第六章 第一話
前に一人で特訓を積んだ鉄橋の下で、黒沢速人は自分の右腕を見つめていた。
今まで色々な敵を屠ってきた右腕だ。
……だけど。
「このままじゃ、勝てない、か」
右腕の前に黒い球を意識しつつ……速人は呟く。
──このままじゃ勝てない。
『アレ』と戦ったのは短い間でしかなく、しかも速人は極限まで頭に血が上って我を忘れていたというのに……それだけは嫌というほど理解出来ていた。
そもそも……あれだけ大きな相手だ。
この目の前に出現しているボーリング大の球程度じゃ、文字通り『くすぐられた』程度のダメージなのだろう。
「もっと大きく。
……もっと大きく」
念じる。
念じると共に、黒い球は徐々に大きさを増していく。
直径が二メートルほど……即ち、速人自身を飲み込めるほどのサイズになったところで、それ以上の大きさにはならない。
(限界かっ!)
「……くそっ!」
その光をも喰らいつくす黒い球を眺めながら、速人は悪態を吐く。
もし今が夜でなかったのなら、その黒い球は周囲から注目の的になったことだろう。
……だけど。
その程度の力じゃ、『アレ』には勝てない。
「……どうすれば良いんだ?」
速人は、そのまま横たわると、夜空に向けてそう呟いたのだった。
……話は三日前に遡る。
「何故だ!
何故最後までやらせなかったっ!」
雪菜の部屋で目を覚まし、現状を理解した速人がまず行ったことは、手近にいたメイドの胸倉を掴むことだった。
「……あのままじゃ、勝てなかった」
「あんなに消し応えのある化け物だぜ!
勝てる負けるなんて知ったことか!
さぁ、さっさと戻せ!
やらせろよ!」
戦いの熱狂が消えない速人は、碧の冷静な言葉を聞いても、全く怯まない。
それどころか、その身体に燃え広がる熱を持て余すかのように叫ぶ。
「……いい加減にしろ」
「あ? やるか?
……別に俺はてめぇでも良いんだぜ?」
碧の声に殺気が混じったのを敏感に感じた速人は、獰猛に笑う。
──事実、今の彼は殺せるなら、殺されるなら。
──あの戦闘という熱狂を感じられるのなら、相手は別に問わなかったのだ。
碧もその空気を感じ取ったのだろう。
気取られないように、ゆっくりと右手をスカートの裾に近づける。
「速人さん。『落ち着きなさい!』」
二人の間で軋んでいた空気が弾けようとしたその時。
相変わらず黒いドレスに身を包んだ雪菜が、突然速人の背を叩く。
ある意味、自らを標的としかねないその行為に碧は声を上げかけるが、自らの主人の意思を尊ぶのも従者の勤めと、何とか自制することに成功していた。
「……あ。ああ」
背中を引っ叩かれた瞬間、頭に冷水をぶっかけられたかのように突然落ち着きを取り戻した速人は、バツの悪い表情を浮かべつつ碧の胸倉を掴む手を離した。
大の男が、しかも夜魔の怪力で思いっきり掴んだのだ。
彼女のメイド服は防弾・防刃機能を備えているというのに、見事に破れていた。
……それどころか、その服の合間から見えた肌は真っ赤に内出血している。
「……あ、す、すまん」
「……ふん」
その傷が見えた瞬間に、速人の口からは謝罪の言葉が漏れ出ていた。
そんないつも通りの、思いやりも社会常識も備えているただの一般人でしかない速人を見て、碧も落ち着いたのだろう。
彼女はそれ以上の追求はせず、ソッポを向くのみに留めたのだった。
「良いですか?
現状の私たちでは……『アレ』には勝てません」
深刻な表情で雪菜が告げたその言葉に……碧も、そしてさっきまで猛っていた筈の速人でさえも異論はない。
「ですから……」
「ちょっと待った。
私たちではって……他の仲間とかはいないのか?」
深刻そうな表情のまま続けようとしていた雪菜の言葉を、速人は手の平で遮る。
速人の横やりにお嬢様は僅かに不快そうな表情を浮かべたが……それもほんの一瞬で、すぐさまいつもの穏やかな微笑みに戻っていた。
「……確かに夜魔は私たちだけではありません。
ですが……恐らくは無駄でしょう」
「……無駄、とは?」
雪菜の何処か投げやりなその言葉に速人は身を乗り出して尋ねる。
実際、ゲームやアニメ、映画では基本ではないか。
──仲間が一斉に力を合わせて、敵のボスキャラを叩くなんて……
「夜魔は基本的に『向こう側』から来る尖兵を叩く兵隊でしかありません。
そして……あまり言いたくはありませんが、協調性に欠ける方々がほとんどで……今も縄張りを取り決めて、何とか秩序を保っているのが現状なのです」
「……ああ」
雪菜の言葉に速人は頷く。
頷きながらもつい隣の、彼にとって協調性が最も欠けているだろう代表の……メイド服を着た小柄な少女へと視線を向けてしまう。
「……何だ?」
「い、いや」
冷静に戻った今の速人には、碧の放った怒気混じりの視線を正面から受け止める勇気はなかった。
と言うか、連日の訓練で彼女に対する苦手意識が刷り込まれている。
速人は慌てて首を左右に振ると、何か話題はないかと視線を虚空に彷徨わせ……
「じゃ、じゃあ……自衛隊とか呼べないのか?
ほら、ミサイルとか戦車とか……」
その言葉は、碧の追求を誤魔化すためだけに思いついた言葉だったが、言ってしまえば意外と効果的に思えてきた。
……いや、それ以外に方法なんてないように思える。
「……あの巨体を見た瞬間、自衛隊だろうとパニック状態に陥ってしまい……一昔前の東宝映画になるのがオチでしょうね。
いえ、そもそも常人はあの村で戦うことなんて出来ません」
「……どういう、ことだ?」
あまりお嬢様らしくないその例えに、速人は少し首を傾げながらも続きを促す。
「私たち『こちら側』の住人にとって、連中に侵略され『創り変えられた』土地というのは水の中にも等しい異界でしかありません。
呼吸は出来ても……私たち夜魔以外の存在では、ほんの数分で正気を失ってしまい何の役にも立ちません」
遠い目をしながら雪菜はそう呟く。
その言葉を聞いて速人は……「役に立たないだろう」ではなく「立ちません」と彼女が言い切ったことに思い当たり、気付けば口を開いていた。
「何か、やったことあるみたいな言い方だな」
「……聞きたいですか?」
だけど。
速人のその問いに返ってきたのはそんな……続きを聞くのが躊躇われるような、凄惨な笑みだった。
いや、笑みそのものはいつもの雪菜と変わりはしない。
ただ彼女のその笑みに……必要ならばどれだけの犠牲をも厭わないという冷酷さを感じ取った速人は、思わず背筋が凍るのを感じていた。
慌てて速人は首を横に振る。
「遠くから自走砲やミサイルで攻撃することも考えましたが、外側からあの土地を狙おうにも全く無意味でした。
何しろ、衛星から眺めても……あの村は『存在しない』のですから狙いようがありません。
その上、あの土地は、入ってくるモノを選べるらしく……『老人』の力を得た私たちみたいな夜魔か、もしくは『アレ』が招き入れただろう『餌』だけしかあの土地へは入っていけないのでしょう。
事実、以前に好事家から手に入れた88ミリ高射砲をあの島目がけて放ってみたことがありますが、あの土地に入ったところで弾頭が消えてなくなってしまいました。
流石にそんな土地があると評判になっては不味いですから、地図や住民の戸籍なんかの色々なデータは、政府内で働いている夜魔や……あの『老人』の信奉者を通じて誤魔化しておりますが……」
「……はぁ」
雪菜の話はあまりにもスケールが大き過ぎ、もはや速人の理解の範疇を大きく逸脱してしまっていて……彼の口からはそんなため息しか出なかった。
「つまり、援軍は期待できません。
だからこそ、私たちだけでやらなければならない、ということですわ」
「……ああ。それなら分かる」
雪菜の告げる言葉に、ようやく速人は頷けた。
そもそも……試しに聞きはしたが、さっきまでの速人は自分一人だけでも『アレ』に挑む気だった。
現に今も、あの化け物を殺すことを考えるだけで、期待に手と足が震えるくらいである。
──余所者にあれだけの獲物を渡してたまるかよ。
そう考えた時、速人はまたいつもの……熱に浮かされたような笑みを浮かべている自分に気付き、慌てて頭を振ってその熱を振り払う。
今のままあの化け物に向かってもまだ勝てないと……残された彼の理性が告げていた。
「そう。今の私たちでは『アレ』には勝てません。
……ならばどうするか?」
どうやらここで速人が横やりを入れる前の、彼女の本来の話に戻ったらしい。
先ほど横やりが入ったことに対する意趣返しか、それともこういう演出が好きなのか速人には分からなかったが……雪菜はそのまま静かに口を閉じると、少しだけ会話の『溜め』を作っていた。
部屋の中に静寂が満ちる。
速人も碧も……その一瞬の静寂を壊すようなことはしなかった。
その静けさを堪能したのか、雪菜はカッと目を見開くと、速人と碧に視線を向け……
「……特訓ですわ!」
静寂を破るように、そう叫んでいた。
拳を握り、肩を震わせ……まるで熱血教師やスポ根ものの漫画のように。
……後ほど速人が碧から聞いた話では、雪菜という少女は難しそうなあの本棚の後ろ側に、実は熱血系の少年漫画を大量に隠し持っている、とのことだった。




