5話
夜更け、離れはしんと静まり返っていた。
暖炉の火の音だけが部屋を満たしている。
膝の上では、ニールが丸くなって眠っていた。
柔らかい毛並みを撫でながら、わたくしは昼間に見た帳簿のことを考えていた。
マーガレットさんが書いた、あの離れの実験に関する記録の片隅に、気になる名前があった。
《A・ポーレット死亡?》と
旦那様の家の名と同じ、けれど、誰のことかは記されていなかった。
「ポーレット、まさか、旦那様の弟君?」
ふと呟くと、ニールがゆっくりと顔を上げた。
その灰色の瞳が、どこか哀しげに揺れている。
「あなた、もしかして知っているの?」
問いかけても、もちろん答えはない。
けれどその眼差しに、妙な確信めいたものを感じてしまう。
最近、香水が保管されている屋敷の倉庫で毎日、在庫の山を片付けていたメイドが、原因不明のめまいや咳を訴えて倒れた。
その症状はどうも、香料による中毒のように思えた。
医師は(香気成分の刺激)と片づけたけれど、わたくしは納得がいかなかった。
何故か、昔の乳母家族の死亡の件が重なる。
マーガレットさんの香水には、当時、彼女が開発した保存剤が、かなり希釈されて今も使われているということをトーマスさんから聞いた。
その話を聞いた時から、どうにも胸騒ぎがしていたのだ。いくら希釈したとしても所詮は毒、そんなものを未だに使っていること自体が信じられなかった。
だからわたくしは、この数日、夜ごと調合を重ねていた。
そして、希釈する前の原液と同じものを再現し、その毒性を分析しようと考えた。
けれど、万一の事態に備えて、解毒剤も用意しておかなければと思い、あらゆる本を読み漁った。
そうしてようやく、香に潜む毒を分解し、呼吸を楽にする解毒香が完成しつつあったのだ。
ちょうど今も、その試作の香炉を火にかけていたところだった。
「これで本当に、毒の香りを鎮められればいいのだけれど……」
あの実験で行方不明になったという、旦那様の弟。
もしかして……。
そんな馬鹿げた考えを打ち消そうとした瞬間、わたくしの手元の香炉がかすかに爆ぜた。
新しく調合した解毒香を試していたのだが、
そこから立ち上った銀色の煙が、まるで意思を持つように黒猫を包み込む。
「ニール!?」
光が弾け、空気が震えた。
毛並みが霧のように溶け、白い腕が現れる。
目の前で、猫が、人へと姿を変えていく。
わたくしは息を呑んだ。
やがて光が消え、そこに倒れていたのは若い青年だった。
淡い金髪、長いまつ毛、そして見覚えのある瞳の色。
「あなたは、いったい……」
彼はしばらく呼吸を整え、掠れた声で答えた。
「アラン・ポーレット。八年前、兄の恋人のマーガレットさんの実験を間近で見ていた者です」
「ポーレット? 兄の?」
思わず息が止まる。
アラン、その名は、帳簿にあったA・ポーレットと同じ。
そして兄とはつまり、旦那様。
「まさか、あなたが旦那様の、弟君?」
彼は静かにうなずいた。
「はい。実験の事故で、姿を変えられてしまいました。あの香水の保存剤はマーガレットさんが作らせたものです。
その原液を直接浴びてしまい僕はこの様な姿にされました。兄には知られぬまま、猫の姿に」
彼の声は淡々としていたが、その瞳の奥に長い年月の孤独が滲んでいた。
わたくしはゆっくりと立ち上がり、震える手で香炉を見つめた。
「では、わたくしの作った解毒香が、あなたを人間に戻したというのね」
彼は小さく微笑んだ。
「どうやらそうらしい。君のその香りには、覚醒作用があるようだ」
わたくしは驚きながらも、微かに笑った。
「ニールという名で呼んでいたこと、お許しください。あなたがまさか旦那様の弟君だなんて、夢にも思いませんでしたの」
「いいえ、とてもいい名前です。あの姿の時もニールという名前、気に入っていました」
そう言って、彼は穏やかに微笑んだ。
わたくしの胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
「アラン様。とりあえずこの毛布に包まってください。すぐに本宅に行って旦那様の着るものを持って参ります」
その後わたくしは本宅に行き、暖かい飲み物と食べ物、そして旦那様の着るものを持って離れへと戻った。
アラン様は、旦那様の白いシャツに袖を通しながら、静かに飲み物を口にしている。
ーーーー
それでは、これからあなたの記憶と、この屋敷の過去、すべてを、いま一度確かめましょう。真実を知ることこそ、解決への第一歩ですわ」
彼はゆっくりとうなずいた。
雨は止み、月が離れの屋根を淡く照らしていた。
「それにしても、本当に不思議ですわ。わたくしの調合した解毒香に、そんな効果があったなんて」
わたくしがおかわりの飲み物を注ぎながら呟くと、アラン様は微笑んだ。
「貴女の香の中に、あの保存剤の成分を打ち消す覚醒物質があったのです」
「つまり、わたくしが、毒の反対を作り出したということですのね」
「ええ。八年前、僕を閉じ込めた香の呪い」
その言葉に、わたくしは思わず息を止めた。
「呪い?」
アラン様は、淡い瞳を遠くへ向けるように細めた。
「当時、マーガレットさんは保存剤の実験を成功させるため、ありとあらゆる香料を混ぜていた。
乳母夫妻が止めようとした時には、すでに遅かったのです。完成した液体は、確かに香水を長持ちさせましたが、吸い込んだ生物の形を歪めるほど、強い揮発性毒を持っていた」
「そんな、人が猫になるなんて」
「普通ではあり得ません。けれど、魔術的な触媒が混ざっていたのです。彼女は偶然それを手に入れた。希少な影香草という植物、闇商人の間で、魂を縛る香と呼ばれていました」
わたくしは、思わず手を胸に当てた。
『どちらにせよわたくしには同じ毒は作れなかったのね』
マーガレットさんの香水店、その裏でそんなものが使われていたなんて。
「では、乳母家族の死もトーマスさんの言う通り……」
「恐らく吸入による中毒死です。彼らは長きに渡り、実験と称してその毒を吸入し続けました。私はたまたまその実験の最中に出会し、誤ってこぼれた原液を浴びてしまい、そして猫の姿に……それを見ていた乳母夫婦はマーガレットさんに、僕が保存剤のせいで猫の姿になったと訴えましたが、彼女はまるで信じなかった」
淡々と語るその声には、怒りよりも静かな悲しみがあった。
わたくしはしばらく黙り込んだ後、静かに飲み物を置いた。
「アラン様。あの女、マーガレットが、すべてを流行病で片づけたのですね」
「そうです。兄は若く、恋に溺れていました。彼女の言葉を疑わず、僕は行方不明のままにされた。そして彼女は乳母家族が保存剤によって次々と死んでいくのを側で見ていた。医者を呼んだのは三人が息絶えたのを確認してからです。完全な確信犯です。勿論、医者もグルでしょう。僕はそれを猫の姿で見ていた」
「猫の兄弟たちが消えた後、黒い猫だけが戻って来たと聞きました。それがアラン様なのですね」
「そうです。いや、正確には違います。動物は命の危険に敏感です。だから猫たちは離れを去った。その後、離れにいた僕を周囲はその時の猫が一匹だけ戻って来たと勘違いしたのです」
わたくしは顔を歪め悲しみに耐えた。しかしアラン様は
「ここからは、皆の無念を晴らす復讐劇の始まりです!」
彼はそう言って自分自身を鼓舞した。
わたくしも気を取り直して
「だったらその手の込んだ偽装に復讐いたしましょう」
わたくしは彼を見据えた。
「それで、これからどうなさるおつもり?」
「彼女がまだその保存剤を使っているなら、同じ成分が香水から検出されるはず。僕はそれを証拠として突きつけます」
「それならアラン様、本宅の倉庫にその当時に使われていた保存剤を希釈して混ぜた香水の在庫が沢山あります。その在庫の整理をしていたメイドが倒れたのです」
アラン様が穏やかに頷いた。
「兄には、僕のことはまだ言わないでください。今の彼に真実を話しても、マーガレットさんの言葉を信じるでしょうから」
「ええ、承知しておりますわ。彼の目を覚まさせる香りも、ちゃんと調合して差し上げます」
そう言うと、アラン様はふっと微笑んだ。
その表情は、あの黒猫ニールの面影を宿しているようで、わたくしは思わず心の中で苦笑した。
まったく。猫の姿をしていた頃より、今の方が少しだけ扱いにくいではありませんの。
そう思いながらわたくしは
「あ、そうだわ、早く本宅に行き、倒れたメイドにこの解毒香を。アラン様、ここで暫くお待ち下さい」
そう言い残し、わたくしは本宅へと急いだ。
外に出ると、春の風が新しい季節の香りを運んでいた。




