3.魔人・魔女――またの名を
その少女の部屋は、蠱惑的な香りに満たされていた。
「ようこそ当家にいらっしゃいました」
ソファーに身を沈め、微笑む少女。メルローズは、目の前に立つ黒衣の少年を眺めて目を細めている。来ている服は赤、ただしドレスよりはシンプルなデザインの寝間着だ。
所詮部屋着というやつだろうか。
背後で閉じていく扉の音を聞きながら、セドリックはふと笑みを浮かべる。どうやら彼女の向かい側に座れということらしい。室内に控えている数人のメイドは、それぞれ静かに佇んでいる。まるで人形のようだ。それだけ従順にしつけられている、ということなのか。
「それでメルローズ嬢、ボクに用件でも?」
「いえ? ただお話をしたかっただけですわ。お爺様の日記にあった《魔人》に」
メイドの一人にお茶を用意させながら、メルローズはにこにこと笑う。だが、時折覗く年齢に吊り合わない女の顔が、セドリックを舐め回すように見るのを、気づかないわけがない。
値踏みをし、食べつくさんとする目。
所有欲を隠そうともしないで、その矛先を向ける姿。
――似ているな。
冷め切って凍りつく感情が、そんな感想を吐露する。
メルローズは似ていた。セドリック・フラーチェがまだ、セドリック・エクルストンだった頃に『妹』だった少女に似ていた。彼を盲目的に愛し、欲していた少女に似ていた。
そう。
セドリックが間接的に殺した女に、とてもよく似ていた。
それが少女の、メルローズの企みや思惑のすべてを叩き壊したことを。もはや彼女の策は何の意味もなさないことを。口角を釣り上げ笑みを浮かべたセドリックだけが知っていた。
それゆえに。
「メルローズ嬢」
「何かしら?」
「そんな子供の遊びで、このボクをたらしこめると思ったら大間違いだ」
その傲慢には、拒絶という名の茨を返した。
■ □ ■
扉を開けたカティの目の前には、例の執事がいた。黒に身を包んだ、赤を纏う主にとても良く映えた青年。先ほど、セドリックを連れて行ったはずだが、何か問題でもあったのか。
――可能性があるから困りますね。
セドリックは一番の得意先だと言いながらも、貴族などを好まない。彼らはすべての人も事象も自分らに傅くもの、と考えている場合があまりにも多く、付き合いきれないという。
元々、一部の顧客以外とは一期一会だ。
次があるとも知れない相手に、セドリックはあまり礼儀を使わない。もちろん上辺の笑みを浮かべてやり過ごす程度の『気遣い』はするが、所詮はそこまでしかしないとも言える。
今度は何をやらかしたのだろう、と思っていたが。
「少しお話でもしませんか?」
にこやかに話しかけてくる執事。てっきり件のお嬢さま辺りに失礼を働いたセドリックを即刻回収するように言われるのかと思ったのだが、どうやらそういう要件ではないらしい。
執事は部屋の中には入らない。
どうも、そこら辺を一緒に歩きながら、ということのようだ。
カティは一瞬考え。
「わかりました」
少し待っていてほしいと告げ、一度扉を閉める。
それから軽く身支度などを整えて、再び扉を開いた。
どこに行くのかと聞けば、屋敷の中央にある中庭だという。パーティの会場からも見えていたそこは、この屋敷の自慢の一つなのだそうだ。常に一流の庭師集団が整えているという。
その言葉に違わぬ庭を、カティは明るい時間に見ている。
そして中庭は、前庭を更に超える規模だった。中央には池と、更に中心に噴水。こちらは全体が花のような造形をしていて、さながら池から咲いているかのように見える。
石を地面に埋め込むように作られた遊歩道。その両脇には背の低い草花が植えられて、奥へ行くほど偽が高くなっていく。まるで迷路を遮る壁のようだと、カティは思った。
つける花の種類や色も、計算しているのだろう。
常に美しく、彩り良く咲くように。
――しかし少しだけ、雑草が目につきますね。
隙間の奥の方、あえて目を向けないと気づかないところ。微かに雑草が残っている。おそらくは雑草をとった時の、取りそこねたものだろう。これだけの広さを持つ庭だ、ある程度こぼしがあるのはしかたがないように思う。ましてや影にあるのだ、気づかなくても無理は無い。
だが。
――これだけの庭をつくり上げるだけの職人にしては、ややずさんなように思いますが。
あの人数の客を招くパーティ。彼らが散策するだろう中庭には、少しのミスも許されないはずだ。貴族社会というものは一つの失敗が、百の汚点へと変貌する場所である。
富豪から成り上がり、さらに上を目指しているのだろうにしては、どこか違和感があった。
「もう一つの自慢はお嬢様ですよ」
執事は、さも当然のように主を褒め称えた。
カティは記憶にあるこの屋敷の令嬢メルローズの姿を思い浮かべる。確かに彼女はとても美しい少女だった。身分はどうもセドリックが言ったように、彼女の家に爵位はあるが決して高くなく、そして扱いもおそらくは貴族ではなく富豪としてのものだろうと思う。
あれでもし生まれながらの、生粋の貴族であれば。
――どこかの王妃になることも、不可能ではないでしょうね。
当然のように見初められるだろうと思う。だからそんな少女に使える執事が、美しさを褒め称えるのは当然だ。事実、彼女はとても『美しい』わけなのだから。
まぁ、それを屋敷の名物とするのは、少々歪んだ苦笑を浮かべそうになるが。
「だから、仲良くしたいと思っているのですよ、あなたと」
「……はい?」
「彼はきっとお嬢様に傅き、望まれるままここに留まりますから」
にっこりと、笑みを浮かべて綴られる音に。カティは眉をひそめた。
留まる、と言われてもセドリックは今すぐにでも帰りたがっていたはずだ。帰ろうにも列車はすでに最終便が出ていて、ホテル代を浮かせるためにここに一泊するだけのこと。別に昔からのつながりがあるわけでもないところに、研究その他をほっぽり出して留まる理由はない。
もしかすると、そのことを伝えるためにメルローズはセドリックを呼びつけたのか。
だとすると無意味なことだ。
「無意味だと、あなたは思っていますか?」
噴水の傍らで、執事が足を止める。
振り返った彼が浮かべている微笑はどこか、セドリックのそれと似ていた。
「彼女の魅力に、誰も抗えませんよ。だってそう作られたのだから」
少し口元を歪めて笑う。執事の言葉が、カティにはいまいち掴めない。なので、彼女はまず分かるところから返答することにした。つまりは、セドリックに関するところのみだ。
「セドリックが帰らない、と?」
「えぇ」
「あのメルローズ嬢に、傅いて?」
「そうです」
「ありえませんね」
「なぜですか? お嬢様はあれほどに美しい」
「それはわたしも認めます。ですが、セドリックがたかが『その程度』で、ここに留まることなどありえません。絶対にない、とわたしは断言します。何をしても無意味でしょう」
「……認められないだけではないのですか?」
「何をですか」
「生身ではない己と、柔らかい肉を持つお嬢様の格差を。ここに留まるほど彼の心を失う、そんな錯覚に襲われているのでは?」
「……」
「あなたが《ドール》であることはわかりました。その白い肌、とても美しいですから。衰えなどありえない質感は、わざわざ触れずともわかります。ですがあなたは、ヒトではない。温かいその肌に血の香りはしないし、その身体が命を作り出すこともないのですよ。それに比べて生きている美そのものとなったお嬢様の、なんと生々しくも芳しい生命の香りは! 何人も手を伸ばさずにはいられないよう、丁寧に作り上げた至高の存在なのですよ!」
「……それは、つまりメルローズ嬢は生身の人間であるから、セドリックが手を出すと。わたしの無機な身体では彼は満足しない。つまりはそういう意味合いでしょうか」
「要約すれば、そういう感じになりますね。でも否定はできませんでしょう?」
「えぇ、そうですね」
カティは答え。
「セドリックが今のわたしに、満足することなど決して来ません」
それは、指摘されるまでもなくわかっていることだ。だが。
「彼が今のわたしに満足する日は、きっと永遠にこないでしょう。今日よりも明日、明日よりもずっと先のわたしを、彼は追い求めている。わたしは、その理想に寄り添うドールです」
「自分を未完成と認めるなど、愚かなことだ」
「そうでしょうか。身の程を知っている、と自負しますが」
「身の程? その言葉であなたは、我がお嬢様に負けを認めたことになる。なぜならお嬢様は完璧に完成された存在だ。未完成品に勝てるところなど、何一つありえないのですから」
全てにおいて完成された存在と、未完成であると自ら認める存在。
その二つを知って、いや前者を知っておいて。
彼はどちらを選ぶでしょうね、と。
笑う執事に、カティは淡々と告げた。
「彼は、セドリックは常に『自分自身』を選びます」
どれだけの大金を積まれても。どれほどの美女に迫られても。セドリック・フラーチェという名を持ったその《魔人》の行動理由と理念はたったひとつ。そこから揺るぐことはない。
「彼は理想の狂信者。いいえ、魔人や魔女と呼ばれる、叡智を賜ったすべてがそう呼ばれるに等しいだけの激情を抱いています。ゆえに――彼らがそれ以外に殉ずるなど、決してない」
だからカティは言い切った。
彼女に靡くことなど絶対にない、と。
「彼の理想はここにある」
その手が胸元を抑える。そこに眠るコアに触れるように。
「彼は己の理想を裏切ったりなどしません。理想ではない完成品より、理想に寄り添う未完成品を彼は望む。だからあなたの企みも、彼女の狙いも、全てが意味のない行為となります」
そこまで言ってから、カティはふっと笑みを浮かべた。
目の前の、ずっと涼し気な表情をしていた執事が初めて顔を歪ませた。屈辱を味わったように表情を崩した。それが、なぜだろう。そういうことを考える性格ではない、と思いつつ。
とても、嬉しいと感じられた。




