第五章 第六話
次の日。
家から出た速人は、家の前に停められていた黒塗りの車に、何の躊躇いもなく乗り込む。
これだけ機会があったのだ。
最初のころは躊躇していた速人も……運転手の強面も、速人の住む住宅街に全くそぐわない高級感漂う黒塗りの車にも慣れてきたのだった。
「ふふ。体調は如何ですか?」
「ああ。問題ない」
車の中には、既にお嬢様とメイドが乗っていた。
雪菜の挨拶に、速人は頷いて返す。
その傍らに座っている未だに不機嫌そうな碧は、速人と目線さえ合わせようとしなかったが。
「これを着て下さいな」
「……これは?」
そう言って雪菜がジャケットを手渡してきた。
速人はそれを受け取ると、特に躊躇うこともなく着込む。
少しだけ普通のジャケットよりは重い感じがあったが、彼の行動を妨げるほどではない。
事実、速人はそんなジャケットの重さよりも、そのジャケットが碧と同じ匂いがするのが気になった。
「防刃繊維で編まれたジャケットです。
刃物なんかは防ぎますから」
それが彼女の説明だった。
何か意味ありげな顔で、隣に座っているメイド服の少女に目を向けながら。
それに釣られるように速人は碧の方に視線を向ける。
碧はその視線を受けて……窓の外へ顔を背けた。
たったそれだけの仕草で、何故か速人は雪菜の意図が読み取れていた。
恐らくは、碧が創りだした道具なのだろう。
──道理で碧の匂いが気になる訳だ。
速人が碧に礼を言う間もなく、三人を乗せた車は「雪菜でさえも恐れる何か」がいる場所へと走り出したのだった。
それから二時間ほど経った頃、高級車でのドライブは終わりを告げる。
三人を乗せた車が止まったのは雑木林の近くの、小さな公園だった。
「確か、この辺りでしたが……」
そうして車から降りて三分ほど歩いたところで、突然雪菜がそう呟く。
「別に何もないが……」
その声を聞いた速人は警戒をしつつも周囲を見渡していた。
──別に問題はない。
周囲の雑木林も、足元の遊歩道にも、いつもと変わらない青い空にも……特に異常はないように見えた。
ただ、普段と違うのは……この場所がそろそろ海に近いこともあって、周囲には海の香りが漂っている。
ただそれだけだと思っていたから、速人はあまり注意を払わずに足を前に踏み出した。
──その瞬間だった。
「~~~っ!」
そのたった一歩を踏み出した瞬間に突然、肌に触れる空気が変わった気がしたのだ。
その感覚に慌てた速人が周囲を眺めるものの、特に変わった場所はない。
雑木林は雑木林で、足元の土は土で、空は相変わらず青い色をしている。
──だけど、違う。
──何かが、明らかに違う。
『ここは、さっきまでとは別の場所だ』と、速人の全身が訴えているのだ。
「……匂いか……」
違和感を必死に考えた速人が辿りついた答えは、そんな単純なものだった。
さっきまでの磯の匂いが、格段に強まっている。
──いや、強まったのは磯の香りではなくて、この……海独特の腐敗臭に近い部分だろうか。
その違和感の原因が気になった速人は、直感に銘じられるがまま遊歩道を走る。
雑木林を抜ければ、足元には海が広がっていた。
海には防波堤が三段ほど並んでおり、小さな船が数隻浮かんでいる。
その近くにあるのは漁村だろう。
漁村から少し離れた場所には、海に面した小さな別荘もあった。
防波堤の向こう側には小さな島が一つあるだけで、あとは広い海が広がっている。
速人は首を傾げた。
……この場所には先ほど感じた、強烈な違和感を覚えるほど変わったものなど、特に見当たらないのだから。
「……特に変な場所はないな。
やっぱ匂いが変なだけか?」
「それだけでは、ありません、わよ」
勝手に結論付けた速人に向けて、お嬢様から声がかけられる。
その脅えたような、いや、震えを必死に押し殺したかのような声に振り返った速人が見たのは、顔を真っ青にした雪菜の姿だった。
彼女だけではない。
その後ろに控える碧も……似たような有様だった。
「お、おい。大丈夫か?」
「ええ。勿論ですわ。ついてきて下さい」
そう言って雪菜は海の方角へと歩き出す。
まだ少しだけ足取りがおかしいものの、それでも唇を噛み締め拳を握りしめ……その歩みに迷いはなさそうだった。
「お、お嬢様!
これ以上近づくと『アレ』が!」
「ええ。分かってます。
……見えていますわ」
二人の少女はそんな言葉を交わしつつ、村の方へと歩いていく。
彼にはさっぱり分からない二人の間の秘密めいた言葉の羅列に、速人は首を傾げていたが。
「お、おい。待てよ」
流石に、こんな場所に一人置いていかれるのは真っ平だったので、速人は慌てて二人の後を追って走り始める。
実際、この場所の強烈な違和感は「自分が異分子だ」ということを皮膚が教えてくれているようで……最近では恐怖を何処かに忘れてきたような速人でさえ、一人きりは不安で仕方なかったのだ。




