Track.5-10「それは今は、忘れてください」
「アッキー、正直言って、“マジかよ”って感じ」
異術による換装を解いたコバルトさんが、地に背を着いたオレを見下ろしながら微笑んだ。
「でも、まだまだ発展途上だね」
そりゃそうだろう――何せ、試運転もクソも無い、森瀬の記憶を見ながら思いついただけの付け焼刃もいいところだ。
「また、付き合ってくれます?」
立ち上がったオレは、全身の皮膚に疼痛を感じながら上着を羽織る。
汗は掻いていない――正しく言うなら、汗は掻いたけれど身体は濡れていない。
「勿論――ただ、そのままじゃ使い物にならないよ?」
「解ってます――そのための案も、もうあるんで」
コバルトさんはふっと笑って、そしてオレを送り出す。
屋上から階段を降りて、直下階でエレベータのボタンを押す。でも扉が開くまでの数秒間が勿体なくて、オレは階段に舞い戻って掛け下りた。
冷えた身体は勿論――そして心も、熱を欲しがっていたからだ。
◆
「駄目です」
「何で君が持ってるの?」
日曜を挟んだ週明け月曜の放課後。弓道場に荷物を整理するために現れた愛詩の前に立ちはだかった絲士は、愛詩がつい先程顧問に提出した退部届を何故か持っており、そしてそれを突き返した。
「別に勝負に負けたからと言って、先輩が辞めるという条件を突きつけた覚えはありません」
「同じことだよ。君が勝ったら、君の望み通り、私は弦を張るのをやめなきゃいけなくて、でも私は弓に対して礼を欠かずに弦を張ることは出来ない。弓に礼を欠くくらいなら私は弓を置く」
「だから、弓に礼を欠かずに弦を張らない方法を教えます、と言いました」
「その自分勝手な言い方が嫌だって言ってるの!」
すると絲士はやおら床に両膝を着き、そして両手を着く。
二人の遣り取りを横目で見ていた顧問や部員たちも、絲士のその行動に顔を向けて注視する。
周囲は俄かに騒めき、あわあわと愛詩は慌て出す。
「その節は、本当に申し訳ないことをいたしました。深く、お詫び申し上げます」
着いた手の先で、絲士の額が板張りにゆっくりと触れる。愛詩もしゃがみ込み、頭を上げてもらおうと手を差し伸べるも、絲士は頑として動かない。
「や、やめなよ……」
「いえ。悪いのは俺です。どうしてあのようなことをしたのか、今は話せませんが、だけど理由があるにせよ先輩に不快な思いをさせたことは事実ですし、俺は俺が悪いのだと言うことを自覚しています。自覚している分、性質が悪いのも承知しています。でも先輩に出逢い、それを改めなければならないこと、特に先輩に対しては、殊更敬意を表さずにはいられないと、思い直しました。だからこれは、あなたが弓に対して礼を欠くことが出来ないように、俺もあなたに欠けない礼なのだと思ってください」
そこまでを言い切った絲士は頭を上げ、すぐ目の前にいる愛詩の顔をじっと見詰めて再び口を開く。
「俺は、あなたに弓を学びたい。もしその対価が必要だと言うのなら、俺に出来ることをさせてください。勿論、弦を張らない方法を教える以外にも。だから先輩、辞めないでくれ」
正された姿勢。熱意を孕んだ瞳。強く放たれた言葉。
その何もかもが、これまで愛詩が見て来た絲士とは違う。そしてそれは直感だが、愛詩はその姿こそが、本来の絲士なんだと感じていた。
今は話せないと言われた手前、その変わりようについては聞いてはいけない。でも関係が続いていけば、それを知ることが出来るのかもしれない。
「と、取り合えず、その格好やめてくれないかな?ほら、皆見てるし……」
「先輩が受け入れてくれるまで、俺は動きません」
「わ、解った!解ったよぉ……弓削君って、もっとドライかと思ってた」
立ち上がった絲士は周囲に頭を下げる。「じゃあ私も着替えて来るね」と、愛詩も更衣室へとぱたぱたと駆けて行く。
その背中を見送りながら、絲士は「ドライで居続けられたら良かったんだけど」と小さく呟いた。
新入部員、とりわけ“和弓”の経験の無い者――星荊学園高校弓道部には絲士を含めて3人いる――が入部してやることは、道着の着方を覚えること、弓道の道具の名称や使い方を覚えること、そして射法八節を覚えることから始まる。
自らを洋弓使いだと宣う絲士にとって、和弓は経験こそ無いものの弓自体には精通している――特に彼の扱うのが和弓に近しいベアボウだからだ――が、彼が左利きであることがその優位性を帳消しにした。
和弓に左利き用など無い。全ての射手は左で弓を握り、右で矢を番えて弦を懸ける。それが和弓であり弓道だ。
だから絲士は他の新入部員に混じり、弓道場の隅で愛詩が懇切丁寧に教える射法八節の体得に苦心していた。
「十文字意識して。上から見た時に、足と腰と肩が一枚になるように胴を造って」
どちらかと言えば穏やかで、そして“おっとり”している愛詩はなかなかに教え上手だ。新しく弓を始めた者たちが意気消沈しないよう、叱るより褒めるに重きを置いて伝える。
彼女自身、射法八節の体得にはかなり苦心したクチだ。易しさを知る者よりも難しさを知る者の方が指導者に向く傾向にある。
「はい、じゃあ矢を番えて――打起こし、はいっ」
三人の新入部員が、先程愛詩がやって見せたように無対象の弓と矢を掲げる。
「手元見なーい。顔は的を向くんだよー」
形を覚えたら実際に弓と矢を持つ。巻き藁の前で一人ずつ、愛詩が射法を確認しながら矢を射させる。
「離れが小さくなってるから、もっと胸郭を開くことを意識したら矢も安定するよ」
何分、現弓道部で最も射法八節の美しい者からの指導だ。その指導の的確さと穏やかさも相俟って、指導を受ける方にも熱が入る。
「じゃあ道具の手入れをやっていこうか」
部活の終わり時間が近付き、愛詩は3人に矢や弓の手入れを、これまた丁寧に教えた。
道具の手入れは1年生の仕事だ。愛詩の指導を受けない経験者の1年生2人も加わり、マンツーマンで手入れを教えながら進めていく。
そうして部活が終了すると、制服に着替えた愛詩を弓道場の前で待っていたのは絲士だ。
そう言えば“弦を張らない方法”についてを教えてもらうんだったと愛詩は、「よろしくね」とどこか恥ずかしそうに呟いた。
「色々と込み入った話になるので――先輩、今週末って暇ですか?良ければ、部活終わりに俺の家に招待しようかと」
「はぇっ!?」
「土曜でも日曜でも、俺はどっちでも大丈夫です。両親もその二日は留守にするので、気兼ねなく話も出来ますし」
「ふぉっ!?」
「一日では出来ないと思いますから、何だったら泊まり込みで来ていただいても」
「ねぁいっ!?」
「……先輩?」
絲士が横を見ると、紅潮し切った顔で愛詩はぷるぷると震えていた。そして。
「あ、……あ、明日ね!」
颯爽と走り出し、校門のレールに足を引っ掛け盛大に転ぶ。しかしすぐに立ち上がると、またすぐに走り出して行った。
その時は小首を傾げた絲士だが、帰路の途中で自らの言葉を思い返し、自分がどれだけ果てしないことを口にしていたのかに気付き、彼は彼で悶絶することになったことは、愛詩は当然のように知る余地もない。
「ゆ、弓削君、……お、おはよう」
「せ、先輩……おはよう、ございます」
翌日の放課後、顔を合わせた二人の間には気まずい空気が流れていた。その原因は勿論昨日絲士が発した言葉だったが、おかげで愛詩の円らな目の下には薄っすらと隈が居座っていたし、絲士はそれを察して過分に申し訳ない面持ちとなった。
「あの、先輩。ひとつ、誤解があるようなので言っておきたいことがあるんですけど」
「う、うん、うんうん!何かな!?」
THE・挙動不審である。愛詩はどちらかと問わなくても解りやすい部類の人間だ。周囲の人間――部員と顧問――たちは愛詩が絲士のことをどう思っているのかよく解っていたし、二人の間柄に自分たちが知るには及ばない秘密めいた何かが存在することも知っていた。
だからそんな二人のこの遣り取りに多少ニヤつきながら横目で眺め、部員たちは自らのやるべきことを進めていく。
「両親は不在になると言いましたが、一応……家政婦さんがいるので、その……二人きり、というわけではありません……」
「あ、あ、そっかー!そうだよね、ううん、私が勘違いしてたからさ。うん、そうだよね――弓削君、私のこと女として見てないもんね」
騒めき。どういうことだという鋭利な視線が絲士に突き刺さる。
星荊学園高校の弓道部員は女性の割合が高く――それ故こういう色恋沙汰に敏いのだが――そして女性は大概女性の味方である。
また、弓削絲士という人物が当初とっつきにくく、人を避けている風体を演じていたために、多くの部員は愛詩の直向きな姿勢が彼を変えたのだと思っていた。今では絲士はまるで王子様と形容していいほどの好青年だが、彼は愛詩のものであるという不文律がすでに部内には出来上がってしまっている。それも、本人たちへの確認も何も無しに。尾鰭がつくとはそういうことである。
だからこそ愛詩の口から今しがた出た「私のこと女として見てないもんね」これには部長も激怒した。彼女が太宰治のメロスだったなら副部長を差し出す程度には憤慨していた。
「あ、いえ――そうか、そうなるのか――それは今は、忘れてください」
「え?」
だからこそ、絲士の口から漏れたその言葉が彼女たちの野次馬根性に火を点けるのだ。いや、すでに火は点っているから燃料投下だ。
「取り合えず――そのことについてはまた、部活終わりにまた改めさせてください」
「う、うんっ、解ったよ」
誰かが不意に「面白くなってきましたね」と呟き、他方では「爆発しろ」と囁く声があったが当人二人には聞こえていない。
副部長を差し出して何処に走るのかという疑問は残りますね。
→次話、7/2 0:00公開です。
宜候。




