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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode8 一万年の光
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-7- ガラス越しの対話

「……あなたは誰ですか?」


 私は尋ねた。人形に向かって話しかけるのは妙な感じだった。


『私は、君の目の前にいる者だよ』


 返ってきたのは、こちらをからかうような答えだ。缶の中にいる人物は、明らかに現状を認識し、面白がってさえいるようだった。


「宇宙虫に脳を盗まれたんですか?」


『宇宙虫? 君は、彼らをそう呼ぶのか。私に言わせれば、人類の方が虫のようなものだと思うが。……私は、自ら望んでこうなったんだよ。君も、是非やってみるといい。極めて貴重で、素晴らしい体験になる』


 信じられない。この――口調からすると、多分中年の――男は、脳だけになって溶液に浮かんでいる状態を、素敵な体験だと言っているのだ。


「……あんまり、そうは見えませんが」


『ただゆっくり眠って、夢を見るだけでも悪くはないが、この身体ならば、彼らに連れられて暗黒の外宇宙を飛び、人類が永遠に到達し得ないであろう、数多の惑星の景色を眺め、言語はおろか、根本的な思考様式さえ異なる、高度な知的存在と、実に興味深い対話をすることができる。


 こんなことが、生きているうちにできるなんて、私にはこれまで、想像もできなかった』


 無機質で途切れがちな声からでも、静かな興奮と恍惚が伝わってきた。こちらを惑わせるための嘘とは思えない。この男は宇宙虫と接触し、合意のもとに脳だけの状態になり、実際に私が考えもつかないような経験をしたに違いない。


 しかしどんな素晴らしい体験が保証されたとしても、こんな風になりたいとは思えない。もしかすると、古戸さんは興味を持つかもしれないが。


「あなたの言う、彼らっていうのは何者なんですか。地球になにをしにきてるんですか?」


『人類のごとき矮小な知性に、彼らの意図を、真に理解することはできないだろう。ただ思うに、彼らは宇宙に散らばる興味深いもの、素晴らしいものを収集することに、意義を見出しているようだ』


 私が宇宙虫に対して抱いている印象は、短期間での少ない情報から形作られたものだが、この男の評価もまた大いに偏っているような気がした。肉体に対する敬意の欠如と人類を卑下するような態度は、私にとってどうにも受け入れがたいものだった。


『これは一体……』

 そのとき背後で扉が開き、ウラシマが入ってきた。


『また、新しいお客さんだね』

 人形が低い声で言う。 


「ウラシマさん、これ……」


 私は今の奇怪な会話を共有すべく、人形の頭に乗った容器を指し示したが、室内を一瞥したウラシマの関心は、別のところに吸い寄せられてしまった。


 以前に医学が専門分野だと言っていたから、標本に興味があるのかと思ったが、どうもそうではないらしい。ウラシマは変わった形の脳標本の前に立つと、それを食い入るように見つめ、小さく震えはじめた。酷くショックを受けているように見える。


 私は人形から離れ、ウラシマの隣に立った。よく見ればこの脳は単なる奇形でも、一部が切除されたものでもない。兜のような形をしたそれは、質感も構造も人間のそれとはかなり異なっていた。


『そんな――ここに――私たちの、なぜ』


 断片的な呟きが翻訳機越しに聞こえる。しかしウラシマは日本語の音声を煩わしいと思ったのか、首に取りつけていたブローチ型の機械に触れると、その電源を切ってしまった。


 脳の容器は、人形の中に入っていたものとよく似ていた。これもまた電源に接続され、生かされているようだ。円筒の基部にある金属のところから、わずかな振動が発せられている。


 抑揚と音節のついたそれは日本語でも英語でもなかった。私がはじめてウラシマと出会ったときに聞いた、そして今も現にウラシマが発している言語だ。


 つまりこれはウラシマと同じ、異星の昆虫族の脳なのだ。


 こんな形での再会を果たした両者の心境はいかばかりか。会話に介入することもできず、また人形と話し続けることもしたくなかった私は、ひとまず隣の部屋へと撤退することにした。


 ドアの向こうでは、古戸さんがパイプ椅子に腰かけて、宇宙虫の死骸をいじくりまわしていた。私が偶然ここを訪れた宇宙虫なら、悲鳴を上げて卒倒するような光景だ。


「誰かと話してた?」


「脳を缶詰された人がいました」


 私が見たままを報告すると、彼は心底楽しそうにクックと笑った。


「ウラシマ君の親御さんが使った脅し文句は、本当だったわけだ」


「それ、どうしたんですか」


 私は死骸に言及した。つい十分前までは生きていた宇宙虫だが、今は飲み物の中で溶けた氷のようになっている。


「うん。いくつかの薬剤には耐性があったけど、粉末の防カビ剤には強烈な反応を示した。このあたりの組織を見てごらん、裂いたシイタケに似てるだろう。地球の生物で言うと、キノコに近いのかもしれない」


 古戸さんは鉗子かんしで渦巻きの一部を引っ張り、内部を広げて見せた。とても直視する気にはなれない。キノコに近いというのならきっとそうなのだろう。


「そして宇宙虫は、死後すぐに溶解をはじめるということが分かった。この生物が地球で形を保つにあたっては、なにかとても繊細な生理機構が働いているに違いない」


「……はあ」


「感想は?」


「吐きそうです」


「なるほど。鉗子押さえるのと写真撮るの、どっちがいい?」


「写真で」


 私はのそのそとデジタルカメラを取り出し、電源を入れて背面モニターを覗いた。しかしそこに映る宇宙虫の姿は、下手な画像処理を施したかのように、輪郭だけがぼんやりと判別できる不明瞭なものだった。


 鉗子を持っている古戸さんの手は見えるが、それが露わにしているものは見えないのだ。何度確認してみても、映像にしてみても、宇宙虫の実体を捉えることはできなかった。


「古戸さん、どう思いますこれ」


「……なるほど。死骸は溶けて残らない。写真にも映像にも残せない。道理でこれまで証拠がなかったわけだ」


 しかしこれでも、なにかがいるということは分かる。記事にするだけであれば、変にリアルでグロテスクな生物を映すよりはいいのかもしれない。


「ウラシマ君の意見ももっと聞いてみたいんだけど、まだ脳みそと話してるのかな」


 無遠慮な好奇心を示す古戸さんに、あの悲劇的で奇妙な再会をどうやって説明したものか。私が苦慮していると、ホールの方から金属の軋む音がした。建物に誰かが入ってきたのだ。長居するべきではなかったと後悔しても遅い。


「防カビ剤はもう少ないな……。楠田さん、ウラシマ君呼んできて」


 この場合、人間に咎められるのと、宇宙虫に襲われるのと、どっちが好都合だろう? そんなことを考えながら、私は脳の容器がある部屋に戻った。


「ウラシマさん」


 私が扉を開けたとき、ウラシマはこちらに背を向けて、まだ同族の脳に向き合ったままだった。なにか――首のあたりを振動させる例のやり方で――呟いていたが、翻訳機がオフになったままだったので、意味を理解することはできなかった。


 伝わらない言葉で悠長に呼びかけている場合ではないと判断した私は、そのポンチョに覆われた肩に触れ、腕を取って同行を促した。抵抗せず従うウラシマの身体越し、ちらりと見えた脳の容器は完全に沈黙し、電源が落ちているようにも見えた。


『ふ、ふ、ふ、ふ』


 人形が嗤う。無性に腹が立ち、容器を叩き割ってやりたくなるが、今はその余裕がない。


 私がウラシマを連れて戻ったとき、視界の端で扉が動いた。先程の手術室に繋がる扉から、誰かが入ってくる。


 人間か。いや、宇宙虫だ。五対ある腕の一本には、あの恐ろしい木片が握られていた。次の瞬間に放たれるであろう致命的な攻撃を予感して、私は身を竦め、頭を庇う。


 しかし甲高い雷鳴の代わりに響いたのは、ヒイイという弱々しい悲鳴と、狂ったような羽ばたきだけだった。古戸さんがうまく不意をつき、宇宙虫の渦巻き部分に、白い粉末の防カビ剤を浴びせかけたのだ。


 果たして薬剤の効果は目覚ましかった。粉末に触れた渦巻きはすぐさま腐食し、溶解し、それによって宇宙虫の知覚と運動は滅茶苦茶に破壊された。脳にあたる部分を溶かされた犠牲者は、弾かれたように飛んで棚に激突したあと、十肢を不規則に痙攣させながら床を転がり回った。


 この生物に声帯がなかったのは幸運だった。こんな状態で上げる断末魔の叫びがどのようなものかは、あまり想像したくない。


「うーん。僕も脳と話してみたかったけど、いい加減に退散した方がよさそうだな。……大丈夫かウラシマ君。なんだかぼんやりしてるな」


 ウラシマは動かなくなった宇宙虫と古戸さんを交互に見比べたあと、ようやく翻訳機がオフになっていることを思い出したようだった。尖った指先がそれに触れると、機械から途切れ途切れの日本語が聞こえた。


『……行こう、あとで、詳しく話すよ』


 ともかく私たちには、知り得た事実を整理する時間が必要だ。どこかで休むにしても、ここからはすぐに離れた方がいい。誰かが来るかもしれないという意味でも、単純に不快な場所であるからという意味でも。


 こうして私たちは部屋を出て、おぞましい研究がおこなわれていた建物をあとにした。そしてまた探索の態勢を立て直すべく、曇天の下、さわさわと音を立てる山の中へと分け入っていった。

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