4.彼女は彼らに守られながら
一つ、息をする。
それだけでこの身体が悲鳴をあげる。
見た目がどれだけ繕われても、中身はもうダメになっていた。医者ではないし人体の専門家でもない、だけど我が身体のことなのでとてもとても、残酷なほどわかる。
わたしはもう、長くはないのでしょう。
もう長くはないのでしょう。
身体はもういうことを聞いてくれない。簡単なこともままならない。できることは息をすることと生きていること。世話をしてくれる二人に、感謝の言葉と笑みを捧げること。
たったそれだけのことしか、もう自分で行えることがない。
それを彼らは嘘だと思っている。
本当はちっぽけな少女の、あまりに悲しい『強がり』だと。
心から感謝して幸せだと思っているのに、どうして伝わらないのだろう。この身体が以前のように元通りになれば、二人を抱きしめることが叶えば、笑顔は彼らに届くのだろうか。
いや、とすぐさま否定をした。
きっとわたしが健康体であっても、二人はわたしからの感情を拒むでしょう。
それは悲しいことだけど、だけど仕方がないことだった。
主従、だから。
二人は一線を引いて近寄らない。薄い膜の向こう側にいる。
主従、とか。どうでもいいことだと思うのに、主張するのに。
二人は大事な存在で、上も下も何もありはしないのに。
どうしてこの笑みは届かないのだろう。
どうしてわたしの幸福感が、彼らにちゃんと届かないのだろう。
どうすればよかったのかしら。
健康な身体であればよかったのかしら。彼らに、まがい物でも人並みの自我など与えなければよかったのかしら。ずっと一人で、寂しく一人ぼっちのまま死ねばよかったのかしら。
あぁ、でもそれは少し怖い。いいえ、少しどころではなく怖い。たった一人で今のような状況にあったら、わたしは発狂する。レオンもニコもいない世界などわたしには考えられない。
ふふ、と声が漏れた。
まるでコレは恋情ではないか、自分で作り上げた存在に恋をするなんて。
基礎は祖父が作り上げた、わたしのための『理想のお友達』。
だけど、それを長い時間を使い磨いたのはわたし。
自分で自分を好きになるだなんて、と笑ってみるけど動くのは口元だけ。
もうすぐ呼吸すらできなくなることは。彼らに笑みを向けることすら、二度とできなくなることはわかっていた。それが『わたし』の死、彼らとの永遠の別れ。さよなら。
たった一つ、心残りがある。
それは二人のこと。
レオン、ニコ。
主を亡くしたドールは、存在価値がないという。バカバカしい。その程度のドールしか知らないからこそ出てくる言葉だ。あの二人は、主がなくとも充分に存在する意義があるのに。
だから、惜しい。
このままわたしに仕えることが。
彼らは喜んでわたしの墓の手入れをするでしょう。
今、わたしを世話するように。食事の代わりに花を手向け、言葉を捧げ、いつか壊れて動けなくなるまでずっとずっとずっとずっとずっと。壊れる時はきっと、墓の側にいる。
あぁ、それがとても悲しいと思います。
だから二人を任せられる『魔人』を呼ぶことにした。彼ならばきっと二人を、大事に扱ってくれる。あの人は優しい人だ。安心して遺す二人のことを、投げ出すように任せられる。
そのことを伝えないと。
「レオン、ニコ……どこにいるの?」
か細い囁く声で名を綴れば、すぐさま二人が現れる。
左右から手を握り、こちらを覗きこんでくる。
「これから最後のお願いをするの。ちゃんと聞いてくれないと、いくらわたしでも怒ってしまうから覚悟をしてね? ……えっと、それでね、もうすぐお屋敷にお客様がいらっしゃるの」
その人が二人の『これから』を支えてくれるということ。
だから『これから』はその人についていき、自分なりに考えてその後を選ぶこと。
ここに戻ってくることがないこと。必ず幸せになること。
そんな、『これから』の話を二人にしたら。
「うん――ごめんね、全然わからないよ」
ニコが、少しだけ震える声でそんなことを言った。
わかるわけがないよ、と言うニコを、わたしは理解できない。二人は愚かでもバカでもないのだから、もうわたしが『ダメ』なことぐらい、この世の誰よりわかっているはずなのです。
二人はそれぞれ左右の手を握り、握りしめ、それから。
「あなたを一人にはしませんよ、ヘルミーネ」
「ずっと一緒にいるよ、ヘルミーネ」
何を言っているのだろうか、この二人は。
そんなことを言っても、もうどうしようもない。きっと決まっていた。魔女にならずともこういう終わりが来ることはわかっていた。逃れられないエンディング。
ただ、不老長寿となったことで、それが少し先延ばされていただけにすぎない。
別離は確定されたことなのに、なぜ。
「そんなことは、どうでもいいんだ。望みは一つ、ヘルミーネと一緒にいること。この手を握ってどこへでも連れて行きたかったんだ。あなたがいきたいところへ、二人でつれていってあげたかった。そうすれば本当に幸せだって、あなたが笑ってくれると思っていたから」
そんなことはない。
わたしは、二人と過ごした時間以外に、幸せだった頃なんてない。
「もっとよい服をきせたかった、もっとよいものを食べさせたかった。あなたの心の赴くままに行動させて、それを隣で見ていたかった、支えたかった。後悔というものはコレほどに苦いものかと思いながらも、そう思える音色を手にしている自分自身が嫌いではありませんよ」
そんなことはない。
わたしは、二人と過ごす時間以外に、ほしいものなんてない。
レオンとニコと過ごす日々は、とてもとてもかやがいていました。これ以上なんて考えられないくらい、わたしは確かに幸せでした。二人がいてくれたから、だからわたしは幸せで。
だからこそ――。
「幸せだって、笑っているのよ?」
ねぇ、どうして信じてくれないの?
確かに視界は歪んで、きっとみっともない笑みだろうけど。本当に、本当に、心から本当に幸せだと思っているのに。二人は信じてくれないの? 認めてくれないの?
ねぇ、どうして?
「嘘つきだね、ヘルミーネ」
「あぁ、あなたはとても嘘つきだ」
二人がそんな風に笑って、左右から抱きしめてくる。
互いの身体を引き寄せ、わたしを挟みこむように。
「我々を残すことへの後悔があると、気づかれていないとでも?」
そう、それだけが後悔。
だけどわたしは。
「本当は一人ぼっちは嫌なのに、それにも気づかれていないと思っている?」
そう、わたしは一人でいるのが嫌い。
二人がいたから、わたしは今日まで生きながらえてきた。二人がいなければ、もっと早く死んでいた。わたしは二人がいないと、もう立っていられないの。震えて、足がすくむ。
心が、心がね、少しも立ち上がれないの。
「じゃあ一緒にいないとね」
「ずっと、一緒にいなければいけません」
「死んでもずっと」
「その先も、おそばに」
「大丈夫だよ、ずっと一緒についていくから。手を握ってね」
「ヘルミーネを一人にはしません、ここではないどこかへ旅立っても」
それだけが願い。
ふたりは、左右からわたしの頬にくちづけた。まるで、たった今言ったことを有言実行すると神様に誓うように。たったそれだけのことなのに、少し、弱った身体がドキリと跳ねる。
自然と頬が、口元が。
ふにゃりと緩んでしまうの。
「ふたりともワガママね……神さまは、そんなに温情のある方ではないのよ?」
くすり、と苦笑を一つ。
だけどね、きっとそれも悪くない。
叶わない夢ほど芳しく、そして甘美な味がする。
その味にしびれる、毒のような刺激。意識すら奪っていきそうな。
あぁ、だけど怖くはないの。
二人が抱きしめてくれるからもう、何も怖いとは感じないの。
わたしは幸せよ。
愛しているわ、心から愛している。
わたしの大事な――。
■ □ ■
とある国に、ヘルミーネという女の子がいました。
ヘルミーネは『人形師』をしているおじいさんに育てられて、お屋敷にはたくさんのお人形がいました。身体が弱くてお外にいけないヘルミーネの、とても大切なお友達です。
その日、ヘルミーネを一人の少年が訪ねました。
金色の髪の、とても美しい身なりをした少年でした。
彼はヘルミーネが横たわるベッドの傍らの椅子に腰掛けて、いろんな話をします。
もう二人しか知らない彼女の祖父の話は、暫くの間、次から次へ思い出されるように絶え間なく続きました。楽しいこと、面白かったこと、彼の思い出話はしばらく、長く続いて。
「皮肉であり、残酷な話だ。魔女となろうと、病には勝てない。だが、不老ゆえに肉体から崩れ落ちていくことはなく、死の病の苦しみは長く、いつまでも続いていく。言うならば普通のヒトの時間を引き延ばす痛ましい行為。……だけどキミは、幸せだと笑うのだろうね」
ヘルミーネは、幸せそうに笑っていました。
美しい従者二人の腕に抱かれて、ただ、静かに。
「あえて、問おうか」
少年は眠るヘルミーネに向かって。
「キミは今――幸せかい?」
そう問いかけたあと、彼はもしかすると声を聞いたかもしれません。もちろんよ、と鈴のように優しい声で笑う一人の少女の答えを、聞くことができたかもしれません。
彼女は、ヘルミーネ・エンゲルスは静かに微笑んでいました。
家族を流行病と事故で失い、祖父から技術を学んで魔女に至った、けれども身体が弱くて寂しがりやで、稀代の人形師、なんて呼ばれた祖父の弟子に初恋を捧げた少女は。
幸せそうに、微笑んだままでした。




