第四章 第五話
その予感は正しかった。
今度の鈴の音は、雪菜の屋敷から車で一時間ちょっと走り続けた辺りの、だだっ広い畑で鳴り響いていたのである。
トウモロコシにキュウリにカボチャかイモ類だろう植物が、辺り一面を緑色に覆い尽くしている。
食べる専門で料理の心得なんて欠片もない速人には、詳しくは分からなかったが。
「何だ、ありゃ」
そんな畑の上、虚空から突然産まれ出た『ソレ』を見た時、速人の口から出た言葉は、いつも通りのそんな陳腐な一言だった。
何しろ、妙にぬめった感じの液体に覆われた『ソレ』は……言うならば、出産直後の小鹿のような、不気味な生き物だったのだ。
……ただ鹿とは似ても似つかないのは、捻れ歪み尖った凶悪な角と、その奇形としか言いようのない手足の形だろうか?
「……子山羊どもか、やっかいね」
その生き物を見た雪菜が、舌打ちしながらそう呟いていた。
彼女の呟きを耳にした速人は、『ソレ』は確かに黒い山羊に見えないこともないと無意識の内に頷いていた。
……とは言え、子山羊だろうと小鹿だろうと、やはりこんな異形はいないだろう。
「どいて」
「……っ!」
……だけど。
速人にはそんな子山羊とやらを観察する暇も無かった。
いきなり背後から拳銃が見えたかと思うと、銃声が鳴り響き、子山羊と呼ばれていた奇形の生き物は、子山羊と呼ばれていた物体へと変化したからだ。
「……いきなり、だな」
身構える時間すらなかった。
今回の異形は現れた瞬間に殺されたのだ。
(間違いなく死んだ、よな?)
さっきまで生きていた肉の塊を見つめながら、速人はまだ警戒を解けない。
今までの化け物どもは、傍目で見ただけでは生きているか死んでいるかさえ見当がつかないことが多かったからだ。
だけど、彼の警戒も杞憂に終わったようで……頭蓋を吹き飛ばされた『ソレ』は、未だに痙攣していたが、もう自律的な行動をしそうにはない。
「……ふぅ。
今回はこれで終わり、か?」
「気を抜かないで!
子山羊どもは、これからですわ!」
「……ども?」
ふと。
速人は雪菜の言葉に違和感を覚える。
……その正体は簡単に理解できた。
何しろ四方八方から次々と鳴り響く鈴の音と、虚空から次々と湧いてきた子山羊たちの姿が、速人の理解を助けてくれたからだ。
「おいおいおいおい」
速人は目の前で起こっているにも関わらず、我が目を疑ってしまった。
何しろ、先ほど碧が瞬殺した子山羊とほぼ同じ……だけど、それぞれが微妙に異なっている生物が、百や二百どころじゃないほど湧いてきているのだ。
「まずいわね。
……このままでは囲まれるわ」
周囲の状況把握で忙しかった速人は、お嬢様の焦った声でやっと状況を理解する。
(もしかして、こいつら全てが、敵、か?)
子山羊という生き物がどういう生き物かは分からない。
ただ、こいつらが人間と同等だとしても……この数には太刀打ちできないだろう。
「一旦退きます。
碧、突破を」
「はい、お嬢様」
雪菜の指示を受けた碧は、上空の敵の配置を一覧して、囲みの薄そうな場所を瞬時に判断すると、いつもの如くスカートの中から銃を取り出し、走り出した。
ちなみに、今日取り出したのはアメリカ製の短機関銃である。
それを虚空から降って来たばかりでまだ動けない子山羊どもにばらきつつ、スカートで器用に走り抜ける。
「くっ!」
そんな碧に遅れないように速人も走り出す。
生憎と速人の能力では遠距離攻撃は出来ないので、ただ着いていくだけしか出来なかった。
それでも……速人は碧の足に追いつくのが精一杯という状況だった。
もうここまで来ると、根本的に身体の造りが違っているとしか思えない、それほどの差である。
──と言うか……
全力で走り続ける速人は、信じがたい思いで隣へと視線を移す。
彼の隣では、雪菜がドレスの裾を優雅に摘まみながら、碧に置いて行かれることもなく走っていた。
……あんなに裾の長いドレスを着ているのに、器用に走るものだと、速人は感心せざるを得ない。
そうして三人は、敵が次々と出現してきたポイントを越え、小高い丘に立って体勢を立て直そうとしたところだったのだが……
「お嬢様っ!」
「ええ。これは……」
二人の少女が頷き合うのを見た速人にも、現在の事態は理解出来た。
さっきの子山羊集団は背後で集団を成しているのだが、三人が登ってきた丘の反対側でも、似たような集団が陣取っていたのだ。
両集団とも、陣形も何もあったものではない、ただの寄せ集め集団なのだが……三人の正面には六百程度、後方には四百程度は存在しており、とても逃げ切れる数ではない。
「……このままでは、挟撃されますわね」
「みたいだな」
「はい」
お嬢様の言葉に頷く速人と碧。
かと言って速人に何か案が浮かぶ訳でもない。
ゲームならばこういう場合……
──優位な地形を陣取り、防御力の高い少数ユニットで大きいほうの集団を足止め。
──同時に残された主力で少数集団を撃破、反転して主力同士の正面衝突を謀る。
というのが彼の基本的な戦術なのだが。
尤も、この作戦はほぼ同等の戦力がある場合の戦術である。
たったの三人で使える戦術でもない。
……だけど。
「あの集団は私が足止めしますわ。
速人さんと碧は、後方の部隊を蹴散らして下さい」
雪菜お嬢様は、千も近い敵をその目にしながらも、堂々とそう言い切ったのだ。
「……おいおい」
「お嬢様、それはっ!」
流石の速人も頷きかねた。
だからこそ、速人よりも人生を共にした時間が長い碧には、その気持ちはもっと大きかったのだろう。
珍しく、メイド少女が主人に逆らっている。
「危なすぎますっ!
幾らお嬢様でも!」
「碧、私の能力は知っているでしょう?
足止めだけなら、特に問題ありません」
従者の諫言に対し、雪菜は堂々とそう言い切った。
速人はふと隣で唇を噛んでいた碧に視線で尋ねる。
──彼女の言っていることは真実か? と。
碧は彼の視線に頷きを返した。
……つまりは、そういうことらしい。
後の問題は……速人と碧の二人で四百余りもの敵を蹴散らす必要があることなのだが。
「分かりました。お嬢様。
……早急に蹴散らして戻ってまいります」
だけど、速人が躊躇している間に決断を終えたのだろうメイド服を着込んだ少女は、何の躊躇いも無くそう頷いたのだ。
「ええ。速人さん。
碧をよろしくお願いしますね」
……そこまで言われると速人は頷くしかなかった。
彼を振り向くこともなく走り出した碧の後を追って、速人も走り始める。
何となく、雪菜の一言と同時に放たれたウィンクが気になったのだが……
「……さて」
二人を見送った後、雪菜は近くまで迫ってきた六百余りもの子山羊の集団を睥睨し、一つため息を吐く。
子山羊どもの捻じ曲がり鋭く尖った角が、まるで大軍が掲げる槍のように威圧感である。
加えて、子山羊どもの蹄の音は、山津波の如き圧迫感を放つ。
幾ら子山羊といっても、それでもこの世の埒外の化け物なのだ。
その体躯に秘められた膂力は常識を遥かに超えているだろう。
そう。
……人間の少女一人なんてあっさりと肉の細切れに変えてしまうくらいには。
「キューピッド役ってのも、大変な仕事になりそうですわね」
だけど、化け物の群れを前にした雪菜の口から出たのは、そんな軽口一つだった。
そのまま彼女は特に気負った様子もなく眼前に迫ってきた大軍を見下ろすと、息を大きく吸い込み……
『全員、動くな!』
と、声を張り上げたのである。




