Track.5-19「Tunggu」
「って言っても、いとちゃんに教えることなんか殆ど無いんだけどね」
「えっ?」
風呂の支度を整えた夷が、脱衣所で汗に濡れたシャツを脱いで肉感の強い肢体を見せつける愛詩にそう説いた。
翌日は朝から移動を開始するため、2人には時間があまり無い。だから愛詩は首を横に振り続けたが、夷の粘っこい説得に最終的には折れ、こうして二人で一緒にお風呂に入ることになったのだ。
「いとちゃんは新しく何かを覚える必要は無い、ってこと」
「そうなの?」
説得を受け入れた、と言えば、言葉遣いもそうだ。愛詩にしてみれば夷は自らの魔術の師に当たるのだが、2人が同年齢であることから夷は敬語を封印するよう強く愛詩に要求した。それは流石に礼を欠く、と力強く愛詩は否定したが、決め手になったのは夷の「じゃあ教えてあげないよ?」という言葉だった。
「だっていとちゃんはさぁ、弦術士に必要な三要素、全部出来るもん。大抵の弦術士っていうのは、伝達は得意でも繊維は苦手、とか逆とか、そういうもんだよ?流石に接続が苦手、って弦術士はいないけど」
「じゃあ、私、どうすればいいんですか?」
小首を傾げながら両手を背に回し、ブラジャーのホックを外す愛詩。夷はその一挙手一投足から目を逸らさず、剰え瞬きすらをも我慢しながら意識と視線とを注ぎながら返す。
「うん、だから、あとは単純にバトルに慣れてもらおうって思ってるよ」
「バトル……」
唇をへ文字に結び、ストラップを肩から取る前に愛詩は畳まれたバスタオルを広げて胸元に巻きつけるように隠した。勿論夷は眉根を寄せる。
「いとちゃん。湯船にバスタオルを漬けるのはルール違反だって知ってる?」
「し、知ってますよ!」
「じゃあそのバスタオル巻き巻きは何なのさ?」
「譲歩ですっ!」
湯煙が立ち込める、総檜の広い浴室。夷は終始「眼福、眼福」と頷きながら、そして愛詩は周囲から謎の視線を感じながらも緊張を解し疲れを払い、あまりにも贅沢なお風呂タイムを過ごしていく。
「わたしもう上がっちゃうね。いとちゃんはもう少しゆっくりしてていいよ」
「え、早くないですか?」
「あまり長風呂するとのぼせちゃうからさ。今ももう、わんさか鼻血出しちゃいそうだし」
ご満悦といった表情で浴室を後にした夷は、枯れ木のような華奢を通り越した自らの肢体に滴る湯滴を【罪業消滅】で消し飛ばすと、その身体に不釣り合いにも程があるシルエットの大きなシャツワンピースを羽織り、前裾のボタンを留めていく。
そうしながら、ふと身体に感じた違和感を吐き出した。
「――おお、そう来るか」
舌先に載ったそれを摘まみ上げる――釘だ。薄っすらと赤く濡れているのは、おそらく吐き出す際に食道を傷つけたのだろう。身体感覚を弄って痛覚を遠ざけている夷は再度【罪業消滅】で喉の中の傷を癒しながら人差し指と親指とで摘まんだその5センチほどの小さな釘をも消し、意地の悪い笑みを浮かべる。
「本当、そっち方面の呪術士らしい遣り方だよ――ねぇ?」
そして虚空に視線を投じた夷の悪魔めいた破顔を、遠く離れた地で呪術士は見た。
(――この魔術士は、私の存在を看破している)
そう結論付けると即座に術式を解除し、霊的な隔たりと物理的な隔たりとを合致させる。
『遅いよ?』
しかしその瞬間の最中に、脳は甘い声色を傍受する。
呪術士は口の中に感じた違和感をすぐに吐き出す。掌に載ったそれは、自身が送りつけたものと同じ5センチほどの釘だ。そしてそれは掌から一人でに跳び上がると、壁に鋭利な先端を打ち付けた。
送り付けたのは1本。そして送り返されたのも1本だ。しかし壁には、矢継ぎ早に新たな釘がどこからか出現しては打ち付けられてやがて文章を描いた。
『Tunggu』
整列した釘が描くその意思を読み取りながら、呪術士はわずかに目を見開いて口角を持ち上げる。しかしその米神には冷汗が流れていた。
やがて壁に打ち付けられた釘は、その身を錆びさせ朽ちながら赤黒い泥のようになって地に垂れると、次々に霊銀の粒子に分解されて霧消した。
「――いとちゃん」
シャツワンピースのまま浴室へと舞い戻った夷の姿に、すっかり湯船に浸かって寛いでいた愛詩は身体をビクっと跳ねさせた。
バスタオルは巻いておらず、先端を隠す左腕が圧し潰す肉の歪みに夷は鼻血を吹き出す。
「ちょ、ちょっと!何ですか!?」
「グッジョブだよ、いとちゃん」
左手で鼻血を拭いながら、夷は決して目を逸らさずに右手の親指を上げて見せた。
しかしその双眸は、愛詩の周囲を覆うように護る不可視の弦の檻を捕捉している。
(――いとちゃんにも攻撃が来た、ってことか)
愛詩は無意識のうちに弦術を行使するきらいがある。だから外部からの攻撃に対しても、自動的に防衛機制が働いたのだと夷は脳内で結論付けた。
(無意識を、意識化する――)
再び脱衣所に戻った夷は、領域化を施し複製した無色無輪郭の自身の眼識を浴室内に残して愛詩の様子を監視――寧ろそれは、覗きの意味合いが強いが――しながら、炊事場へと歩き、これからのことを考えた。
これからと言うのは愛詩の修行のことと、そして弓削家が抱える問題のことだ。
十中八九、弓削家は不当な契約を強いられている――問題はそれを、どうやって突き止め、解決するかだ。
しかし夷の脳裏には既に、その糸口どころか解決に至る筋書が組み上がっていた。
そしてその筋書で重要となる鍵は、愛詩が至るかどうかだった。
◆
「ちなみに君は、前の周回の記憶はもう持っているの?」
真言は茜にそう訊ねた。茜はノートの整列された物語に視線を投じながら、「持ってますよ」とだけ短く返す。
「いつのタイミングで?」
「今日っすね」
「ふぅん――前回は?」
「もっと早かったと思います。9月くらいだったかな」
「成程ね――やっぱり、“思い出す”タイミングは人それぞれで全然違う」
「阿座月さんは、――いつ、思い出したんですか?」
目を細めて微笑んだ真言は、遠くを眺めるように虚空に目を泳がせた。
「僕は――そうだね、彼女が術師になる頃、かな」
「毎回そうなんですか?」
「微妙に異なるよ。でも大体、その辺りに思い出すね――そして思い知らされる。今回も、また僕は間違えた、ってね――」
◆
夜の間に更なる追撃は無かった。
東の空に朝日が暁闇を切り裂いて昇り出す頃、立てた両膝に突っ伏していた顔を上げた夷は、薄く目を開いて未だ眠りこける愛詩の姿を見詰める。
夷の休眠と言うのは、比較すると海豚に似ている。
彼女は幻滅――幻術士が現実と幻覚との境を見失ってしまう現象――を避けるために、脳機能を領域化して固有座標域内に複製し、常日頃からその両方の脳機能を運用している。信じる脳と疑う脳とを分けたのだ。
そして休眠を必要とする際は、基本的に固有座標域内に複製した脳機能を生かし、自身の脳は眠らせて休ませている形を取る。
そのため眠りから覚めた夷は、固有座標域内に複製した脳機能から眠っている間の出来事をフィードバックして情報を整理するため、傍目から見れば寝ぼけているように映った。
情報の整理を終え、自分が寝ている最中の愛詩の寝相の記録に“眼福”というタグをつけて固有座標域内にフォルダ分けした夷は、そこで漸く完全に覚醒した顔つきとなった。
「んん……んぅ……」
ショートパンツから覗く肉肉しい太腿が布団を挟み寝返りを打つその姿を見て、夷は脳内で再びその記憶に“眼福”タグをつけて固有座標域内の記憶領域にアップロードした。
そしてひとつ頷いて立ち上がった夷は、炊事場へと歩くと薬缶を火にかけて白湯を沸かす。その間に箪笥からいくつもの小瓶を取り出して深皿を8種類の錠剤で埋め尽くすと、いつもの朝食を摂った。
際どいエロを極めたい。
→次話、7/11 0:00公開です。
宜候。




