第二章 第三話
人間の身体というのも、各々が思っているよりもずっと頑健なものらしい。
そんなこんなで、速人が自分の経験した現実と、周囲で認識されている現実の狭間で頭を抱えている間にも、それほど酷くもなかった彼の怪我はわずか数日で癒えていて……
「よっ。話題の人」
「怪我したんだって、難儀だったな」
「そろそろテストだぞ、大丈夫か?」
退院した速人はそんな、あまりありがたくない歓迎の言葉で、級友たちに迎えられたのだった。
実際、彼自身もこうなることを予想していたので驚きはあまりない。
何しろ速人は、その記憶がないとは言え、あの地獄のような通り魔事件の、唯一の生存者なのだ。
退屈極まりない学生たちにとって、絶好の退屈しのぎになってしまうのは仕方ないだろう。
正直な話、速人が逆の立場でもソイツに同じことをした筈だ。
「っ!」
……だけど。
速人は見てしまう。
──友人の机の上に飾られた花を。
勿論、級友達が意識して『ソレ』を話題に上げていないのは分かっている。
……事件のことを茶化しはしても、あの机の上に飾ってある花のことは話題に上げないだろうことも。
だからこそ。
「あ、ああ。
赤点だけは、御免だからな」
速人も笑って……『ソレ』を見ないようにした。
上辺だけで取り繕って、上辺だけで笑いつつ、上辺だけの会話を友人たちと交わす。
──退屈でバカバカしい、どうしようもなく鬱陶しい時間が過ぎる。
級友たちのことが嫌いな訳じゃない。
ただ、こうして言葉を交わしている間が……本心も言えず、上辺だけで取り繕わなければならない時間が酷く億劫で。
……心のどこかで吐き気を堪えているような、そんな気分になってしまうだけだ。
そうこうしているうちに、教室にアナクロな鐘の音が響き渡る。
勿論、電子的に録音されただけの、アナクロというよりアナクロ風味な鐘の音ではあるが。
「お、やべ」
「じゃあ、次の休み時間な」
「……あ、ああ」
その音が合図となって、生徒たちはそれぞれ自分の席に戻り、鬱陶しい気遣いの時間を終えた速人は、誰ともなしにため息を一つ吐くと、自分の椅子に座る。
それと前後して、先生が教室の中に入って来て……
そして事件の前と何ら変わらない、級友たちとの時間よりも遥かに億劫で鬱陶しい、科学の授業が始まったのだった。
「つまり、質量保存の法則と言ってだな、これは化学反応には必ず当てはまる法則なのだが……」
一人きりで退屈な時間を手に入れた速人は、科学教師の声帯が発生させている不快指数を含む空気の振動を無視しつつも思い悩んでいた。
──結局、どういうことなんだ?
──アレは夢だった?
……でなければ……誰かが事実を捏造したということになる。
──でも、どうやって?
──俺と同じような超能力を持っている?
……あの場所と死体を復元したとでも言うのだろうか?
──なら俺の左腕も?
──でも、死んだ人間は死んだまま?
速人の思考は限りなく続くが、出口の見える兆しはない。
それも当然で……最初の死者しか出ていない時点で推理小説の犯人を考えるようなものだ。
状況証拠も登場人物も出揃っていないようなもの、即ち、解を得るまでの根本的な情報が足りていないのだから分かる訳がない。
──畜生。
結局、思考を断念する速人。
そのまま、脳みそと一緒に無意識の内に回転させていたシャーペンを手の中に戻すと、窓から外を眺め……
「?」
ふと速人は、校門の辺りに変な人を見たような気がした。
まだ残暑も厳しいというのに全身真っ黒な服で、なんと言うか……かなり昔に見た映画で、宇宙人を捕まえる人みたいな格好をした人を。
思いがけない光景に、速人は目を擦ってもう一度校門を眺める。
だけど、まるで陽炎か目の錯覚だったかのように、黒ずくめの人影は消えていた。
──まさか、な。
ここにいる『出来たての超能力者』を狙いに来た訳でもあるまい。
一瞬だけ警戒した速人だったが、そう思い直し、警戒を解く。
「おい、黒沢! 聞こえないのか!」
と。外を眺めていたのがばれたのだろう。
気付けば化学教師が怒鳴り声を上げていた。
どうやら、凄惨な事件に遭って怪我をし、退院したばかりの生徒に温情を与える気はないらしい。
……尤も、速人の怪我なんてすぐ治るほどの軽傷だった訳だが。
「えっと。水素が2モルだから……」
科学教師に言われるがままに教卓に立ち、黒板に書かれた式を何とか解いていく速人。
モルとかCとかOとかが何かは分からなくても、化学式計算ってのはそれぞれの英文字の数が左右で合えば問題ないようになっている。
……だからといって、簡単に分かるかどうかは全くの別問題だった訳だが。
そうして、速人は目の前に現れた強敵に全ての注意を奪われ、校門の人影のことは、すっかり失念してしまったのである。




