第九十二話 逃亡
徳川勢に攻め入った一向門徒の勢いも、討ち取られる者が多くなってくるにつれ落ちて来た。
傷ついても、手足を失っても、攻め入ってくる一向門徒の姿に、兵たちは恐怖を感じ、精神的な疲れを蓄積していった。
その為、前線で戦う忠勝たちは、新たに前線に来た守綱たちと入れ替わりながら、兵を休めつつ、投石と油壷で一向門徒の勢いを殺し、兵たちを打倒していった。
「殿、敵の勢いが」
中根忠実の言葉に、忠勝は頷いた。
「だが、あそこにいるもの達は、盾を持ち投石を防いでいるな」
大半の一向門徒は投石と、油壷に苦戦し、進軍の速度が遅く、柵に阻まれ遅滞していた。
しかし、忠勝が見ている集団だけは、柵に紐をかけ引き倒し、それを守るように槍で邪魔する徳川兵を防ぎ、投石や油壷から盾を持った兵たちがさらに上からの攻撃を防いでいた。
「はい、油壷もはじいております」
「慣れている。農民たちも戦慣れしているが、あれは異質だな。どこかの武士か」
「そうかもしれません」
「馬印も幟もないが……」
「手当てせねば、突破される恐れが。兵が少なくなったとはいえ、油断が出来ません」
忠勝は眼を細めてみた。
「門徒の勢いもなくなってきた。うってでるか」
「……ならば、我々だけではなく守綱様、康勝様と歩調を合わせた方が良いかと」
「親吉殿に敵の侵入を防ぐために、守りの指揮をお願いしよう」
「はっ」
忠勝の言葉に忠実は頷き、伝令を各方面に走らせた。
一向門徒の勢いがなくなり、兵も減った状況を見て、教如は落ち着きをなくしていた。
その為、一旦さがり、陣幕の中で頼龍、その側近たちと話をしていた。
「頼龍!如何する」
教如の言葉に、頼龍は考えるそぶりをした。
心の中では、既に教如を落ち延びさせる算段をしていたが、表情には出さなかった。
現状では挽回の機会もなく、本願寺の武威と意地を見せられたと思っていた。
負け戦は分かっていたが、意地を見せなければ、今までなくなっていった信者や僧侶たちが浮かばれないと思っていたからだ。
教如が門主になることはないだろう。
しかし、高田派のように一派の旗頭として生き残ることは可能と考えていた。
その為には、繋ぎがある山の民の元で身を隠し、追手がなくなるまで雌伏すればよいと思っている。
たとえ、国内で権力絶大である秀永であっても、山の民に手を出すことは無いはずと想定していた。
「教如様、ここは転戦しましょう」
頼龍の言葉に、教如は我が意を得たりとして、頷いた。
「此処で敗れても、まだまだ戦い続ける事が出来る。何度も法難を乗り越えて来た門徒の底力を見せる時だ。准如ごとき裏切り者に、浄土真宗の本道を渡すわけにも、絶やすわけにもいかぬ」
教如はそう言いながら、逃げる事への言い訳を語った。
「しかし、転戦できるか」
そう言いながら、周囲にいるもの達を頭に思い浮かべた。
身近には、頼龍の手の者など、信頼のおけるもの達がいるが、それ以外の者達は、落ちぶれた武士や貧民、農民がおり、逃げるとなると、邪魔をされる場合がある。
最悪命を狙ってくる恐れがった。
「分かっております。おい」
頼龍の呼びかけに、僧侶が答えた。
「周囲に居るもの達に伝えよ、此処で引くわけにはいかぬ。全員突撃せよと。我々はその者達が切り開いた道を進むと。仏敵を滅ぼせと」
「はっ」
頼龍の言葉に頷いた僧侶は、周囲に陣取っている者達に伝えに走った。
「大丈夫なのか」
「問題ないでしょう」
「我々が進まなければ、やつらは逃げ出すのではないか」
「そうなればなったで良いでしょう。その時は、我々は此処にいませんので。おい、例のものを」
側近の僧侶に、頼龍は指示をする。
指示を受けた者は何やら、皮の袋に詰められたもの複数持ってきた。
教如はそれを不思議そうに見た。
「なんだこれは」
「獣の血です」
「なに!?」
頼龍の言葉に、教如は驚いた。
いったい何に使うのかと。
「これは、こう使うのです」
そう言いながら頼龍は周囲の者に離れるよう手で指示した。
十分距離がとられたとみた後、頼龍は血の入った革袋を広げ、周囲にばらまいた。
それを真似て、側近の者達も周囲にばらまいていった。
教如はその行為に唖然とした表情を浮かべた。
「い、いったい何を……」
数歩後ずさりながら教如は、頼龍に問うた。
「これだけの血がこの地にあれば、此処で斬りあいがあったと勘違いしてくれるでしょう。そして、此処を引き払う際に陣幕にもかけてやれば、一層真実味が増すと思います」
「し、しかし、遺体がなければ信じないのではないか」
「それも大丈夫です」
その頼龍の言葉に合わせて、側近たちが斬り殺された亡骸を持ち運んできた。
教如はそれを見て、悲鳴をあげそうになった。
戦場を幾つも経験している教如ではあるが、血をばら撒いた異様な状態の後に、斬られた亡骸が運ばれてきたため、混乱してしまった。
「教如様落ち着いてください」
「こ、これはなんだ!」
「戦い、亡くなった門徒たちです。傷つき、運ばれてきましたが、手当をする前に亡くなったのです」
「そ、そうか、そうなのか」
頼龍の説明を聞いて、幾分落ち着いた教如は、この戦いで亡骸が門徒と聞いて手を合せた。
その姿に周囲の者も同じように手を合せた。
「……そうか、亡骸と血で此処で戦いがあったとするのか」
「そうです、中には亡くなった僧侶もいますので、一刻でも欺けるのではないかと」
「亡くなってまで、私を助けてくれるか」
教如はそう言いながら、眼を瞑って、手を合せて経を唱えだした。
周囲の者も同調し手を合わせ経を唱えた。
今まさに徳川に突入しようとしたもの達も、その経を聞いて奮い立ち、南無阿弥陀仏と唱えながら駆け出していった。
耳で周囲の動きを感じていた頼龍は、教如が唱えた経が結果的に、逃げやすくなる状況を作り出したと感じた。
教如には神仏の加護があると実感した。
教如は臆病な処があるが、決して冷酷でもなく、怯懦ではない。
攻撃ではあっても、慈悲深い性根を持っていると、頼龍は思っていた。
あの大坂退去と、准如への門主継承さえなければと、残念に思った。
唱えた経が終わり、教如は頼龍に話しかけた。
「いつ転戦するのか」
「もう周囲には、身内のものしかいません。今のうちに去りましょう」
「分かった」
頼龍は、側近に亡くなったもの達の手に刀や槍を持たせたり、刀を地に刺すように命じた。
刀の数は亡骸とは合わないが、襲撃があったとするならば、問題ないはずと考えた。
後は、陣幕などを刀で切り裂きながら、血をかけていった。
「では、転戦しましょう」
「わかった」
頼龍の言葉に、教如は頷いて、その場を去っていった。
その姿を見ている者には気づいてはいなかった。
「小頭、どうします」
「殿下からは、後を追えと指示は来ている」
「始末しないのですか」
「賛同するものはいないだろうし、居てもごくわずか。ただ、居場所だけは把握しておき、問題を起こしたら抑えるだけだという事だ」
「逃げる場所も限られている気がしますが」
「そうだろう」
そう言いながら二人は、教如たちが去っていた方向に眼を向け、見失わないように後を追った。
兵数は少なくなったはずなのに、攻勢に転じている一向門徒の為に、勢いがそがれてしまい徳川方は一進一退の状態になっていた。
「兵は少ない、そのうち息切れする。耐えよ、はね返せ!」
忠勝はそう言いながら、槍をふるって一向門徒を討ち取っていった。
「殿!余り前にでられては危険です!」
家臣の声を聴かず、忠勝は槍をふるいながらも敵の状況を見ていた。
精神的に回復しているとはいいがたい兵たちを考えれば、忠勝が戦う方が士気向上につながると考えて、あえて槍をふるっていた。
その効果か、忠勝の槍働きに元気づけられ、兵の士気も盛り上がっていた。
視界の範囲の兵たちの動きを観察していた。
「っ!?」
油断していたわけではないが、忠勝は危険を察知し、左の肩を後ろに引き、体をねじった。
その開いた空間に鋭いやりの一撃が突き刺さった。
槍が突き出された場所を見ると、老齢の武士が付いた槍を素早く引き戻していた。
忠勝は眼を細めながら、槍を構え直し、気を引き締めた。
近くにいた家臣たちはそれを見て、周囲の者が邪魔をしないように動き出した。
「ふん、忠高殿の小僧が大したものだ、わしの槍をかわすとはな」
「何?」
「三河でも家格の低い者が、今では家格をあげたか、信仰を捨て、三河の心を捨て、家康如きに売り渡した恥知らずどもめ」
老武士の言葉に、忠勝は頭に血が上り、激怒した。
「何をほざくか!下郎!」
「ふん、三河での所業許されぬのは信仰を捨てた外道の者達よ。我が世の春か、豊臣に性根を売り渡した愚か者どもめ」
「言わせておけば」
忠勝は頭に血が上っていたが、槍を振る時は冷静な心で行っていた。
その為、激怒した状況であっても、槍筋に乱れはなく、神速といって良いほどの速さで老武士に突き出された。
しかし、その槍を老武士は事も無げに横に弾き、お返しとばかりに忠勝に鋭い突きを入れた。
忠勝は、槍の根元でその時を横に弾いてかわした。
「忠義の三河者だと、笑わせるな。三河者が忠義なものか。身勝手で意固地で忠義などはない。清康様や広忠様が何故殺害された。今では牙を抜かれた犬になったが、かつては牙を持った狼だった。今川に、織田に、そして下賤の豊臣にしっぽを振る、薄汚い」
眉間にしわを寄せながら、老武士を睨みつけた。
ただ、相手の言葉を聞きながら、己の記憶を思い出していた。
「お主、どこかで……」
忠勝の言葉を聞かず、老武士は槍を突き出し、忠勝ははじき返し、槍の攻防が始まった。
はじき返す音が、戦場の騒めきの中でも響き渡り、いつの間にか周囲の者達が手を止め、その一騎打ちを見つめていた。
一旦、槍の攻防を止めて、息を整えながら老武士は呟いた。
「下賤のはなたれ小僧が、此処までやるようになったとはな」
「……」
「まあよいわ。もう先もない。亡き殿の元に逝くには土産話として、お主の首を貰う」
「ふん、勝つ見込みもないのに」
「くくく、昔は勝つ見込みがない戦など山のようにあったわ」
「……」
そう言いながら、老武士は忠勝と槍の攻防を再開した。




