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第四章 第三話



「っげふっ!」


「……もう終わりですか?」


 高速で地面に叩きつけられた速人が、蛙の潰れたような声を上げる。

 それを見下ろす碧の表情はやっぱり冷たいままだった。


 ──いや、数日前の特訓に比べるても、冷たさが増している気がする。


 何しろ、以前はこんな……投げ技を喰らった速人が激痛で転がり回ることはあっても、全身が痺れて動きが取れないほどの投げを喰らったことはなかった筈だから。

 テストが終わった開放感で溢れている、そんな教室の中には居場所が見つけられず、校門に迎えに来た黒塗りの車へと、早々に乗り込んだ速人だったが……


 ──そんな彼を待っていたのは、相変わらずの地獄の特訓だった。


「これで、七回目の死亡です」


「……くっ」


 倒れて動けない速人に、メイド服の少女はどっかの原住民が使っている感じの、変な形のナイフを突きつける。

 これで訓練はまた仕切り直しだった。


「私に触るくらい出来なくては、敵を倒すことなんて出来ませんよ?」


「……分かっている!」


 まだ訓練を始めて二十分は経過していない。

 なのに、速人は小学生にも見紛うほどの碧という少女に、七度も倒される醜態を晒した挙句……未だに指一本触れられずにいる。


「そこっ!」


「甘いっ!」


 攻撃をしかけた筈の速人の世界が、碧の叫びと共にまたしても一転する。

 フェイントを幾つかかけて碧に手を伸ばしたところで、いつの間にか碧が手にしていた拳銃であっさりと手を撃ち落され、痛みに怯んだ隙に投げ飛ばされたのだ。

 拳銃と言っても勿論、模擬弾を使っているから大怪我をすることはない。

 だけど、模擬弾とは言え硬質の弾丸が高速で肉体と接触するのだ。

 撃たれた箇所は、机の角で強打した時以上の激痛が走る。

 ……その挙句に全身を地面に強打される訳だから、速人は息も出来ないまま、痛みにのたうち回るしかなかった。


「……涼しい顔、しやがって……」


 ようやく激痛が引いた速人は息荒く庭に横たわったまま、そう吐き捨てる。

 ……速人を情けないと言うなかれ。

 速人が動けなくなるほどの猛攻を二十分間休みなく仕掛けたと言うのに、目の前の少女は息一つ切らしていない。

 ……いや。

 汗一つかいていない。


 ──正真正銘の化け物である。


 だからこそ速人は、こうして幾度となく打ちのめされた苛立ちを、せめて口先だけでも意趣返ししているのである。


「この程度の運動では、疲れもしない」


「……言ってくれる!」


 速人の愚痴に言葉を返した碧には、別に挑発の意図はなかったのかもしれない。

 ただ事実を淡々と述べただけだろう。

 ……だけど、速人には脳内でどこかが切れた音を聞いた。

 ダメージと疲労でもう限界と思われた身体を強引に立ち上がらせる。


 ──思い出せ。

 ──あの熱さを。

 ──殺意を。


 疲労も苦痛も一切を忘れ、敵を殺すことだけを考えていられる、あの状態を……


「──っ」


 速人の目の色が変わったのに気付いたのだろう。

 メイド服の少女は、手にしていた拳銃から力を抜く。

 上下左右、どこから来ても反応できるようにと。

 ……所謂、脱力というヤツだ。

 そうしてお互いの間の空気が、非常に張り詰めていく。


「碧。速人さん。

 そろそろ、お茶にしましょう?」


 だけど、そんな緊迫した二人の睨み合いの中、お嬢様の声が思いっきり水を差す。

 それが、訓練終了の合図となったのだった。




「お前には無駄な動きが多すぎる」


「もっと考えて動け」


「動き出せばもう迷うな」


 と、お屋敷の廊下を歩く速人に説教を延々とぶつけているのは、さっきまで模擬戦の相手をしていた碧である。

 実際、訓練が終了した直後、お茶よりも汗を流したかった速人は、お嬢様のお茶会への誘いを丁重に辞退した上で、帰って風呂を浴びたい旨を伝えたのだ。

 その言葉を聞いた雪菜お嬢様は笑顔で……


「なら、我が家のお風呂を使って下さいな」


 と仰せられたのである。

 そして、その言葉に逆らう術を、速人は持ち合わせていなかった。

 と言うか……全身を滴る汗と、汗を吸った服がまとわりつく不快感は、彼が家路を歩むことを許さなかった。

 そうして今、碧に案内されながらお嬢様のお屋敷を歩いているところではあるが。


「……凄まじいな」


 廊下の調度品を眺めた速人は、そう呟くのが限界だった。

 高級そうな窓、高級そうな絨毯、高級そうなカーテン、高級そうな壷、高級そうな絵画。

 右を見ても左を見ても、自分の家とは比べ物に……いや、比べるのもおこがましいというか、そもそも比較対照にならないというか。

 実際、遠目から屋敷を見たことはあっても、中に入ったことはなかった速人には、やはりそこは別世界としか言い様がない場所だった。

 ……正確には意識のある内に屋敷の中を見たことがないというのが正しいのだが。

 以前に特訓した時……土曜日曜の二日間、速人は一度たりとも意識ある状態で庭を出られなかった。

 だからこそ、速人がブルジョワジーの世界をこうして垣間見たのは初めてだったのだ。


「金持ちってのは、こういう高級な場所に住むんだな、やっぱり」


 そう速人は呟くものの、彼には高級が何たるものかは理解出来ていない。

 ただ、速人は周囲から異世界というか異次元の香りが篭れ出ているような感覚に、つい気後れしてしまっていて。

 それを誤魔化すかのように、彼はただ適当に口を開き、何も考えず思いつくままに言葉を垂れ流しているだけに過ぎなかった。

 しかも眼前を歩くメイドは、この周囲の威圧感を感じていないのか、それとも慣れているのか、平然と歩いている。


 ──平気な面しやがって!


 それは、単なる八つ当たりだったのかもしれない。

 だけど、何となくその気になって目の前のメイドに一泡吹かせてやろうと……


「すきありゃ!」


「~~~っ!」


 取りあえず、殴る蹴るなど直接ダメージを与える方法は、幾ら本性が鬼メイドと知っていても、碧の小学生に見える外観上、流石に躊躇われた。

 だからこそ速人は『手近なところ』で済ますことにした。

 ……そう。

 速人は衝動に任せるまま、碧のスカートを思いっきりめくり上げてみたのだった。

 正確な年齢は知らないのだが、碧という名の少女は小学生と見まがうばかりで色気も全く感じない。

 つーか、そういう感情を全く持たなかったため、異性相手に対する妙な背徳感もなく、速人の右腕は少女のスカートを捲りあげ……


 ──その次の瞬間、速人は思いっきり後悔した。


 何しろ、白地の布にプリントされた熊と目があった瞬間。

 速人の身体は、さっきまで眺めていた高級そうな窓ガラスを突き破り……お嬢様が佇む庭へと逆行したのだから。


「あら、速かったですね」


「……嫌味かよ」


 取りあえず、驚いた様にも見えない雪菜の言葉に、それだけ返す速人。


 ……あちこちにガラスが刺さって物凄く痛かった。

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