第37話 味見
小さな手は積み重なるように付着している。
ぶにょぶにょとした質感で、蠢く指がまるでイソギンチャクのようだ。
触れた箇所がじっとりと湿って痒くなってくる。
「うわあああああっ!?」
仰天した俺は腕を激しく動かして振り払おうとする。
しかし密着して剥がれなかった。
斧は重たすぎて持ち上げられそうにない。
小さな手はゆっくりと這い進み、肩から首へ登ろうとしている。
(こいつが喰呪荘の霊かっ!)
血相を変えた佐奈が駆け寄ってくる。
彼女は出刃包丁を逆手で掲げながら言った。
「動かないで!」
その構えを見て即座に理解する。
佐奈は俺の肩ごと霊を刺そうとしていた。
俺は「ふざけんなっ」と叫んで全力で飛び退く。
振り下ろされた包丁は避けられたが、苔で滑って転んでしまった。
立ち上がる前に佐奈が近付いてくる。
「動くなって言ったでしょ! すぐに仕留めるから! 新作の資料にするから!」
「俺ごと刺すなって言ってんだよ! 馬鹿じゃねえのかクソ!」
怒鳴り合ううちに小さな手が首に触れた。
痒みがどうしようもなく強まってくる。
いっそ素手で剥がそうかと決心した瞬間、小さな手が破裂した。
棺崎がこちらに向けて指を差していた。
「やれやれ、仕方ないね。もう少し冷静になりたまえ」
「す、すみません……」
叱られた佐奈が露骨に落ち込む。
首と肩に残った黒い汚れを拭いつつ、俺は棺崎に尋ねる。
「呪物があれば安全なんじゃないんですか」
「安全とは言っていないよ。先に呪いが喰われるだけで、霊から干渉されることはある。まあ、軽く舐めて味見されたようなものだね」
「味見って……」
廊下の奥で物音がした。
床の隙間から夥しい量の手が湧き出てくるところだった。
さっきの奴に比べると十倍は大きい。
そんなモノがぺたぺたと音を立てて接近してくる。
棺崎は感心した様子で述べる。
「群体の霊だね。一匹倒したことで捕捉されたようだ」
「先生! ここでドンパチしますか!」
「真っ向勝負はリスキーだ。少し逃げようか」
「了解ですっ!」
棺崎と佐奈が来た道を走って戻る。
俺はすぐさま立ち上がり、二人の後を追いかけた。
巨大な手の塊はそこそこのスピードで移動している。
追いつかれるほどではないものの、油断すると捕まりそうだった。
俺は前を走る二人に呼びかける。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 斧が重くて走りづらいんだ!」
「死にたくなかったら急ぎなさいよー。元陸上部でしょ」
「砲丸投げだから関係ねえよっ!」
言い返した俺は、斧を投げ捨てて逃げた。




