼻叫喚の地獄絵図が生まれる、ということになります」
「いや実に聞きたくない四字熟語2つ並べて欲しく無いんだけど」
「そうですよね――私も、ちょっと共感します」
「してんだったらやめてくれませんかね?折角楽しいライブなんだからさ、楽しいままで終わりたいじゃんさ」
「そうですよね、……」
少しだけ愛詩は視線を遠くに放り投げる。その先には見つめるものが何も無く、脳裏に浮かべる虚像を見ているんだと判る。
「でも、」
「でも?」
「はい、……でも、それは起こらなくてはならない出来事です」
「何でさ」
「何で……難しいですね。夷ちゃんの願いが成就されるためには、それは必要な事象だから、でしょうか」
「それで大多数の人間が迷惑被るんなら叶わない方がいい願いなんじゃねえの?」
「でも私はその願いが叶って欲しいと思っているので」
「アホくさ――1人の我儘叶えるために何千何万の人間を犠牲にするのかよ」
「いえ。なので今日は、その犠牲を出さないための打ち合わせをさせてほしくて、来てもらった、って感じです」
塞がらない開いた口に、茜はコーヒーを流し込んだ。
眼前の可憐な少女はどこかぽわぽわとした雰囲気を纏っているが、その表情は確かに真剣そのものだ。嘘を吐いている素振りは見当たらず、しかしその言葉はそれそのものが持つ説得力に内容が追いついていない。俄かには信じきれない。
「……どういうことだよ」
だから茜はそう問うしか無かった。
茜は周囲もそう評価するように、勉強は苦手だが頭が悪いわけでは決して無い。楽観的で運動好きな彼女は、そう見えて実は感覚よりも思考に頼る人間であり、また体感・体得した経験則に基づく思考・理論を好むタイプだ。意外かも知れないが右脳よりも左脳派なのだ。
しかし現在の彼女はすこぶる不調だ。当然、寝ていないからだ。
元より事象を理解することは得意ではない彼女は、だからこそ反復を好んだ。そんな茜に、しかも徹夜明けで疲労の溜まった彼女に、その言葉をそのまま飲み込んで理解しろというのは酷く杜撰と言うものだ。
「すみません、私も説明は得意では無くて……掻い摘むと、私たちは夷ちゃんの願いが成就されるためにライブ会場で魔女を産んで異界を創ります。なので、安芸さんたちにはそのせいで人的な被害が出ないように事を運んで欲しい、ってことなんです」
掻い摘まれても理解しがたいことは理解しがたいことに変わりはなく。
茜は一度天井を仰いで「あー」と息を吐くと、眉間に皺を寄せたままの怪訝な表情で愛詩を眺めた。
「――――そういうのを、何でオレに言うわけ?」
阿座月くんは顔文字多用派。
→次話 8/31 18:00公開です。お待たせしました。
宜候。




