第五章 第八話
……そう。
何もなかった、筈、だった。
「~~~っ!」
だけど、その瞬間。
その何もなかった筈の防波堤に、突如馬鹿でかい軟体生物みたいなものが圧し掛かる。
……それが『蛸の足』に似ていると速人が理解出来たのは、数秒の時間を要した。
何しろ、こうして遠くから見ているからこそ形が分かるのだが……あの足は防波堤近くに浮かんでいる小船を軽々と薙ぎ払えるようなサイズなのだ。
更に凶悪なことに……その足の先端には、一撃で人間を切断出来るような鉤爪がついていて、蛸のそれとは大きくかけ離れている。
──そんなものが生き物の一部であるなんて、一体誰が想像するのだろう?
「おいおいおいおい」
次に海から浮かんできたものを見て、速人は笑ってしまう。
「……何だ、ありゃ」
それは……速人が島だと思っていた物体だった。
──雑木林から見下ろした時に見えていた島。
それが今、海から這い上がってきている。
……ソレは、確かに『ソレ』と呼ぶ以外にない生物だった。
まず、頭部がある。
こうして遠くから見ると、さっきの足は頭部から生えている触手の一つに過ぎないと分かる。
そんな触手が凡そ二十本。
その付け根と頭部は胴体らしき場所に繋がっている。
その胴体からは、八つほどの恐竜のような足が生えており、胴体の後ろは十六本ほどの蛸の足のような尾に繋がっている。
全身は鱗らしき物質に覆われ、妙に硬そうで。
──背中に生えているのは翼竜の翼だろうか?
というか、速人がそうやって見ている間にも、頭部から新たな触手が生えたかと思うと、別の一本が胴体に溶け込み……背中の翼のサイズまで伸縮している。
流石に胴体を支える脚部に変動はないものの、胴も膨らんだり凹んだりと脈動しているようにも見える。
(……身体を自由に操れる、のか)
まるで出鱈目で、まるで生物らしくない。
その上、『ソレ』には地球上に存在する全ての生物に共通の、『生きるための必要な洗練』というものが全く感じられないのだ。
サイズ、外観、機能の全てにおいてソレは地球上あらゆる生物を冒涜しているような形であった。
ふと、速人と『ソレ』の目が合った。
いや、それは……恐らく目なのだろうと速人がただ想像しただけに過ぎなかった。
巨大なソレの頭部らしき場所に、六つほどの黒い球体がついている。
「───っっ!!!」
だけど……『ソレ』と目が合った瞬間……速人は無意識の内に息を呑んでいた。
──身体が震える。
──足が動かない。
──目が合ったというだけで、身体中が凍りついたように動かない。
(……何だ、これ、は?)
それは、言葉にするならば「恐怖」というべきものだったのだろう。
死を目前にしても怯まなかった速人でさえ動けなくしてしまうほどの、生物としての根源的な畏怖。
──まるで神を目の前にしたかのような、絶対的な畏敬。
それはもしかしたら大きさ故のものだけかもしれない。
……自らより大きな生物は自らよりも強いという、本能的な公式。
それが、『アレ』と戦うのを全力で拒否しているのかもしれなかった。
救いを求めるように速人が隣を見ると、雪菜も真っ青な顔をして震えている。
碧に至っては拳銃を落とし、肩を抱いて震えたまま座り込んでいる。
──自分たちが絶対に敵わない、次元の違う存在。
……その存在感だけで、あれほど異形の存在を圧倒した二人が……身動きが取れなくなるほど脅えてしまっているのだ。
「ふざけるな。おい。
ふざけるなよっ!」
……だけど。
──速人はそれを認めない。
──許せない。
「ふざけるなっ!
ふざけるなっっっ!
てめぇ!
何様のつもりだっ!」
速人は震える足を、渾身の力を込めた右の拳でぶん殴る。
痛みで動くようになった足で地面を思いっきり蹴りつける。
足は痺れたが、身体の感覚は戻ってきた。
「俺を見下ろすだと!
ふざけるなよっ!」
叫ぶ。
吼える。
……速人にはそれしか出来ないから。
いや、それ以外のことも出来る。
自分には武器がある。
──能力。
……何もかも消し去る能力。
これで、あのでかい化け物を消し飛ばしてやる。
その叫びで、動けなかった雪菜と碧が顔を上げる。
どうやら、速人の叫びに鼓舞され、震えているどころじゃないと悟ったのだろう。
「まだっ!
まだだっ!」
手元に力を溜める速人。
彼の右腕の先にある黒い球体は、いつだったか、炎の塊を消し去ったくらいのサイズになっていた。
……まだだ。まだ足りない。
──もっと大きく。
──もっと強く。
「~~~っ!」
速人が叫んでいる間に、間合いに入ったのだろう。
その巨大な化け物は、触手の一つを伸ばすと思いっきり薙ぎ払ってきた。
いや、もしかしたら、ソイツにとっては「鬱陶しい虫を追い払う」程度の意識だったのかもしれない。
──だが、その威力は凄まじかった。
周囲の家々を何の痛痒もなく薙ぎ払うと、速人たちをもその暴威に巻き込もうとしたのである。
「阿呆が!」
速人は、そう叫ぶと手の中のそれを飛んできた触手に叩きつける。
その能力の一撃は、神にも思えるその化け物相手にも確かに有効だった。
何しろ……触手を消し飛ばすことが出来たのだ。
……確かに触手の一本は。
「げふっ!」
だが、触手が薙ぎ払った家々の破片までは消し去れない。
……と言うか、数が多すぎる。
触手に薙ぎ払われ飛んできた材木に頭部を直撃され、速人はあっさりと吹っ飛んでしまう。
「まだ、まだ……」
まるで塵芥の如く吹っ飛ばされ頭部から血を流しつつも、速人はまだ戦意を失わないままそう叫び、起き上がる。
「あと、何本だ?
来やがれっ! この、でかぶつがっ!」
速人はただ本能の赴くがままに叫ぶ。
ダメージで足がふらつくが、今の速人はそんなこと意にも介さない。
ただ身体の奥底が命じるがまま、その巨大な物体に向かってふらつきながらも歩いていこうとする。
その間にも、ソレの消し飛んだ触手は既に再生を始めていて、速人が消し飛ばしたという痕跡はたったの数秒で見当たらなくなっていた。
──そんな絶望的な情報ですら、速人にとっては足を止める理由にすらなり得ない。
ただ目の前にある巨大な『敵』を屠ろうとする以外に何も思い浮かばず、ただ足を前へ前へと運び続ける。
「……このっ。
いい加減にしろっ!」
……だけど、仲間がそれを許さなかった。
速人の暴れっぷりを見る内に恐怖から解き放たれた碧は、手に持った銃で速人を撃っていたのだ。
流石の速人も仲間からの攻撃は想定していなかったのか、碧の銃弾に全く反応出来なかった。
「……な、なにを?」
首筋に銃を撃ち込まれた速人は、碧の方をやっと振り返る。
「安心しろ。麻酔弾だ。
……アイツには今日は勝てない。
退くぞ」
それが碧の答えだった。
「ふ、ざける、な、よ」
その声に速人は怒鳴ろうとするが、身体中を巡る薬物の効果によって、夜魔であるハズの速人の身体は、もはや大きな声さえ上げられないほどに力を失っていた。
速人は視界の中で急速に広がっていく闇に抗うことも出来ずに呑まれ、そのまま意識を失ってしまう。
「碧っ!」
「分かっています!」
雪菜の声に、頷いた碧はそのまま速人を背負う。
少年と少女の間にはかなり身長差があり、どうしても引きずるような格好になるのだが……今は見てくれなんて気にしている場合じゃない。
そして、それを好機と見たのだろうか。
先ほど逃げ出した筈の連中が、またしても武器を片手に包囲網を狭めてきていた。
「ちっ! 『大気よ! 光れ!』」
周囲を囲まれたことに気付いた雪菜は眼前の大気に向けて『命令』を下す。
その『命令』により、突然、何もなかった筈の虚空が凄まじい光を放っていた。
「ぎゃあぁああっ!」
その光を浴びて、巨大な化け物も流石に怯む。
そして閃光に弱いのは、彼女たちを囲んでいた連中も同じだった。
三人を囲んでいた連中は強烈な光を受けた所為で、目を押さえ転げまわっている。
「碧!」
「ええ!」
それを合図に、二人は走り出していた。
──一目散に、欠片も躊躇せず。
──化け物に背を向け。
──自分たちを囲んでいた連中に目もくれず。
実のところ、化け物やあの連中たちからの追撃はなかった。
化け物自体はあの巨体であり、動きが遅いこともあるが……何より、ヤツらがこの一帯から出られないことを、彼女達はよく知っていたのだ。
「碧……大丈夫でしたか?」
「……ええ。何とか」
車に逃げ込んだ雪菜と碧は、それぞれ無事を確かめ合う。
「彼も、無事なようですね」
雪菜は速人を……返り血と汗に塗れつつ、眠りに落ちる直前の獰猛な野獣のような顔のまま眠る速人の髪をそっと撫でる。
「ですが、あのままではっ!」
その妙に愛しげな態度が気に入らなかったのだろう。
碧が反論するが、雪菜の態度は変わらない。
「でも、『アレ』に。
……あの存在感に対抗することは出来ました」
「……う」
その一言で、碧は何も言えなくなる。
──彼女もあの場所にいたのだから。
……そして、彼女には何も出来なかったのだから。
「次こそは、絶対にっ!」
「……お嬢様」
復讐に燃える雪菜の表情を、気遣わしげに眺める碧。
あの時からずっと……優しげに見えても優雅に見えても人生を楽しんでいるように見えても、それは上辺だけに過ぎなくて……このお嬢様は結局、あの時の復讐しか見ていない。
──昔の弱かった自分を消し去る。
──彼女はただそれだけが生きる目的なのだ。
同じように、碧は眠っている速人へと視線を移す。
普段は一般人と何ら変わらない彼も、一度暴走してしまえば殺すこと以外に何もない。
──躊躇いも、良心も、仲間も……それどころか間違いなく保身さえも。
二人とも目的に真っ直ぐで、それだけに危ういのだ。
「……はぁ」
人知れずに碧はため息を吐いていた。
何とかお嬢様だけでもこの危うい戦闘から遠ざける方法はないものかと考えるものの、すぐに無意味だと悟る。
であるならば。
──彼女が身体を張ってでも、助けるしかないのだ。
……大昔も、そして、あの時も。
どちらの碧も出来なかったことを、今度こそ、必ず。
そうして。
車内に響くのは僅かなエンジン音だけという道中は行きと同じ時間……凡そ二時間ほど続いたのだった。




