最終話 ~追~
──人間の本質というものは、死の淵に立たなければ見えてこない。
普段は平穏という名のぬるま湯に浸されて、社会通念とか常識とかいうメッキを塗りたくられ、その人間の本質というものは深く隠されている。
……だけど。
本当に死が現実という形をとって目の前に現れれば、奥深くより、その人の本質というものは表に浮かび上がってくることになるのだ。
今まで社会の中で善人として生きていた人間でも、自らが殺されそうになれば銃を取り、相手が動かなくなるまで徹底的に鉛弾を喰らわすこともあるだろう。
聖者と呼ばれていた人間でも絶望的な飢餓に晒されれば、餓えた隣人からでも食料を奪おうとすることもあるだろう。いや、先に倒れた家族の肉を食むかもしれない。
同じように、他者との関わりを断って孤高に生きていた人間でも、わずか一発の銃弾によって、泣きながら母の名を呼ぶこともある。
他者を脅し害して生きてきた人間でも、たった一欠けらの金属片によって、飛び散った内蔵をかき集めながら泣いて助けを請うかもしれない。
勿論、今まで悪の限りを尽くしてきた人間でも、死の淵に立たされた時、自分よりも他人を気遣うことになる場合もある。
わが身を呈して子を庇う母もいれば、我が子を盾に自らだけでも生き延びようとする母もいるだろう。
それほどまでに……人間の本質というのは、平和という泥の中では、その形すら見えない曖昧なものでしかないのである。
……だけど。
自らの本質を知ることが、果たして良いものだろうか?
もし、自らの本質が己の希望に添わぬ形であれば……人間はそんな自分を認められずに、全身全霊を持って、その本質を塗り替えようとするだろう。
例えば、自らが弱者だと知ってしまった場合、強者となるために、ひたすらに弱者を虐げるか、生活の全てを捨ててまで己を鍛えるか。
例えば、自らの価値観が、今までの生活と真逆であった場合……新しい価値観から目を逸らす為に、無意味となった今までの価値観に盲目的に没頭するか。
もしくは新しく得た価値観に従い、今までの全てを放棄するか。
どちらにしても、そうなった人間の行く先は暗い。
何しろ、自らの本質なのだ。
目を背けようにも、自分自身からは逃れられる筈もない。
ただ、ソレを認めようと認めまいと……今までの幸せを今まで通りに享受出来なくなってしまう。
そして、自らの本質というものは、平和の中で培ってきた価値観と照らし合わせると、意に添わぬ形をしていることの方が圧倒的に多いのである。
人間が歴史という泥濘を重ね、築き上げたこの社会。
その中で必要とされるのは、人間としての本質ではなく……社会通念や常識とかいうメッキの方である。
死の淵で得られる本質なんて、平和な社会の中では無用の長物でしかない。
……だからこそ、世界は平和であるべきなのだ。
人間を死の淵に追いやって、その本質を暴き立てるほど愚かなことはない。
一度メッキを剥がされた人間は、社会に馴染むのにとてつもない苦労を要する。
それどころか社会に適合できず、戦いを望んで自滅するケースも多い。
幾多もの戦争という歴史が、それを証明している。
結局のところ。
この嘘と欺瞞という泥濘の中に埋もれた社会に生きていく限り、自らの本質なんて死ぬまで知らなければそれで問題ない代物なのだ。
勿論、この平和なぬるま湯の社会が完璧だとは思わない。
息苦しさも重圧も、色々と問題もあるだろう。
嘘を積み重ね、欺瞞の中で傷つきながら生きていくしかない世の中を許せない人も当然ながらいるだろう。
……それでも。
今まで生きてきた社会という泥濘の中で、その人が築き上げてきたものは……自分が考えているほど少なくはなくて。
恐らく失った時には、その大きさを知って嘆きと哀しみを迎えるものだから。
だからこそ、世界は平和を願い、人々はそれなりに生きているのである。
これは、自らの本質を受け入れられずに戦いを通して抗い続ける二人の少女と、
自らの本質を受け入ることで戦いに呑まれていく一人の少年の、戦いの話。




