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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode9 にんげんがだいすき
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-終- 愛すべきもの

 それは梶村邸よりも少し古いものの、大体同じような造りをした建物だった。明るい月光によって照らされた紺色の瓦屋根と白いモルタルの壁が、闇の中にくっきりと浮かび上がって見える。どうやらこの場所は、今の状況においてなにか特別な意味を持つようだ。


 低いフェンスを乗り越えて中に入れば、大きなガラス戸に面した小さな庭に、猫たちが大勢たむろしていた。そのうち何匹かはガラス戸に爪を立て、何匹かはなにかを期待するようにこちらを見上げている。


「今、家の中で誰か動いた」


 徹也さんが囁いた。家の中に電気はついていない。リビングらしい部屋の中に目を凝らしてみれば、確かに奥の方で動く人影が見える。


 私たちが庭を横切ると、猫たちは左右に分かれて道を譲った。ガラス戸に近寄って三度ノックをする。それに気づいた人影が、恐る恐るといった様子で窓際へやってくる。


 それは灰色のスウェットを着た、不健康そうな痩せた男性だった。髪は古戸さんに負けず劣らずぼさぼさで、不精髭も伸び放題伸びている。彼は怯えた様子で目をキョロキョロさせており、特に猫たちを恐れているようにも見えた。


 彼はガラス戸を激しく叩きながらなにかを訴えていたが、こちら側にはなにも聞こえてこない。パントマイムをしているのかとも思ったが、その顔には鬼気迫るものがある。


「閉じ込められてるみたいな感じですね」


 私は誰に聞くともなく尋ね、戸の中ほどに取りつけられているクレセント錠を指し示して男に気づかせようとした。もしかしたらパニックになっているだけかもしれない。しかし改めて見れば錠はかかっておらず、かといって戸をスライドしても開きそうにない。


「実際に閉じ込められてるんじゃないかな。このあたりにいる人間ってだけで特殊な立場だろうから」


 そう言うと古戸さんはどこからか大きな植木鉢を見つけ、ずるずると引きずってくる。


「これで割ろう」


「犯罪では?」


「人が閉じ込められてるんだよ。緊急避難だ。そうだろう、梶村」


「まあ……」


 少々乱暴過ぎるような気もするが、多分それが唯一の手段なのだろう。恵那ちゃんが猫たちを退避させつつ、私と徹也さんが土の入った重い植木鉢を持つ。屋内の男も私たちの意図に気づいたと見え、窓際から後退して身の安全を確保した。


「せーのっ」


 力を合わせて叩きつけた植木鉢は、思いのほか強靭なガラスに跳ね返され、地面に落ちて派手に割れてしまった。しかしガラスの方も無傷ではなく、表面にわずかな亀裂が走った。


 もう一息。私はトントンとステップを踏んで足元を確かめてから、亀裂目がけて後ろ蹴りを放った。足の裏にガラスの砕ける感触があり、恵那ちゃんの歓声が聞こえ、猫たちが驚いて跳び上がる気配を感じた。


「さすがだねぇ」


 おどけたで古戸さんが言うのを受け流し、開口部の縁をガシガシと蹴ってガラスを除く。穴が少し広がると、私の足元をするりと和毛が撫で、待ちきれない猫たちが次々に室内へと突入していった。


 次の瞬間、室内にいた男が大きな悲鳴を上げた。彼は明らかに猫を恐れていた。腰を抜かし、手を振り回しながら、僕が悪かった、許してくれ、殺さないでくれなどと、うわごとのように口走っている。猫たちは男を一顧だにせず、家の奥へと姿を消していく。


「一体どういうことなんだ?」


 徹也さんが言った。


「分かりませんね。彼が元凶なのか、ただの被害者なのか……」


 そのとき、私たちの背後から、悠然と近づく一匹の猫がいた。タコ公園で集団をまとめていた、月光色の首領猫だった。鷹揚な態度でにゃおうと鳴き、屋内へと入っていく。中からは相変わらず、男の命乞いが聞こえてきていた。


 私たちは敢えて屋内に入ることもせず、ラスティとともに庭で待っていた。しばらくすると、首領を先頭に、猫たちが布に包まれたなにかを屋内から運んできた。


 ちらりと窺った限り、それは亡骸だった。半ばミイラ化した灰色の猫。今いる大勢は、この亡骸を回収するために集まってきたのだろうか。


 危険を排除し目的を達成した猫たちは、首領を見送ったあと、三々五々に解散しはじめた。百匹以上いた集団が、道の先に消え、塀の陰に消え、屋根の上に消えていく。


 黒猫のきょうだいも去り、やがて私たちとラスティだけがその場に残った。そのうち、住宅街には人の気配が戻ってきた。車の音がどこからか響き、遅めの団欒を楽しむ声がした。私たちは思いがけず迷い込んだ猫の世界から、現実の世界に戻ってきたのだった。


「あっ、さっきの人」


 恵那ちゃんが声を上げたので、私も男の存在を思い出した。怯えた声は既に収まっていたが、屋内に目を遣れば、彼は床の上にぐったりと倒れ込んでいた。恐怖のあまり心臓発作でも起こしたのだろうか。


「まずいな。古戸、救急車を呼んでくれ」


 徹也さんが屋内に踏み込む。ガラス戸はもう、なんの障害もなく開閉できるようになっていた。私は邪魔にならないよう庭の片隅に座り込み、ラスティの頭を撫でた。一仕事を終えた彼女はどこか満足げで、喉をごろごろと鳴らしながら、私の手に頬を擦りつけてきた。


「ありがとうって言ってる」


 ラスティが短く鳴き、それを恵那ちゃんが翻訳した。


「……どういたしまして」


 しばらくすると、救急車の音が近づいてきた。敷地に侵入してガラスを割ったことは、体調不良者の救出として言い訳が立つだろう。思いがけず長丁場になった恒例の訪問は、こうして一応の落着を見たのだった。


       *


 ラスティの失踪に端を発した一件以降、私は猫に対する評価を大幅に改めた。


 彼らは普通の人間が思っているよりも遥かに賢く、謎めいた生き物であるようだ。おそらくは月に関係する自分たちだけの世界を持ち、情報を交換し、不届きな同族や人間に対処し、必要があれば強力な統制のもとに団結している。


 家の中で怯えていたあの男は、猫に対してどのような仕打ちをしていたのか、徹也さんは多少なりとも真実を掴んだのかもしれないが、私はそれを想像することしかできない。しかし灰色の獣も猫たちも、彼を傷つけることはしなかった。少なくとも、肉体的には。


 私は人間が猫を飼っているという表現が、少なからず誤りだと思うようになった。かなりのケースでは選択権が猫にあり、彼らが人間との暮らしをよしとしている限り、それを続けているに過ぎない。


 もし猫たちがその気になれば、人間をただの缶切り役、扉の開閉役として奴隷にすることだってできるかもしれない。そうしないのは、彼らが人間を愛しているからだと、私は信じる。


 猫たちはピラミッドより遥か古い時代から、どんくさくて、愚かで、欲深く、ときに危険な大きい生き物に、なにか愛すべきものを見出して、大きく道を踏み外さないよう見守ってきたのだ。


 これを過大評価だと感じる人間は、猫のことを一面的にしか知らないのだと思う。予断を持って見れば、彼らが人間を警戒させたり、怯えさせたりしないよう、かなり注意深く振舞っているのが分かるはずだ。


 しかし、自分たちの一面しか見せないことが彼らの目的なのだから、敢えて啓蒙する必要もないだろう。


 それから事件以降、滴水古書堂には時折、二匹の黒猫が訪れるようになった。あの夜、ラスティと共に私たちを護衛していたきょうだいだ。猫の秘密を知った私たちが、要らぬことをしないよう見回りに来ているのかもしれない。


 古戸さんは二匹に〝右近〟〝左近〟という名前をつけ、店の一角に専用の座布団を敷いて心象の改善を狙っている。何度か、動物が自分に敵意を向けるのを止めさせられないかと相談しているのを目にしたが、今のところ効果は表れていないようだ。

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