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ジェーンは絶対アメリカに帰らない

「ふむ……これがスペッツナズか……やはりこの身ではつまらんものだな……」


 床に転がるのはロシア人の男たち。

 彼らを非情にも踏みつける男がいた。


「お前らに邪魔をされたら困るのだよ」


 男はそう言うと後ろに控えていた黒服の男達に指示を出した。


「こいつらを捕まえておけ。いいか……殺すなよ。これ以上、ライアンのような化け物に湧かれたら厄介だ」


「かしこまりました。」


「それと勘のいいやつがいる。事前に一人逃げたようだ。捕まえておけ……いや船に近づけさせさえしなければいい。蔡にも報告しといてくれ」


「かしこまりました。黄様」


 黄と呼ばれた男はロシア人を蹴る。

 そして、つまらなそうな顔をして闇に消えた。



「麗ちゃん。頼むねー」


 ジェーンはそう言うと電話を切り田中との通話を終了した。

 そして携帯の画像フォルダを見る。

 それは大量の石膏像が写った写真。

 レイラが送ってきたものだ。

 やることは多い。

 今度はCIA工作員としての仕事があるのだ。

 しかも非常に繊細で難しい問題だ。

 父親(ダン)の足を引っ張ることしか考えていないバカ大使が大鉈を振るう駐日アメリカ大使館には知られてはならない。

 メチャクチャにされてしまう。

 だからジェーンはVIP専用回線で父親に直接報告することにした。


「やあ! パパだよ!!!」


 ダンは娘からの電話に意味も無くテンションが上がっていた。

 自分からはしょっちゅう電話をかけているが、最愛の娘からの電話なのだ。

 妙に嬉しくなってしまう。


「パパ。落ち着いて聞いてね。南部で流行ってる例の麻薬。無臭で警察犬が探知できないやつ。カルコサだっけ? あれが学校に持ち込まれたみたい」


 カルコサ。

 名前の由来はホラー小説に由来する。

 いわゆるサイケデリック系の幻覚剤で効果はLSDと同等。

 だがこの薬には厄介な特徴があった。

 完全に無味無臭で、しかもいくつかの樹脂に溶かすことができ、成分の抽出も家庭用のキッチンでできるほど簡単なのである。

 しかも警察犬にすら検知不可能。

 現状はX線検査によってしか検出できない。

 ゆえに隠し方さえ工夫すれば、従来の麻薬と比べて容易く税関を突破できてしまうのだ。

 これにより流通量が安定し、コストが安くなる。

 今では学生でも簡単に買える程に安価で流通している。

 しかも毒性は強く、攻撃性の増大、妄想など幻覚が終わった後も精神に影響を及ぼす。

 服用開始後数年で精神を破壊し廃人になると言われいる。

 廃人にならなくともカルコサを服用した大学生が幻覚によって飛び降り事故を起こすなど社会に不安を与えている。

 今では家庭で生成できるクロコダイルと同じくらい危険な薬物として当局にマークされていた。


「ジェーン!!! また危ないことに首を突っ込んでるのか!!!」


 ダンが我慢ならないぞとばかりに怒鳴った。


「だって……明人のサポートは私の正式な任務よ! それに予言を破って生き残った私のサポートが必要だっていうのも井上の予言を解析したバチカン図書館の見解なんでしょ。予言通り明人が死ねば人類滅亡ってさ。私たちがサポートすれば明人は死なない。人類も滅びない。……でしょ?」


 バチカン図書館。

 8万近くにも及ぶ文書と110万点もの蔵書を所蔵する世界最古の図書館の一つである。

 そこから17世紀に分離されたのが秘密文書保管所。

 井上の予言も秘密文書保管所で管理されていたのである。

 それも最高レベルの機密として。

 キリスト教徒ですらない明人の所有権を公式に主張しているローマは井上の予言の調査に明人やライアン、ドリキャス仮面に水面下で調査をさせていた。

 滅亡の引き金を引くかもしれないアメリカに知られるわけにはいかなかったのだ。


 だが、明人がジェーンを救い、井上の予言を回避し、核戦争の危機までも阻止した今、ローマはアメリカにも(半ば公然の秘密であった)情報を開示することを決断した。

 現在、井上の予言は伊集院明人に縁のある日本・アメリカ・ローマの合同で研究が進められていた。

 なぜ伊集院明人に縁のあるものたちだけなのか?

 その原因は井上の予言の最終章にあった。

 井上の予言の最後にあるのは伊集院明人の死。

 そして、最後にまるで閉めるかのように書かれていた言葉「世界の終わり」。

 それは人類の滅亡を暗示するものなのか?

 それが一番の問題だった。


「パパはね……たとえ人類が滅んでもジェーンには怪我一つしてもらいたくないんだ」


「パパ。いまムチャクチャなこと言ったよね」


「いいの! 今まで苦労したんだから、子どもらしく生きるの! 好きな男の子と一緒にいたいとか仕事にも誇りを持っているとか……俺はそういうのは痛いほどよくわかってるから大使館という紐をつけて日本にいることを許したんだ! 決して怪我するためじゃない! 危ないことするなら帰って来てパパと暮らすんだ!!!」


 やべえ!

 ジェーンは焦った。

 現在、ジェーンの部屋にはあやしいアイテムが大量に保管されている。

 アメリカ本土に持ち込んだら逮捕されるレベルのエッチなコミック。……これで少女向けなのだから日本はやめられない。

 少年同士の行き過ぎた友情を描く小説やらコミックやら。

 それと18禁の同人誌の山にエロ漫画に……えっちなドラマCDに……

 もちろんユーリに送ったもののようなDVDやら、エロゲやらも。

 まさに親に見られたら自殺するしかないような品だらけであった。

 だがこれは仕方ない。

 ジェーンは妄想で頭がいっぱいの13歳の女の子なのだ。

 さんざん汚い世界を見てきているせいか乙女な妄想は控えめだが、その分情熱はエロにそそがれていた。

 金はある。

 親の金や詐欺で作った金でもない。

 ちゃんと自分の腕で稼いだ金だ。

 親や学校の監視もない。

 立場上、身分はいくらでも偽造できるから通販はクリアできる。

 そんな状態でエロを蒐集して何が悪い!!!


 ジェーンは思った。

 コレクションをアメリカ本国に持ち込んだら普通に逮捕されてしまう!


 明人に関しては、誰も二人を引き離すことはできない。

 恋愛の話ではない。

 今まで伊集院明人は様々な困難を乗り越えてきた。

 ほとんどが鉄拳を振るい悪を成敗するものだ。

 荒々しいが権力を振るう巨悪には弱い。

 それは諜報がヘタクソな明人が暴力というカードしか持っていないからだ。

 だがジェーンと出会い諜報ができるようになった今では各国の首相や巨大企業をも相手にできる存在になった。

 今やお互いになくてはならない存在である。

 たとえ物理的に距離が遠くなったとしても二人の間は常に近いのだ。

 あとは汚い手を使ってでも手に入れればいいだけだ。


 だが良い子には売って貰えないグッズたちは違う。

 多くが日本でしか所持ができないのだ。


 さらに最大の問題は問題は10代の少女として父親との間合いをどう保つかということだ。

 思春期の暴走を黙認してくれる親ならいい。

 だがダンは父親の経験が浅い。

 ジェーンを天使のような子どもだと思っているのだ。

 対思春期用の気の利かせ方などわかるはずがない。

 本気になって止めに入るはずだ。

 ダンは娘がこういう生き物だとあきらめるだけの時間を与えられていないのだ。

 それは母親が入院していたせいで何年も一人で生活していたジェーンには「死ね」と言われているようなものだった。


 だからジェーンは無理矢理話を変えることにした。

 ここでけむに巻かねば死ぬ。

 ジェーンは必死になった。


「パパ! 今はそんな事を言っている場合じゃないわ! 今はカルコサの心配をして! それにこの事件の目撃者はロシアのスパイよ! それもユーリの関係者! これはアメリカの危機。しいては世界の危機。正義いわゆるジャスティスよ! わかるわね!」


「お、おう……」


 かつてないほど必死になって雄弁に正義を語る娘を前にダンは釈然としないといった声で相づちを打った。



 レイラは喫茶店でお茶を飲んでいた。

 腕時計を見る。

 指定の時間だ。


「待ち合わせ場所に向かうぞ。警察が来る」


 レイラはわざと「警察」という単語を使った。

 わかりやすいからだ。

 それに待ち合わせもすぐ前の道路だ。

 この任務はもう終わりだ。

 多少の間違いは許されるだろう。


「え? ……警察なら呼んで貰ったよ。さっき」


 余計なことをしやがって。

 レイラは焦った。

 やはり日本人は平和ボケだ。

 ことの重大さを理解していない。

 警察も信用ならないのだ。


 喫茶店のガラスの向こうに二人の警察官が見えた。

 胸には漢字で「埼玉県警」の文字。

 一人の手には散弾銃。ただし半分に切ったものだった。

 いわゆるソードオフ・ショットガン。

 公文書ではショートバレル・ショットガンとも呼ばれるものだ。


「伏せろ!」


 レイラは明香里を抱き寄せて床に伏せた。

 光と音、そしてガラスの破裂。

 相手は散弾銃。それも接近戦用に半分に切ったものだ。

 ナイフすらも持っていないレイラに勝てる見込みはない。

 レイラは目をつぶった。

 最低だ。

 正義感を振り回した結果がこれだ!

 工作員としての任務も失敗。

 命まで失う。

 なんて自分はバカなんだ。

 そう自分を呪いながらも明香里に覆い被さり守ろうとした。

 どうしても許せなかったのだ。

 理不尽と一般人への暴力が。

 どうしてもターニャに教わった誇り高きものになりたかったのだ。


 ターニャ。ごめんなさい。


 目をつぶったレイラの耳にバイクのエンジン音が聞こえた。

 音が気になりレイラは恐る恐るまぶたを開けた。

 まず鈍い音がした。

 次に破れたガラスから猛スピードでバイクが進入してきた。

 器用にもバイクは割れたガラスを避けるかのようにジャンプし、散弾銃を構えるニセ警官の顔にそのタイヤがめり込んだ。


 ライダーは鴉のような黒髪を短髪にした男。

 一見すると細身だが肩幅は広く背中も広い。

 鍛えられた肉体だ。

 何かのアスリートだろう。

 バイクは器用に止まり、ニセ警官はバイクのタイヤの下に敷かれていた。


「よう。大丈夫か?」


 男はぶっきらぼうにそう言った。

 まるでその姿はティーン向け恋愛小説の男の子のようだった。

 なぜか顔が赤くなる。

 だがすぐに冷静になった。

 何を考えていたのだ!

 もう一人のニセ警官がいたはずだ。


「もう一人いたはずだ!」


「大丈夫だ。大将が料理してる」


 それは本当だった。

 もう一人のニセ警官が何者かに駆け寄り、持っていた拳銃を構えた。

 その射線をすり抜けて現れたのは、恐ろしく綺麗な顔をした男。

 まるで俳優のような綺麗な色の金髪を軍人のような短髪にしている。

 その顔には野暮ったい眼鏡をかけている。

 その男が狼の如き速さでニセ警官の拳銃を手に取った。

 そのまま拳銃を持つ腕の下に手を回し、下から関節に圧力をかけた。

 みしりという音がしたような気がした。

 その瞬間、男の体が軽く沈み、宙に放り出されたニセ警官の体が空中で一回転して床に激突した。

 聞いたことがある。

 天秤投げとか、呼吸投げとかという日本の古武術の技だ。

 肘関節を極めることによって体勢を崩し、そのまま相手と自分の移動するエネルギーを使って投げる技。

 残念だがごく限定された状況でしか使えない見せ技のはずだ。

 殴ってから掴んだ方が効率的なはずだ。

 だが、目の前には実戦で使える化け物がいた。

 彼は同士、伊集院明人に違いない。

 そしてバイクの男は仲間の藤巻。

 確かに強力な援軍だった。

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