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第六章 第四話


 それから数日が経過したある夜のこと。


「くそっ!

 これじゃダメだ!

 ……こんなんじゃ、殺せねぇっ!」


 いつものように黒い球体を限界まで大きくする訓練を積んでいた速人は、あまりにも情けない自分の能力(ナイトメア)の限界に苛立ち、夜空へ向けて大声で吠えていた。


「くそったれぇがぁああああああああああああっ!」


 苛立ちに任せて肺から全ての酸素を吐き出すまで叫ぶ。

 そうして限界まで叫ぶと、臓腑が煮え返るようだった苛立ちは急速に治まり……今度は虚無感と無力感が肩を並べて彼の身体へと襲い掛かってきた。

 速人はその二つの敵襲に逆らうこともなく身体から力を抜くと、重力に引かれるがまま大地に横たわり、そのまま空を仰ぎ見る。


(畜生っ!)


 心の中で叫ぶ。


 ──彼の能力は……成長が頭打ちになっていて、彼がどれだけ頑張っても三メートルを超えなかった。


 この程度の能力では、あの化け物の触手一本すら受け止められないだろう。

 ……人間を跡形もなく消滅させることは出来ても、あの化け物の本体に傷を与えるなんて夢のまた夢である。

 無力感に速人は歯を食いしばりながら、夜空に浮かぶ星を睨み付けていた。

 そんな時だった。


「……ん?」


 突然、速人の携帯が鳴り始める。

 某戦乙女が戦場へ向かうテーマ。

 ……碧からだ。


「……何だ?」


「お嬢様がお呼びだ。

 来い」


 碧の話はそれだけだった。

 内容も簡潔極まりないが、実に彼女らしい。

 ……そして、電話が鳴った直後に、速人が人知れず特訓しているこの場所に、送迎用の車を送りつけるという手際の良さも。

 特訓を邪魔されたことに速人は少しだけ苛立ちを感じてはいたが、自らの限界を感じていたのも事実だった。


(ま、気分転換くらいにはなるか)


 速人はそうすぐに割り切ると、碧の言葉に逆らうことなくその黒塗りの車に乗り込んだのだった。





「私には、『アレ』を倒す策があります」


 速人の顔を見るなり、お嬢様は開口一番にそう切り出して来た。

 だけど、速人はその礼儀もへったくれもないお嬢様の態度に驚くこともなく、ただ頼もしげに頷くのみだ。

 実際、ここ最近の彼は殺し合いに興じることも出来ず、ただ現代社会に必須の建前や愛想などの、下らない仮面劇を演じることにイライラし続けていただけあって、そんな雪菜の態度に逆に好感を覚えたくらいである。


「お嬢様! 

 『アレ』にはもうっ!」


 ただ、碧にとってはそうはいかないらしい。

 慌てた様子でメイド服の少女は抗議の声を上げていた。


「碧っ!

 『黙りなさいっ!』」


 だけど、そんな碧に向けられたのは……雪菜の本気の命令だった。

 それを喰らった碧は、あっさりと言葉を失う。

 速人には、俯いたまま口を閉じた碧が、主の『命令』によって喋りたくても喋れないのか、それとも自らの意志で喋らないのかは理解できない。

 それに正直、碧の制止なんざその戦いを望み続けてきた速人にとってもどうでも良い戯言に過ぎなかった。


「……どうやるんだ?」


「簡単ですわ。

 私の能力によって海面から抽出した水素原子を加工し、衝突させるだけですから」


 お嬢様はまるで水道の蛇口をひねって庭に水を撒くくらいの口調で、そう簡単に言い放つ。

 だけど、その言葉に碧も速人も首を傾げるだけで、彼女が何を言っているのかすらさっぱり理解出来なかった。

 ……残念ながら速人も碧も……それほど物理や化学に強い方ではないのだ。


「どういう意味だ?」


「……分からないなら結構ですわ。

 ただ、恐らく準備だけで数分はかかると思われます。

 その間、『アレ』の足止めが必要なのですが……」


 そこで雪菜は速人の瞳をじっと見つめる。

 速人はその視線に込められた意味を瞬時に理解すると、大きく頷いた。


「ああ。

 その役目は俺に任せてくれ」


「碧は私の護衛を。

 雑魚どもに邪魔されるのは御免ですから」


 そんな雪菜の言葉に……碧は少しだけ躊躇い、言葉を出そうと顔を上げ、また俯いて……その後もう一度顔を上げると、ようやく頷く。

 碧としては『アレ』にもう一度挑むなんて無謀を何としても制止したかったのだろう。

 だけど……生まれた時から従者をやっている彼女にとって、主の言葉は絶対だった。


「んで、いつやるんだ?」


「それぞれ、準備が整ってからですわ。

 貴方も、現時点では『アレ』に対抗できるほどの力はないのでしょう?」


 そんな速人の問いかけに還って来たのは、いつもの微笑みだった。


「……ちっ。お見通しか」


 その笑みに舌打ちを返す速人。


 ──彼女の言葉はまぎれもない事実だった。


 そしてそこまで見抜かれている以上、速人にはもう告げる言葉も存在しない。


「では、各自、準備を」


「わかり、ました」


「ああ。分かってるさ」


 そして全員が頷く。

 この場にいるこの三人で……あの化け物を潰すのだ。





「あら?

 まだ、何か聞きたいことでも?」


 碧が部屋を辞した後、速人はまだ雪菜の部屋の中にいた。

 そう小首を傾げる雪菜の顔色は何処となく艶っぽくもあり何処となく楽しげでもあり……以前のように速人をからかおうとしているのが明白だった。

 だけど……速人の方はそんな面倒くさい男女の駆け引きに付き合うつもりは欠片もなく、直球で用事を切り出す。


「……ああ。

 あんたは何で戦うんだ?」


 速人の尋ねる通り、これだけ大きな屋敷に住んでいて、これだけ恵まれた生活をしている雪菜という お嬢様がわざわざ命を賭けてまで、夜魔(ナイトゴーント)として戦う必要なんて何処にも見つからない。

 速人のように戦いを望むなら兎も角、雪菜はそういうタイプでもない。

 そして碧は……ただ雪菜が戦場に出るからこそ戦っているように見える。

 つまり彼女たちが戦う理由は……速人の眼前で優雅に微笑む、この黒衣のお嬢様にあるのだった。

 まっすぐに向けられた速人の視線に、雪菜は僅かに視線を逸らし……だけど、その視線から逃れられないと……いや、逃げてはならないと悟ったのだろう。

 雪菜はため息を一つ吐くと、口を開く。


「そうですわね。

 ……あれは、そう。去年の夏でしたか。

 私と碧は海の側の別荘に行っておりました」


 昔を思い出すかのように雪菜は本棚へと顔を向けながら、話し始めた。

 ……いつものように、穏やかな声のままで。


「避暑のための旅行でしたから、私たちは別段何かをすることもなく、数日が過ぎた時だったでしょうか。

 突然、半分人、半分魚みたいなあの化け物たちが別荘を襲ってきたのです。

 SPたちもつけていなかった私達はあっさりと化け物の餌食に……」


 と、雪菜は自らの下腹部に手を当てる。

 その時点で、彼女が女性として最悪の事態に遭遇したのではと想像してしまった速人が、目の前の少女の言葉を封じようと声をあげかけたことろで……

 雪菜の笑みが悪戯っぽい笑みを浮かべていることに気付く。


「なろうとしたその瞬間。

 黒い服の方々に救って貰いましたわ。

 彼らは自分たちを夜魔と名乗り……その化け物をあっさりと撃退して下さいました」


 からかわれたことに気付いた速人は軽く舌打ちしつつも、続きを促すために一つ頷く。


「そうして助けられた私は、そのまま去ろうとした方々にせめて礼にと、碧に料理を作らせました。

 そして彼らが一体どういう方々なのか話を伺っていたその時に……

 ……『アレ』が来たのです」


 そう言って雪菜は本棚から南側の窓の外の……恐らくは海のある方角へと視線を移していた。


「……『アレ』は凄まじい化け物でした。

 速人さんも見たでしょう?

 一瞥しただけで、その場にいた彼らは全員震えるばかりで、身動き一つ取れなくなりました。

 ……当然、ただの民間人だった私もですけど」


 ふふっと、速人を見つめて微笑む雪菜。

 だが、彼女の目は笑ってなどいない。

 顔だけ笑顔の形を取り繕っているのがありありと分かる。


 ──その瞳の奥に光っているのは、昏い輝き。

 ──怒り、憎悪、恐怖、苦痛、後悔、自虐……そんな昏い感情を詰め込めるだけ詰め込んでしまって、黒く塗りつぶされ色も分からない、そんな昏さ。


「次の瞬間、『アレ』は彼らの半数を薙ぎ払いました。

 そうして、脅えて統制の取れなくなった彼らに……逃げていった筈の、あの魚人たちが襲いかかったのです」


 その時、速人は妙な音に気付く。

 ギリッと、歯を噛む音。

 それは……雪菜の唇の、その奥から発せられる音だった。


「それからの惨劇は……本当に酷かったですわよ?

 『アレ』の存在に当てられ、恐怖で能力すら使えなくなった彼らは、あの化け物の咆哮と共に魚人に変化していった漁村の人々によって……生きたままで生皮を剥がれ、悲鳴を上げながら次々と殺されていったのです」


 雪菜の顔からとうとう笑みが消えた。

 その一切の感情を映さない機械のようなその貌を見て、速人は気付く。


(ああ、彼女もやっぱり、戦うべくして戦っていたのか)


 ……と。


「碧は震えるだけでしたし、私も同じでした。

 目の前で行われている残虐行為と、次々に化け物に変化していく村人たちに。

 次は私が化け物になるんじゃないかと脅えていました。

 次は私が犯され生皮を剥がれ四肢を切り落とされて殺される番だと震えてました。

 そして、恐怖の中で、私は世界を呪っていたのです。


 ──『何故この世界は、こんなにも私の思い通りにならないのか』と。


 本当に、何の意味もなく……私に出来たのはただ、この世界を呪うだけでした。

 ……ですが、その呪いは、あの老人には届いたようです」


 老人という言葉を聞いて速人は軽く頷いていた。

 速人を夜魔に導いた、聞き覚えのある、あの声のことだろう。


「そして、その力を使い……私は……ただその場を逃げ出したのです。

 ……同じように夜魔となった碧と一緒に。

 ひたすら、我が身大事だけで……。

 ……悲鳴を上げながら助けを求め続ける、私を助けて下さった方々を見捨てて!」


 そうしてやっと雪菜の本当の顔が現れる。

 世界に対する憎悪と、自分に対する嫌悪に歪んだ、恐らくは醜いと呼ばれる形相。


 ──だけど。


 常人から見れば嫌悪を抱くだろうその歪んだ顔を見ても、速人は不思議と忌避を感じなかった。


「私は……未だにあの悲鳴が耳から離れないのです。

 ですから、私は戦って……『アレ』に勝ちます。

 どんな手段を使っても……『アレ』を殺すのです。

 あの方々の仇でも何でもなく……ただ何も出来なかったあの自分を殺すために」


 そう叫ぶ少女の顔を見て、速人は初めて目の前の相手が分かった気がしていた。


 ──眼前にいるこの黒衣の少女は……昔の罪悪感に脅え、昔のトラウマに脅える、ただの少女でしかなくて。


 だけど、その罪悪感や嫌悪や憎悪で歪んだ醜い自分さえもこうして分かり合える、この間柄こそ……もしかしたら仲間とか友人なんて呼ぶのかもしれない。


「……あっ」


 ……だから。

 連帯意識とか友情とか、そういう下心を一切抱かない素の感情のまま。

 速人は力いっぱい彼女を抱きしめる。

 そして、彼女を力づけるように、その耳元で力強く叫ぶ。


「勝つぞ!」


 ……と、ただ一言だけを。


「ええ、勿論ですわ」


 雪菜も速人のその言葉に笑顔を返していた。

 今までの取り繕ったような優雅な笑みではなく、強い戦意と決意で瞳を輝かせた、好戦的で獰猛な笑みを。

 その笑みを見て速人は、このお嬢様とやっと仲間になれた気がしたのだだった。





「……止められないか?」


 雪菜の部屋から出てきた速人を待っていたのは、メイド服姿の碧だった。

 普段の鬼のような強さを何処へ忘れてきたのか、碧は泣きそうな声で速人にそう問いかける。


「……無理だ。

 あいつはあいつで、昔の自分を消し去らないと前に進めないタイプの人間らしい。

 多分……お前と同じように」


 そんな碧の、主を止めたいという願いを叶える術を持たない速人は……彼女が納得せざるを得ない言葉を返していた。

 ……いや、正直に言おう。

 泣きそうな顔の碧に向けて申し訳ないような表情をしながらも……速人は雪菜を説得するつもりすらなかったのだ。


 ──ただ、あの化け物ともう一度殺し合いたいがために。

 ──ただ、自らの闘争本能を満たすがために。


「~~~っ。

 そうか……お前も、死ぬなよ?」


「……ああ。

 俺も死なないし……お前も、お前の主人も死なせないさ」


 二人の間で交わされた言葉はたったのそれだけだった。

 ただそれだけの言葉で……もう碧は主を止められないと理解してしまったのだ。


 ──雪菜とは生まれた時からの主従なのだから。


 いや、正直なところ、目の前の少年に言われるまでもなくそれを知っていたからこそ……それ以上の言葉は無用だったのだろう。

 ただ無理だとは知りつつも一縷の救いを求めて速人に縋り……そしてその蜘蛛の糸が断たれた以上、もう彼女に主を止める術なんて何一つ存在しないのだから。

 速人の足音が遠ざかるのを聞きつつ、碧はため息を一つ吐く。

 『アレ』の配下達の足止めが彼女の仕事だと主に命じられた。

 ならば彼女は、自らの仕事を精一杯やるだけである。


 ……それが、彼女の生まれた理由であり、ここに存在する理由なのだから。


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