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「仲睦まじいのは結構でございますが、政務が滞るようでは困ります」
執務室に戻ったフェリクスに、アンセルムが苦い顔で忠言した。
しかし、フェリクスは片眉を上げただけで、何も返さず席に着く。
代わりに、いつものようにソファに寝転がったリュシアンが笑いながら応える。
「そんなにカリカリするなよ。家庭円満は国家円満の基。王妃様にはたくさん御子をお産みになって頂かなければ。兄上、頑張って下さいね」
「馬鹿を言うな」
届いたばかりの書簡を読みながらフェリクスが叱責すると、そこに便乗したロバートが口を挟む。
「殿下も早くご結婚なさって下さい。私の母など、お次は殿下のはずだと待ち望んでいますよ」
「それこそ馬鹿を言うなよ。世に麗しき女性は多い。それなのに一人に決めるなど、私にはとてもできそうにないよ」
わざとらしく嘆くリュシアンの言葉を聞いて、アンセルムが唇を歪める。
「別に、お一人にお決めになる必要はないと思いますがね。後継者のことを考えてもやはり御子は多い方が良いのですから。お妃様がお一人では効率が悪すぎます」
「おいおい、アンセルム。効率の問題じゃないだろう」
心ないアンセルムの言葉をリュシアンがたしなめた。
その口調は軽いが、青色の瞳は鋭い。
だが、アンセルムは引く様子もなく続ける。
「もちろん、有力貴族や王族と縁故によって関係を強化する利点もございます。今回の縁談が良い例ではないでしょうか。アリシアが嫁ぐことによって我々は過去の遺恨を捨て、より良い未来へと歩み始めるのですから。もしアリシアが無事にサクリネ国王の子――男児を産めば、その関係は更に密なるものとなるでしょう。それもこれも、サクリネ国王がお妃様をお一人に限られないからではないですか」
窓の外では鳥達が陽気に歌っているというのに、部屋には凍りそうなほどの冷え冷えとした空気が漂っている。
はらはらしながら一連のやり取りを聞いていたロバートは、いきなり体を起こしたリュシアンにびくりとして腰を浮かした。
そのままソファから立ち上がったリュシアンは、まるでアンセルムから離れるように窓際まで歩む。
「それで、泥沼の後継者争いに発展するわけだ。いや、それより先に、王の寵愛を得ようとする、美しさを装った女性達の醜い争いかな?」
風に揺れる艶やかな花を眺めながら、リュシアンが呟く。
その声はくぐもっていて聞き取りにくかったが、アンセルムは生真面目に答えた。
「それは王の裁量次第ではないでしょうか? 実際、陛下や殿下のお母君はとても親しくしておられましたし、陛下がご即位なさる時にも混乱はなかったのですから」
「……アンセルム。お前は優秀な政務官だが、思い込みが激しすぎるのは大きな欠点だ。それでは目の前で何が起こっていても気付けない。もっと視野を広げろよ」
深いため息を吐いてリュシアンは振り向き、窓に背を預けた。
その表情は逆光になっていて見えない。
もうこれ以上耐えられなくなったのか、ロバートが上ずった声を上げた。
「あの!……アンセルムさんは、アリシアさんが心配にならないのですか?」
「なぜ心配が必要なのです? アリシアは確かに我が儘なところもありますが、自分の使命はちゃんと理解しております。それに、サクリネの王妃様お二人はとても仲がよろしいそうですから、きっとアリシアとも上手く付き合って下さるでしょう」
「……二人は仲良し、三人は敵同士ってね」
リュシアンがぼそりと呟いたところに、フェリクスが書簡を置いて顔を上げた。
そして、重々しく告げる。
「アンセルム。お前は、この度のアリシアの輿入れに同行し、婚礼の後もサクリネに留まって両国の更なる関係改善のために尽力してくれ」
フェリクスの命令を聞いて、アンセルムの顔から血の気が引いた。
その場に一瞬の沈黙が落ちる。
しかし、フェリクスはアンセルムを真っ直ぐに見据えたまま続けた。
「幸い、先の戦では我が国は勝利を得たが、サクリネの国力を考えれば次はわからないだろう。だからこそ、お前の言う関係強化は必要だ。シャルロももうしばらくサクリネに留まることになった。ゆえに二人で力を合わせ、無事にアリシアがサクリネ王宮に馴染み、居場所を得られるように努めてくれ。私は、お前が見聞を広め、再びこの城へ戻り、今以上にモンテルオ王国の発展に貢献してくれることを願っている」
力強いフェリクスの言葉は、確かな未来を感じさせた。
アンセルムは静かに立ち上がると、深く頭を下げる。
「……かしこまりました」
応えた声はかすかに震えていたように聞こえたが、顔を上げた表情には色が戻っている。
アンセルムが席に着くのを待って、リュシアンがフェリクスに声をかけた。
「さて。では兄上、そろそろ軍部との会議が始まります。参りましょう」
「ああ」
明るいリュシアンの声はその場の雰囲気を変える。
応えて、フェリクスは立ち上がった。
それから先ほどの書簡をロバートに預け、出口へと向かう。
リュシアンはちらりと書簡に目をやって後に続き、ロバートとアンセルムは頭を下げて二人を見送った。
「――サクリネとの戦で、どれほどの兵が命を失ったか……。それを婚姻一つで遺恨を捨てられるなど、馬鹿げています」
「そうだな。だが、アンセルムの言うように、我々はより良い未来に向けて歩まなければならないのも確かだ」
足早に回廊を進みながら悔しげに吐き出したリュシアンに、フェリクスが穏やかな声で応えた。
まるで慰めるような口調に、リュシアンが苦笑する。
「やはり私はまだまだ未熟です。だからこそ、兄上も交渉はシャルロに任せたのでしょう?」
「いや、お前は十分に立派な人間だよ。本当に、お前が弟で私は嬉しい」
感謝の気持ちを込めて背中を叩くフェリクスを、リュシアンは訝しげに見た。
「いやに優しいですね。何か良いことでもあったのですか? 王妃様からまた何か贈られたとか? あの鷹の刺繍は見事でしたよね。いいな、私もお願いしようかな。あ、それとも新たなご下命でもあるのですか? シャルロからの返答には何が書いてあったのです? そもそもアンセルムのサクリネ行きは、兄上とシャルロ、どちらの提案なのですか?」
次々と質問を繰り出すリュシアンに、フェリクスは呆れと諦めのため息を吐いた。
弟の性格は幼い頃から変わらない。
すぐに冗談で誤魔化そうとするのだ。
「……私だ。アンセルムは幼い頃から私の母に気に入られ、可愛がられていたせいか、女性に対しての考え方が偏っている。そのことに気付いてはいたが、放置していたのが悪かった。シャルロは私達が独占していたしな」
「そうですね。最近は特に酷くなっているような気がしますが……。それで、シャルロは具体的に何と書いていたのですか?」
リュシアンの問いかける声が楽しげに弾んでいるのは見せかけではない。
本当に返書の内容を聞きたくて仕方ないのだ。
かすかに眉を寄せたフェリクスは低い声で答えた。
「簡単に言えば……〝子育ての難しさを痛感しております。ですが、この苦い思いを陛下もすぐに味わうでしょう。おめでとうございます″といったところだ」
リュシアンは勢いよく吹き出し、そのまま声を出して笑い始めた。
その明るい声に、周囲が何事かと注目する。
結局、フェリクスは弟を無視することにして回廊を進んだ。
* * *
『――好きです』
レイチェルの早い手の動きを、じっと見ていたフェリクスの顔がかすかに赤らむ。
それからわずかに目を逸らし、すぐに思いきってレイチェルを見つめ、口を開いた。
「好きです」
今度はレイチェルの顔が真っ赤に染まった。
ちょっとした悪戯心から、素早く手を動かして伝えた言葉。
まさかフェリクスが読み取って答えるとは思わなかった。
レイチェルが手ぶりで伝える言葉を、フェリクスが教えてほしいと言って始まった眠る前のこの時間はもう幾晩も続いている。
レイチェルは飲み込みの早いフェリクスに驚くばかりだった。
「必死なんだ。もう誤解してしまうことのないよう、ちゃんと気持ちを知りたいから」
そう言って微笑むフェリクスに、レイチェルもどうにか微笑み返した。
いつも努力するのはフェリクスだ。
レイチェルも何かできないかと考え、まずは城の人達との交流から始めてみようと決意したのはアクロスでのことだった。
それがもう、城に戻って三日になる。
出迎えの人達を前にした時にはできると思ったのに、いざとなるとやはり怖かった。
声を持たない不足の王妃だと、皆から拒まれてしまったら。フェリクスに恥をかかせてしまったらとつい考えて、足がすくんでしまうのだ。
いつの間にか物思い耽り、緊張して力の入ったレイチェルの手に、フェリクスが優しく触れた。
「私は、この手から紡ぎだされる言葉をとても美しいと思う」
囁いたフェリクスは、レイチェルの両手をそっと持ち上げて口づけた。
そして、小さく息をのんだ唇にキスをする。
「この唇も好きだ。私が読み取りやすいように、はっきり、ゆっくりと動いているのを見ると、ついキスをしたくなってしまう」
目を丸くしたレイチェルを見て、フェリクスがくすりと笑う。
その青灰色の瞳はとても温かい。
「私は、あなたが声を失くしたことを惜しいと思う。一度でいいから、あなたの声を聞いてみたかった。だが、それだけだ。あなたは何一つ負い目に感じる必要はない。とても美しい言葉を持っているのだから」
思いやりに溢れた真摯な言葉に、レイチェルの空色の瞳から涙がこぼれた。
最近は嬉しくて泣いてばかりだ。
レイチェルは感謝の気持ちを込めて、フェリクスに口づけた。
すると、今度はフェリクスが目を丸くする。
だがすぐにキスを返して、レイチェルを抱き上げた。
柔らかなベッドに場所を移した二人の時間は甘く心地よく、レイチェルは幸せに包まれて眠りに落ちた。




