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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode10 霧にうつろうもの
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-6- 海へ

 怪物と太った女の追跡は続いていた。そしてどうやら霧の中をうろついているのは、先程遭遇したペアだけでないようだった。二つ以上の黒い影が幾度となく空をよぎり、ときにはなにかを連絡しあうように、あの鼓膜に共鳴する不快な声を響かせていた。


 私たちは移動に細心の注意を払い、身を隠しつつさらに海へと近づいた。一度は開いている店に入って追跡者の目を欺こうとしたが、待ち伏せに会い、身動きが取れなくなる確率を上げるだけだと気づいた。


 薄暗く、緊迫した道のり。私たちが再び大きな危険に見舞われたのは、広い交差点を渡ろうとしていたときだった。


 普段はひっきりなしに車が行き交う幹線道路。しかし今は霧のせいでスクーター一つ通っていない。私たちは念のため青信号を待ってから、小走りで車線を横断しようとした。


 渡り切る直前に無音の気配を感じることができたのは、神経を最大限尖らせていたおかげだろう。私がヴェラを手で制した直後、眼前五十センチの位置で、巨大な鉤爪がガチンと閉じられた。反応が遅れていたら、今頃頭を掴まれ、目を抉られていたかもしれない。


 おそらく背後からは太った女が追ってきているだろう。しかし私は怪物から目が離せなかった。爬虫類に似た硬質な口からは、鼓膜と共鳴する不快な威嚇音が響き、腐臭を孕んだぞっとするような息が吐きかけられた。


 私はほとんど無意識的に、持っていたルルイエ異本を開いた。咄嗟のことにも関わらず、指先は淀みなく必要な動作を済ませ、ふやけたページが怪物に向けられた。海の気配と、陰鬱に響く祈りの声が、本の文字を通じて解き放たれる。


 果たして効果は覿面てきめんだった。怪物は黒い羽を広げて舞い上がり、私たちの前から姿を消した。


 しかしその代償は決して小さくなかった。私は本の力に誘引され、その奥にあるものをこの場に顕現させ、それに額づきたいという欲求に襲われた。ヴェラに声をかけられなければ、どうなっていたか分からない。


「ユウコ、アイツが、女が……」


 辛うじて正気を取り戻した私は、意志の力を総動員してルルイエ異本を閉じたが、四肢の力はすっかり萎えてしまっていた。


 偶然パトカーのサイレンが近づいてこなければ、太った女に捕捉されていただろう。どこかで事故があったのかもしれない。当人たちにとっては不幸だが、今はそれに救われた。


 追手が警察官の存在に気を取られている間、私たちはなんとかその場を離れ、霧に紛れて再び河口を、海を目指した。


       *


 自分たちがなにをやっているのかという認識も曖昧なまま、私たちは横浜で最も高いビル、ランドマークタワーの近くまでやってきていた。このあたりはもうほとんど河口と言ってよく、晴れた日には海を背にしたみなとみらいの景色と、レジャーを楽しむ大勢の人々を望むことができる。


 しかし今、霧に包まれた観光地は静まり返り、周囲の高いビル群も、死霊と悪意が跋扈する廃城のように見えた。


 私とヴェラが細身の人影を目にしたのは、二人で陸橋の陰に佇みながら、建物内のショッピングモールを通り抜けるのが得策かどうか、囁き声で話していたときだった。


 道の先からゆっくりと、肩を落とし、時折身震いしながら歩いてくるその人物は、黒い怪物でも、太った女でもなかった。私は万が一に備えて身構えつつ、霧で途方に暮れている観光客かなにかだろうか、と影の正体を推測した。


 人影は伏し目がちに通り過ぎようとして、私たちの気配を感じたのか足を止めた。辺りを見回してから、そのまま歩き去ろうとする。


 視界が悪いため確信は持てず、今の状況でみだりに他者と接触することは危険ですらあったが、私はある種の期待を込めてその人物に声をかけた。


「古戸さん?」


 ぼさぼさ頭の男性は目を細めてこちらを見た、普段の眼鏡はないが、その服装と人相は間違えようがない。


「楠田さんじゃないか。ちょうどよかった、交通費を貸してくれ」


「…………」


 脱力感。もっとなにかこう、あるだろう。気の利いた再会の文句が。


 私とヴェラがどんな気持ちでここまで来たと思っているのか。憤りと安堵と、なぜ彼が交通費を欲しがっているのかという混乱で、私はしばし言葉に詰まった。


「フルドさん!」


 ヴェラも驚きの声を発してから、周囲を警戒してトーンを下げた。


「ここでなにをしてるんですか?」


「話せば少し長くなるんだけどね」


 よく見れば彼は靴を履いておらず、全員濡れネズミで、髪も普段以上にごわついていた。唇は青ざめ、ときおり腕を抱くように震えているのは、恐怖や緊張のためでなく、単純に低体温のためだろう。霧の中に長くいたからといってこうはならない。


「店に取りに行きたいものがあるから、ちょっとつき合ってくれる?」


「……これのことですか。ルルイエ異本」


 私が小脇に抱えていた本を示すと、古戸さんはわざわざ顔を近づけてそれを見た。どうやら眼鏡をなくしたらしい。


「まあ、なんとなくそんな気はしてたよ。色々手間が省けて好都合ではある」


「フルドさん、この邪悪な本はなんなんですか? それに私を襲ってきた――」


 ヴェラが古戸さんに詰め寄ると、彼は今やってきた道を指で示し、歩きながら話そうと提案した。


「身体を動かしてないと凍死しそうだ」


 私は古戸さんの失踪に気づいてから、ルルイエ異本を見つけ、清水さんと話をして、追跡者の影に怯えつつここまでやってきた経緯を話した。幻視のことも、妙な思考への干渉のことも率直に伝えた。途中、自動販売機で温かい缶飲料を買い、古戸さんの両脇に挟んで体温の上昇を図った。


「ルルイエ異本は清水さんが話したように、ポリネシアにかつてあった――多分今でも完全にはなくなっていない――信仰について書かれた本だ。


 その中心となっているのが海底の神殿、あるいは都市に眠る一柱ひとはしらの神。それから神の従者たち。不老の肉体を持ち、魚と同じ鰓で呼吸し、蛙と同じ水かきを持つ。


 本そのものについて言えば、これはある種アンテナのような役割を果たしているようだ。遠く地球の反対側から届く声を受け取るアンテナ。楠田さんも幻覚を見たみたいだし、僕も見た。清水さんも間違いなく見てるはずだ。布教にはもってこいだね」


「黒い怪物や太った女はなんで本を狙ってるんでしょう」


 私は尋ねた。


「僕が予想するに、海神と敵対してるんだろう。強大な魔導書であるルルイエ異本を回収するか破壊するかして、影響力を削ごうと考えている。あるいは逆に利用するつもりなのかも」


「おぞましい話です。どちらが本を手に入れるにせよ。邪教の信徒を増やされるのは……」


 ヴェラが顔をしかめた。もしかすると街中にはすでに教団めいたものが出来上がっていて、互いに勢力を争っているのかもしれない。あまり愉快でない想像に、私は背筋を寒くした。


「本の行先に関しては、僕の方に少し事情があってね」


 古戸さんは脇の缶を落とさないよう腕を組みながら、まずは自らが失踪した経緯を話しはじめた。


 清水さんから私が受け取り、古書堂に持ち込んだ本のことを調べるため、古戸さんはほとんど徹夜で文献を漁り、関係者――清水さんとはそのとき連絡が取れなかった――に問い合わせて、ほぼこれだろう、という題名を突き止めた。


 万が一に備えた隠し場所を選び終わると朝日が昇っていたので、睡眠不足の頭をすっきりさせようと屋外に出た。そのとき、羽のある黒い怪物に強襲されたのだ。コアラ並みの反射神経しか持たない古戸さんは咄嗟に逃げることもできず、そのまま空高く担ぎ上げられてしまった。


「ロック鳥にくっついて飛んだシンドバッドの気持ちを――」


「古戸さんの感想はどうでもいいです」


「で、なんだかそのまま成層圏まで連れてかれそうな雰囲気だったから。なんとか抵抗してたら海の上で落っことされたんだ。


 その時点で陸地から何キロか離れてて、水は冷たいし着衣だし眼鏡もないしで、浮いてるのが精一杯の状態だった。身体に脂肪がついてないというのは、こんなにも悲しいことなのかと」


「で、泳いできた?」


「いいや。僕はカナヅチじゃないけど、トライアスロンの選手でもないからね。浮き輪があっても無理だったんじゃないかな。途方に暮れてたら、足元に近づいてくる影が見えた。サメかイルカかと思ってたけど、違った。潜水艦でもなかった」


 古戸さんは意味深に言葉を濁しながら、手の指を閉じたり開いたりしてみせた。


「……海神の従者」


 私は言った。


「うん。なんで僕が彼らのことを描写できたかっていうと、実際目にしたからだ。中々に驚くべき存在だったよ。人間ぐらいの大きさと形をしてるんだけど、顔面は魚とカエルを足して二で割ったような感じでね。


 家の近くにいきなり人間が落っこちてきて、何事かと思ったんだろう。五、六匹はいたかな。極端に無口な連中だったけど、案外親切でね。


 僕を陸地まで引っ張っていってくれたし、寒い寒いといってたら、よく分からないドリンク剤みたいなものを飲ませてくれたし、軟膏みたいなのも塗ってくれた。今は効果が切れちゃってるけど、おかげで陸地に着くまで低体温症にならなかった」


 なんでそんなわけの分からないものまで口にしてしまうのか。相変わらず理解しがたい。


「それから、別れるときに少し話をした」。


「喋ったんですか、魚人」


「彼らが古代のポリネシア人と交流してたなら、コミュニケーション能力を持っているのは不思議じゃない」


 そういうものだろうか。


「本を持ってきてくれ、と言われたんだ」


「本?」


「もちろんルルイエ異本のことだ。ほかになにがある?」


「ダメです」


 しばらく黙っていたヴェラが立ち止まって抗議した。


「サタンと取引してはいけません」


「まあ、君ならそう言うだろう」


 古戸さんは薄く笑った。


「でもその本を持って、怪しげな勢力の間を綱渡りするのは容易なことじゃない。君の所属する結社とやらにその力があるとしても、今ここにいる僕らは、安全に彼らの勢力圏――米軍基地だかバチカンだか――まで到達できるのかな」


「それでも私は、本を通じて影響を及ぼすような形で人と接触するような存在が、善良なものだとはとても思えません」


 ヴェラも退かなかった。


「もちろん。僕だってあの魚人たちが善良な存在だと信じてるわけじゃない。僕をルルイエ異本の持ち主だと知って送り返したのかもしれないし、偶然親日家だったのかもしれないし、ただの気まぐれかもしれない。


 君が魚人たちをサタンだと認定して敵対するのは自由だ。けど、僕はともかく楠田さんをも危険に晒してまでその信念を貫こうとするなら、本当は君こそが人でなしなんじゃないかと思ってしまうね」


 ヴェラはさらになにか言おうとして、口をつぐんでしまった。こと相手を言い負かすことに関しては、古戸さんに分がある。しかし主張にも理がないではないのだ。少なくとも私の直感は――奇妙な影響力を十分に差し引いたとしても――ルルイエ異本を手放すべきだと叫んでいる。


 そして黒い怪物と魚人たち、どちらかに肩入れしないといけないのならば、当然交渉の余地がある方を選ぶべきだ。


 気づけば古戸さんもヴェラも、意見を求めるようにこちらを見ていた。


「私は……」


 二人の視線に戸惑いつつ、小脇に抱えた本の重さを感じる。


「私は本を海に持っていく方がいいと思う。でもそれは魚人を信用してじゃなくて、あくまでそうする方が私たちにとって安全だと考えるから。敵か味方か、善か悪かみたいな判断を下すのは簡単だけど、それが分からないっていう不安をこらえて、見極める時間も必要なんじゃないかな」


 私ははじめ古戸さんの肩を持ったが、彼に釘をさしておくことも忘れなかった。


「古戸さんは古戸さんで、自分の感覚がぶっ飛んでることを自覚してください。私を含めて、異様なものが現にあるからって認められる人間は多くないですし、そういう反応だって精神を守るためには必要なんですから。その辺のデリカシーを完全に無視されると、私もそのうち愛想を尽かしますよ」


「今までに愛想があったかというと……。いや、冗談冗談」


 私はヴェラの表情を注視した。彼女が信念と現実的な判断の間で、強い葛藤を味わっているのは間違いなかった。


「……分かりました。ユウコの友人として、私は協力することにします。魚人と握手はしませんが」


「よろしい。じゃあ方針がまとまったところで――」


 古戸さんの言葉は、頭上に集まる黒い影に遮られた。私たちは今後の方針に注意を向けるあまり警戒を怠り、一か所に長く留まり過ぎたのだ。肥満した黄衣の騎手たちが何人か地上に降り立ち、私たちを追ってきた。


「走ろうか」


 場所の目星がついているらしい古戸さんを先頭に、私たちは追手に背を向けて逃げ出した。

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