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沈黙の女神  作者: もり
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 よく晴れた日の昼下がり、サイクス侯爵家の紋章の入った馬車が王城の正面広場に到着した。

 出迎えの人達の前で、緊張した面持ちでサイクス侯爵家の侍従が踏み台を下ろす。

 そして、恭しく馬車の扉を開けた瞬間、車内から矢の如く赤い影が飛び出した。


「レイチェル!」


 歓喜に満ちた声を上げた赤い影は勢いよくレイチェルに突進した。

 素早くフェリクスがレイチェルを支えたが、もしフェリクスが間に合わなくても後ろに控えていたクライブが支えただろう。

 婚約者を出迎えるのに、なぜクライブはわざわざレイチェルの真後ろに立つのだろうかと思い、遠慮しているのなら前に出るようにと言おうとしていたフェリクスは納得した。

 こうなることを予測していたのだ。

 その赤い影――クライブの婚約者であるマリベルはレイチェルに抱きついたまま離れようとしない。


「レイチェル! すごく会いたかった! すごくすごく会いたかったの! 手紙も全然くれないし、お兄様も忙しいのか詳しく教えてくれないし、クライブまで全然手紙をくれないし、すごくすごく心配してたの! でも元気そうで良かった! 幸せそうで良かった!」


 あまりの出来事に、出迎えの者達は呆気に取られていた。

 といっても、それはモンテルオの者達だけで、元ブライトンの騎士達は動じていない。

 サイクス侯爵令嬢の熱烈な愛情表現は見慣れている。

 だが、モンテルオの者達が驚いているのは、その行動だけではなかった。

 目を見張るほどに美しいレイチェルと、女性の心をあっという間に虜にしてしまうほどの甘い顔立ちのサイクス候から過剰な期待をしていたらしい。

 緩やかに波打つ燃えるような赤い髪に、空色の瞳、そして少々ぽっちゃりしたマリベルの容姿は予想外だった。

 はっきり言って、凡庸だ。

 もちろん、フェリクスと数名の者達はブライトン王宮の舞踏会で目にしていたので、驚きはその行動に限定されている。

 レイチェルはといえば、涙を流しながらしがみつくマリベルの背中をなだめるように叩いていた。


「マリベル、いい加減になさい。あなたは今、大変な無礼を働いているのですよ。それに、王妃陛下の体のことも考えなさい」


 厳しい声音でマリベルを叱りつけたのは、次に馬車からゆっくり降りて来た貴婦人。

 皆はその美しい姿にほうっと息を洩らした。

 淡い金色の髪を結いあげた立ち姿はレイチェルにどことなく似ているが、柔らかな雰囲気は親しみを感じさせる。

 サイクス侯爵夫人――正確に言うと、サイクス侯爵未亡人は、きまりが悪そうにようやくレイチェルを解放したマリベルの隣に立ち、膝を折って頭を下げた。


「国王陛下、王妃陛下、御自らお出迎え頂き、誠にありがとうございます。ですが、娘のあまりの無礼には、非常に恐縮しております。申し訳ありませんでした」

「申し訳ありませんでした」


 侯爵夫人の慇懃な挨拶に続いて、マリベルも慌てて謝罪した。

 親しい二人の頭を下げる姿にうろたえるレイチェルの代わりに、フェリクスが笑い混じりに応える。


「いや、どうか顔を上げて下さい。王妃はお二人の到着をずっと心待ちにしていたのです。ですから、堅苦しいことはなしにしましょう」


 温かな笑みを浮かべたフェリクスを見て、マリベルの頬が今まで以上に赤く染まる。

 マリベルの気持ちもよくわかるわと思うレイチェルの背後で、クライブが何度か咳払いをした。

 クライブはマリベルに対していつも人前ではよそよそしいが、こういう無自覚なところがおもしろい。


「ありがとうございます、陛下。では、さっそくお言葉に甘えさせて頂いて……」


 途端に茶目っけたっぷりの笑みを浮かべた夫人は、レイチェルをぎゅっと抱きしめた。

 懐かしい香りに包まれて、レイチェルは込み上げてくる涙を必死に抑えて抱き返す。


「レイチェル、よく頑張ったわね。それに幸せそうで安心したわ。でも、もちろんお説教はさせてもらうわよ。色々とあなたの無茶は聞きましたからね」


 侯爵夫人は昔から優しいが厳しい。

 あっという間に涙も引っ込み、レイチェルはあからさまにしゅんとした。

 思わず笑いだしそうになったフェリクスは、急ぎ表情を取り繕う。

 が、隣ではリュシアンが遠慮なく噴き出した。

 フェリクスは弟の足をこっそり蹴飛ばしてから簡単な紹介を始め、ロバートの案内で一行は城内へと足を向けた。



   * * *



「うわぁ。やっぱり王妃様のお部屋は素敵ねえ」


 案内された客間での荷解きなどは侍女達に任せ、さっそくレイチェルの部屋にやって来たマリベルが感嘆の声を上げた。

 レイチェルは微笑みながらソファを勧め、自分も座る。

 そこへ侯爵夫人が現れ、マリベルを睨みつけた。


「マリベル、あなたはいい加減に落ち着きなさい。今のままでは、とても花嫁として送り出せないわ。ねえ、ドナ?」


 ベティに代わってお茶を淹れていたドナは、同意を求める侯爵夫人に向けて嬉しそうに微笑んだ。


「私は大歓迎ですよ。うちの愚息にマリベル様が嫁いで下さるなんて、未だに信じられないほどですもの。本当に、エリオット様もよくお許し下さいましたよ」


 朗らかに応えるドナに、侯爵夫人はやれやれとため息を吐く。


「もう、みんなが甘やかすから、マリベルはちっとも成長しなくて。子育てって難しいものね」


 ぶつぶつ言いながら夫人はレイチェルの向かいに座る。

 レイチェルはそんなやり取りをにこにこしながら見ていた。

 まるで昔に戻ったようだ。

 ずっと、こんな時間が続くのだと信じて疑わなかった頃。

 ほんの数か月前までは、まさか自分が結婚して、こうして子供を授かるとは思ってもいなかった。こんなに幸せになれるとも。

 だから、父王に対して思うところは色々あっても、やはりフェリクスとの縁談を結んでくれたことには感謝していた。

 先日、レイチェルの懐妊の知らせを聞いて、よくやったと書かれた手紙が届いた時に、その旨を伝える返書は送った。

 しかし、この先は父王に逆らうことになっても、フェリクスとお腹の子は絶対に守る覚悟でいる。

 その思いからか、レイチェルが無意識にお腹を撫でていると、マリベルが隣に席を移した。


「ねえ、さわってもいい?」

『もちろん』


 ドレスの上からではあまりわからないが、かすかにふくらんできたお腹に、マリベルが恐る恐る手を触れた。

 それから、あっと小さく声を上げる。


「すごい! 本当にふくらんでる! もう赤ちゃんは動く?」

『まだ、よくわからないわ。でももう少ししたら、感じられるようになるって』


 ゆっくり手ぶりで応えると、マリベルは感心したように改めてお腹を見下ろした。

 侯爵夫人は二人を見守るように穏やかな笑みを浮かべてお茶を飲んでいる。


「お腹に赤ちゃんがいるって、どんな感じなの? 楽しい? 痛くはないの?」

『痛くはないわよ。すごく、不思議な感じで……すごく、幸せなの』


 満面の笑みを浮かべたレイチェルを見て、マリベルも嬉しそうに微笑んだ。

 しかし、すぐに表情を変え、ちらりと夫人の方へと視線をやり、またレイチェルへと戻す。

 それは何かを――悪戯を考えている時のマリベルの表情だった。

 夫人はドナと会話を始め、二人から意識がそれている。


「それで……その、レイチェルは陛下とベッドでどんなことをしているの?」


 お茶を飲んでいなくて幸いだった。

 今のは間違いなく噴き出した自信がある。

 声を潜めたマリベルの質問に、レイチェルは真っ赤になりながらも何度か深呼吸をして、どうにか手ぶりで答えようとした。


『それは……叔母様に聞いた方が……』

「だめよ。お母様は答えてくれないの。侍女達の噂話をこっそり聞いても、何となくしかわからないし。婚礼の夜に失敗しないように、ちゃんと知っておきたいの」

『……きっと、婚礼の前には……教えてもらえるわよ。私もそうだったし……何となくだけど』

「ええー。そりゃ、レイチェルは何でも器用にできるからいいけど、私は不器用だもの。前もって練習しておいた方がいいんじゃないかしら? クライブをがっかりさせたくないの」

『いえ……あれは、そういうのじゃなくて……その……』


 誰か助けてとばかりに、レイチェルは視線をさまよわせた。

 だが、実際には助けを求められるわけもない。

 そこに、ベティが前室から戻り、フェリクスの訪れを告げた。


「せっかくの水入らずの時間を邪魔して申し訳ない」


 言いながら、居間へと入って来たフェリクスは、真っ赤な顔のレイチェルに気付いて眉を寄せた。


「レイチェル、顔が赤いが熱でもあるのではないか?」


 心配に顔を曇らせて、フェリクスがレイチェルの額に手を触れる。

 すると、レイチェルの顔はますます赤くなり、慌てて一歩後退した。


『だい、大丈夫、です!』


 唇の動きで伝えているのか、手ぶりで伝えたのか、自分でもわからないくらい狼狽している。

 先ほどまでの会話のせいでフェリクスを直視できない。

 そんなレイチェルを、マリベルはじっと見ていた。

 いっそのこと寝室に駆けこんで隠れてしまいたいぐらいに恥ずかしい。

 そこを救ってくれたのは、侯爵夫人だった。


「まあ、レイチェルは本当に幸せね。そのように陛下に心配して頂けるなんて。では、私共はこれで退室させて頂きますわ」


 その言葉に、フェリクスは夫人へと注意を向け、レイチェルはほっとした。


「いえ、どうかこのままで。クライブの手が空くまで、もう少しだけお時間を頂くと伝えに来たのです。そして、逆に私は少しだけ時間ができたので、図々しくも一緒にお茶でも頂けたらと。この後は私も当分忙しくなりますので、次にいつゆっくりお会いできるのかわからないのです」

「そのようにお忙しいのに、お時間を頂けるなんて光栄ですわ。ねえ、マリベル?」

「はい!」


 夫人が応えると、マリベルも人懐っこい笑みを浮かべて頷いた。

 それから皆が腰を下ろし、落ち着いたところでフェリクスが口を開く。


「ところで、サイクス候はいつ頃こちらにいらっしゃるのですか?」

「それが……」

「まだ決まっていないんです。お兄様はこの機会に領地を見て回ると、ブライトン国内をあちこち移動されてて、鳥達にも――あっ」


 フェリクスの問いかけに、夫人は曖昧に返そうとしたのだが、マリベルがしっかりと答えた。

 だが、秘密を洩らしてしまったかと焦って言葉を詰まらせる。

 フェリクスはすぐに察して、安心させるように微笑んだ。


「動物達のことは、レイチェルから聞いています。お二人も、意思の疎通ができるのですか?」

「いいえ。私共は、手紙を届けてほしいなどと、一方的に頼み事をするくらいです。いつも動物達に甘えてばかりで……。本当に有り難く思っていますの」


 今度は夫人が苦笑しながら答えた。

 マリベルはもう何も言わない方がいいと判断したらしく、きゅっと口を閉じている。

 レイチェルはフェリクスの隣に座って、にこにこしていた。

 マリベルも夫人も、まったく変わっていなくてすごく嬉しい。

 と、急にマリベルの顔が輝いた。


「クライブ!」


 クライブの登場にマリベルは腰を浮かし、そこで礼儀を思い出して留まり、座り直した。

 その様子に、フェリクスは笑いを洩らして立ち上がる。


「それでは、私はそろそろ失礼します」


 簡単な挨拶をしてフェリクスはレイチェルへと微笑みかけ、クライブと入れ違いに出て行く。

 その後ろ姿を見送るや否や、マリベルは勢いよくクライブに突進した。

 やはり対面の場ではさすがに遠慮していたらしい。

 久しぶりに再会した恋人達を残して、レイチェルは叔母とドナを誘って中庭へと散歩に出かけた。


   * * *



 その夜、フェリクスはリュシアンと、近隣諸国の今後の見通しについて話し合っていた。

 そこで聞いたフェリクスの考えに、リュシアンが驚く。


「――まさか、兄上は本当に……?」

「ああ。ようやくお前も落ち着いたばかりで申し訳ないが、頼まれてくれるか?」

「それはもちろんです」


 力強く答えたリュシアンに、フェリクスも感謝して頷いた。


「では、準備が整い次第、軍を率いて北上してくれ。目指すはブライトンとの北の国境――サイクス候の領地とを隔てる川を臨む北の森だ。決して気取られぬよう、慎重に進めてくれ」

「承知いたしました」


 フェリクスの命令を受け、リュシアンはかしこまって頭を下げた。

 ロバートは黙ったまま、そんな二人のやり取りを不安げに見ていた。




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