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忘れるものか目標を

 賢者と言うだけあって、じいさんの家は人間の基準で言えば伯爵クラスの貴族屋敷もかくやという豪華さだ。

 もちろん俺は貴族の邸宅など訪れたことがない。

 ごく稀にギルドの依頼により、王都まで往復する貴族の護衛任務を受けたことがあり、男爵家の玄関先まで馬車に同乗した経験がある程度だ。

 男爵クラスなら、王都のどの邸宅と比較してもじいさんの屋敷に軍配が上がることだろう。


 初めて昼食をご馳走になったあの日、部屋から一歩出ただけで仰天し、一般家庭にあるまじき廊下の長大さに圧倒されたものだ。

 だって、飯を食うためだけの部屋――食堂なんてものまであるんだぜ。

 同じ衣装に身を包んだ妙齢のエルフ女性メイドがずらりと――そうだな、ぱっと見ただけでも二桁くらい――整列し、食事する俺たちが一切席を立つことなく、おかわりから飲み物の注ぎ足しまで、全部お世話してくれるなんて。

 メイドだぞ、メイド。初めて見た。本当にいるんだな。


「まるで貴族だ。いや、貴族ってのが実際どんな生活してんのか、俺が知ってるわけじゃないが」

「うふぅ。クリスの新しいお友達、本当にかわいいわね。記憶がないって聞いてたけど、一通りのテーブルマナーが身に付いているし、きっといいところのお嬢様だったのね」


 えーと。今話しているこの人。姿が変わる前の俺とクリスとの中間くらいの年格好か。クリスそっくりだが、彼女が少し成長したような外見だな。

 俺のテーブルマナーは孤児院でシスターに仕込まれたものだが、どうやらエルフにも通用するようだな。ほっとしたぜ。

 全く、気が利かないじいさんだぜ。食事を始める前に紹介しとけよな。


「ご厄介になる身でご挨拶が遅れて申し訳ない。エレンと申します。なにかお手伝いできることがあればなんなりと仰せ付けください、お姉さま」


 こんなに豪華なタダ飯を食わせてもらって何もしないなんて、落ち着かないことこの上ないからな。


「まあ! まあまあ。ちょっと聞いた、クリス。エレンちゃんてば、あなたと同じくらいなのに敬語完璧よ」

「そうねー」


 すまんクリス。さすがの俺もこの雰囲気の中で普段の言葉遣いができるほど、肝が据わってない。


「お父さま。お姉さまですってよ! ね、ね。もう一度言って頂戴、エレンちゃん」

「お、お世話になります、お姉さま」


 なんだ、どうしたそのテンション。

 ……ん? お父さま?

 今、じいさんのことをそう呼んだのか。


「うふー。嬉しいわあ! このレオノーラ、まだまだイケるわね! 百歳になってもそう呼んでもらえるなんてっ」

「ママったら興奮しすぎ。あたしが食事中に騒ぐといつも注意するくせに」


 覚めた態度でハーブティーを口に含むクリス。こっそり見比べてみた。

 ううむ、エルフ恐ろしや。どう見ても歳の近い姉妹じゃないか。


「主人ったら少子のエルフの中でも特別に子種が薄いのか、ようやく生まれたクリスが一人っ子のままなのよ」


 そんなこと言われて、俺にどう反応しろと。

 まあがんばれ、今この場におられぬご主人。


「ね、エレンちゃん。あなたさえよければうちの子になりなさい。()()()()、いつまでも面倒見ちゃうぞ」


 そりゃエルフの寿命を考えれば、実際にそうできちゃうだろうけどな。でもな。あなたがたの時間感覚からすれば、あっという間に俺の見た目、あなたより年上になっちゃうから。


「いえ、お……わたしにはやりたいことがありますから。いつまでもお世話になるわけにはいきません」

「そうお? でも、今日からここをあなたのおうちだと思ってね。どこかに旅に出ても、いつでもここに帰ってきていいのよ。社交辞令なんかじゃないわよ。お姉さん、本気よ」


 レオノーラは立ち上がると、メイドたちに身体を向けた。


「あなたたちもいいわね。今この瞬間から、エレンちゃんを私の娘として扱いなさい」

「かしこまりました、奥様」


 は? なんでこんなにチョロいのこのエルフ。ただお姉さまって言っただけだよ俺。

 人間の……というか俺が身をおいていた世界なら、色んな人から騙されそうで危なっかしいよ。

 ホントに百歳?

 じいさんとクリスに視線で問いかけるも、二人ともに目を逸らされてしまった。

 なるほど。そういう個性か。アイ、アンダスタン。


「こんな服も縫ってあげましょ。あんなドレスも仕立ててあげましょ。クリスとエレンちゃんを一緒に着飾って、心行くまで愛でるわよぉ」


 レオノーラの不穏な呟きには心の手で耳を塞ぎ、それからの俺は無言のまま、静かに食事を終えたのだった。



*****



 最初が肝心。

 何事にも当てはまるわけではないとは思う。だが、クリスの母上たるレオノーラとの関わり方に関しては、俺はその言葉を深く実感するはめになった。

 ……言えないのだ。

 彼女の前でだけは。自分のことを「俺」だなんて。

 見た目は、元の俺より一つか二つほど若い程度。

 クリスよりもさらに優しげな瞳に見つめられると、心の底まで癒し、とろけさせられるような気分になる。


「エレンちゃーん」


 さすがにちゃん付けで呼ばれるのは抵抗があるなぁ。


「お姉さま。せめて、呼び捨てにしていただけませんか」

「いいわよぉ。ならエレン。あなたもわたしのことをママと呼びなさい。敬語も禁止よ」


 な! 何を言って――やめてくれそんな不安そうな顔は。それはなんというか、ずるいよ。こちらが断りそうな雰囲気を感じ取って、先回りして悲しげな顔をするなんて。

 はあ。

 仕方ない。


「わかったよ。母さん」

「……」


 なんでそんな、素敵な笑顔で首を傾げたまま、無言でじっとしてるのさ。

 はあああ。

 しょうがない。


「わかったよ。……ママ」

「んー、いい娘よエレン!」


 頬擦りされてしまった。

 思わずこちらの頬も緩んでしまうが、それこそしょうがないよな。


「そうねえ。敬語をやめると、言葉遣いが微妙に男の子っぽいのよね。記憶を無くした影響かしら。でも安心してね。クリスとわたしで、少しずつ矯正してあげるから」


 いや、不安しかありません。できるだけ放っておいてくれませんかお母さ――ママ。

 この環境で俺、いつまで自分を保っていられるだろうか。



*****



 お詣りという言葉には、あまり馴染みがない。なんとなく想像はつくのだが。

 幸い、俺は記憶喪失という設定だ。

 首を傾げ、その言葉を告げたクリスに聞き返す。


「お参りってなに?」


 慣れというのは恐い。少し意識するだけで、女の子のエレンを演じることができるようになりつつある。

 クリスはともかく、ママが、ね。

 男の子口調で話す俺を見ると悲しげな顔をするものだから。

 ママが見ているところではおとなしくしていよう。


「この土地を見守る神様にご挨拶をすることよ」


 大体想像通りだが、エルフってたしか、風の神シルフィードを信仰してるんじゃなかったっけ。

 風の神がおわす場所と言うと、高い場所――もしかして、山登りするのか。まだ身体にしびれが残ってるからな。面倒だな。


「土地神様は水の神ウンディーネ様よ」


 あ、湖か。それなら近くにある。山登りよりもずっと楽だな。



*****



 ママから手渡された小さな布を手に、ひきつった笑顔のまま固まってしまった。

 持ち上げてみたそれは、ほとんど視界を隠すことはなく――。

 なみなみと水を湛え、日の光を反射して輝く大きな湖が目の前に広がっている。


「うふ。エレンが嬉しそうでわたしも楽しいわ。さ、それに着替えて頂戴」

「いやいやいや。着替えてって言ってもママ。これって下着だよね」

「違うわよ、エレン。それは濡れても大丈夫な布で作られてるの。水着よ」


 クリスが得意気に教えてくれた。

 ……ってもう着替えてるし!?


「さて、わたしも着替えましょ。エレンも早くしないと、お着替え手伝っちゃうわよ」

「わ……わかったわよ」


 何が楽しくて娘に向けてそんな手つきを見せつけてくれますかねこの母親は。


「……うう」


 ここにはママとクリスしかいない。

 だけど、家で湯浴みするわけでもないのにほとんど裸同然の格好を、こんな視界の開けた屋外で。

 まあ確かに、ママもクリスも自分と同様、ブラとパンティだけの格好で楽しげに水浴びしてるんだけどね。


「もう、エレンったら真っ赤になっちゃって可愛いんだから。すっごく綺麗なプロポーションなんだから堂々としてればいいのよ」

「そうよ。これはウンディーネ様にご挨拶するための正装なんだから。あなたもそこに突っ立ってないで、早く湖に入りなさい……なっ」


 語尾のあたりで、ママはこちらに水を飛ばしてきた。


「きゃっ!」


 きゃっ、だと!? この俺が!?

 くっそ、仕返しだっ。


「えいっ」

「きゃあ。うふふっ」


 うわ、クリスも水を。このっ。

 ……あれ。やばい、なんか楽しいぞ、これ。



(あなたを待っていました。勇者の資格を持つ者よ)


「……え」

「ウンディーネ様! こんなお側にっ」


 呆けた声を漏らす俺とは対照的に、ママとクリスは左膝と右手を湖につけた。

 これは一部の宗教や国王との謁見において服従、忠誠、恭順などの意味を持つ独特な跪き方だ。

 一拍遅れ、俺も同じ姿勢をとる。


(立ちなさい、勇者の卵……エレンよ)


「え? は、……はい。わっ」


 言われた通りにすると、すぐ目の前にウンディーネがいた。

 透き通った青い身体。その表面に、さながら衣服のように流水を纏っている。

 よく見ると、長い髪も流水のようだ。

 男爵の屋敷では、よく庭に飾られている美術品としてお目にかかったことがある。

 あの彫刻は想像の産物ではなくモデルありきだったのかなどと納得しつつ、表情が変化することのない神様を見つめた。


(エレンよ。水の加護をそなたに)


 ――ひゃあっ。


 頭から水を浴びせられた。

 しかし、不思議と不快感はない。


(破魔礼装を纏いなさい、勇者エレン。そなたが信じる道を)


 俺が――勇者?

 水滴が湖に波紋を作るのをぼんやりと眺めた後、もう一度正面を見た。

 だが、そのときにはもうウンディーネはどこにもいなかった。


「楽しかったわね。エレン、クリス。さ、帰りましょ」

「帰ろ、帰ろ」

「え、え? 二人とも、今の一幕は?」

「なあに、エレン。まだ遊び足りないの」

「そうじゃなくて、ウンディーネ様が――」

「ああ、うふふ。エレンは真面目なのね。土地神様にご挨拶と言っても形だけよ。みんなで湖で遊びたかっただけなの。……こうして水着を着てね」


 そういってウインクするママもクリスも、俺をからかっている様子が感じられない。

 どうやら本当に、二人はたった今までそこにウンディーネがいたという事実を覚えていないようだった。



*****



 ウンディーネによる水の加護――。

 具体的に、何がどうなったという自覚など何一つない。

 相変わらずこの身体は非力だし。

 男だった時のようにがに股で歩こうとすると身体にしびれが走るので、クリスと似たような内股になってしまう。

 これ、マジカルスキンの影響だよな。

 やっぱりあれが女性化の原因なんじゃないのか。

 じいさんには感謝してるが、今一つ信じきれないというか。


 このままではだめだ。口調を矯正され、仕草も女性的な動きを強制され。

 一日も早く以前の強さ――いや、それ以上の強さを身につけて旅に出なければ。こんな軟弱な生活を続けていたら、魔王討伐の意志まで溶け崩れてしまいかねない。

 だって、ウンディーネも言っていたではないか。俺が勇者の卵だと。

 そうだ。忘れるものか、目標を。


「焦ることはあるまい。魔王は逃げんよ」

「うわぉっ!?」

「それより、今のお主が旅に出ても、いいところ冒険者崩れのゴロつきか奴隷商人の餌食じゃろうて」


 腕組みをしながら偉そうに語るのはノラームだ。


「ノックくらいしてから部屋に入りやがれ。ここはたしかにあんたの家だが、女の部屋でもあるんだぞ」

「ほほう。女の自覚が出てきたか」

「う……るせえ。中身はともかく、容れ物は女だってことだ」

「次から気を付けよう。ここはもう、お主の家でもあるのじゃからな」

「それはレオノーラが言ったことであって、この家の当主はじいさんなんだろ?」

「とっくに家督は娘に譲ってある」

「へえ……。ん? じゃ、ご主人――クリスの親父さんは……って、これ聞いていいのかな」


 少し目を伏せると、ノラームは俺の目を真っ直ぐに見据えた。

 その改まった雰囲気にこちらも居住まいを正すと、じいさんの顔は――にへらっと笑み崩れた。


「かんわええのう。器量良しの孫が二人に。わしゃ、幸せもんだわい」

「…………」


 ひりひりする拳に息を吹き掛けていると、ノラームは額をさすりながら頭を下げてきた。あまり痛そうにしていないのが憎たらしい。

 というか俺、本格的に非力になってるな。くそ、落ち込むぜ。


「すまんすまん。今さら深刻な雰囲気を作っても仕方ないからのう。アラン――息子はな、旅に出ておるわけではない」


 次の一言で、俺は固まってしまった。


「魔王軍の一部隊と相討ちでな。他界してしまったのじゃ」


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