-20- 対峙
板敷の社殿内部。太い蝋燭が四隅に置かれ、ぼんやりと辺りを照らしている。床には腐肉のような臭いを放つ赤黒の塗料が、奇怪な記号となり、文字となり、図形となって床を覆っていた。それは私の記憶にある神道の儀式と、あまりにかけ離れた禍々しい場景だった。
中にあった人影は三つ。床に正座し、今しがたこちらを振り向いた神奈子ちゃん。同様に正座し、ぼんやりとした動きで反応したプレハブの女性。二人は白い襦袢を身に纏っている。
そして奥には、こちらに対して憎悪と侮りの表情を浮かべた、白い袴姿の瑠璃がいる。しかしその裾は準備のためか、所々赤黒く汚れていた。
彼女の背後には、濡れたような輝きを放つ銅鏡がある。古戸さんの目線はきっと、それに釘付けとなっているに違いない。
「あとり……!」
神奈子ちゃんが声を上げた。驚いているようでもあり、半ば予期していたようでもあった。
「控えなさい。ここがどこだか分かっているのですか」
その場の全員に向けて、瑠璃がぴしゃりと言い放つ。有無を言わせぬ迫力のある声だった。
「うるせえ! 姉ちゃんを返せ!」
「瑠璃さま、弟に、あとりに悪気はないんです。なのでどうか――」
「控えなさい、と言っている」
瑠璃に睨まれると、神奈子ちゃんはさっと顔を伏せた。幼少より植え付けられた恐怖が心を縛っているのだ。
「子供だからと大目に見ていましたが、あなた如き、いつでも引き裂いて、豚の餌にしても構わないのですよ」
この言葉に、あとり君は怯んだ。じりじりとあとずさり、私の背に隠れる。
「やってみたらいいよ」
古戸さんが挑発的に言った。
「あなたになにか不思議な力があるとして、この場で五人を一度に殺せるならやってみたらいい。でも人を殺せるのはこの楠田さんも同じだ。三秒あれば、彼女は手刀で君の首を折れる」
「狙いがこっちに向くようなこと言わないでください」
瑠璃はこちらを睨みつけたまま動かない。力の限界を指摘されたからなのか、案外理性的だからなのかは分からない。少なくとも、下男が私たちを止められなかったことは認識しているはずだ。互いが互いの腹を探り合うような沈黙が続く。
「あなたたちの目的は、この娘の解放ですか?」
瑠璃が言った。
「そうです」
私は答えた。今のところは恐怖に負けず、踏み留まることができている。
「事情も分からない部外者が、安い憐憫で村を滅茶苦茶にする。これを偽善と言わずしてなんと言いますか。恥を知りなさい」
「それでも私はあなたが正しいとは思えません。なんと言われようが」
「そうだ。姉ちゃんは小説家になんだ。器になんかならねえぞ。事情が分からないとか言ってるけどな。お前が隠してんじゃねえか。いい加減村にネットを普及させろ」
突然、やりとりを聞いていた古戸さんが笑い出す。それを見て、瑠璃の表情がまた一段と冷たくなった。
「ごめんごめん。彼があまりに正論だったもんだから。瑠璃さん。僕はあなたのこと、そんなに悪くない人だと思ってますよ。
だって、そうでもなければ四百年前、村の人はあなたを受け入れなかったでしょう。これまでには戦争だってあった、飢饉だってあったはずだ。それを乗り越えて豊かな村を維持してきたんだから、多少の乱暴狼藉は許してあげたくなる」
「今更になって懐柔しようとしているなら――」
「いや、なんか僕らが善意の人間だと捉えられるのは違和感があるんで、正しておこうと思って。あなたの言う通り、僕らって村全体の事情は知ったこっちゃないんですよ。健気な少年と、可哀そうな少女しか見てない。だから偽善者っていう指摘は完全に的を射てるんです。
僕なんか――普段は結構ナイスな人間なんですけど、今回は――モロに悪人じゃないかと思う。あわよくばあなたの後ろにある、御門鏡を手に入れようとしてるし。
ねえ瑠璃さん。もう何世代かしたら、また神奈子ちゃんと同じくらい適性の高い子が生まれるんじゃないですか? だから今回変なリスクを冒すより――」
私は途中で古戸さんを制止しようと思った。場の雰囲気が後戻りできないほどに張り詰めているのを感じたからだ。
古戸さんの小馬鹿にしたような態度のせいなのか、私たちが知ったことを伝えすぎたせいか、瑠璃の悲願を軽視した発言をしたせいなのか。とにかく、彼女の逆鱗に触れたのは間違いなかった。
古戸さんも違和感に気づいたのか、途中で言葉を止める。空気の流れが変わった。瑠璃の歪んだ表情や、漏れ出た殺気だけではない。それは触覚で捉えられる物理的な変化を伴っていた。私は前方に、なにかとてつもない圧力の高まりを感じた。
「まとめて去ね」
その直後、まったく無音の、不可視の力が襲ってきた。まるで巨大な拳に殴られたようだった。私は両腕で顔を庇ったが、当然なんの意味もなかった。
離れていく神奈子ちゃんの悲鳴で、後ろに吹き飛ばされているのが分かった。私の身体は本殿の扉にぶつかってなお止まらず、硬い地面に背中から叩きつけられた。
「うぅ……ぐ……」
頭から落ちず、意識も失わず、なんとか受け身を取れたことは幸いだった。それでも殴打と着地の衝撃は強烈で、私はしばらく間、身を起こすこともできず悶絶していた。
「由宇子姉ちゃん、大丈夫か」
あとり君に声を掛けられて、私はほんの少し正気を取り戻した。彼もまた扉の外まで吹っ飛んでいたのだ。運動神経がいいのと、大人より身体が軽いのとで、重傷には至っていないようだった。
外穂村を訪れたときに目撃したことを思い出す。あのとき車にぶつかってきた豚は、今と同じような力を受けたのではないか? もしかすると瑠璃とその血を濃く受け継ぐ人間だけが使える、特別な術なのかもしれない。
深呼吸して気持ちを落ち着ける。樋口さんと高坂さんは無事だろうか。二人が立っていた位置から考えると、屋内で壁に叩きつけられた可能性が高い。神奈子ちゃんのことも心配だ。私は全身の痛みを押し、あとり君の助けを借りながら立ち上がった。
本殿の戸口から、瑠璃が姿を現す。暗いため表情を窺うことはできないが、彼女が放つ静かな雰囲気は、養豚場の主を惨殺したときとまったく同一だった。
ふと、瑠璃が立ち止まって視線を落とし、わずかに動揺したような仕草を見せた。私も釣られて地面に目を遣る。そこには星明りを反射してわずかに光る、飴色のかんざしがあった。ポケットに入れていたものが、衝撃で飛び出たのだろう。
やはりあれは重要な物品なのだ。瑠璃の様子を見てそう直感した私は、彼女より先にかんざしを手にしようと足を踏み出した。
しかし、ダメージを受けた肉体が言うことを聞かなかった。私は二歩進んでバランスを崩し、跪くような形で倒れた。
「かんざしを……」
指示するまでもなく、あとり君は私の意図を察して走り出した。瑠璃もほぼ同時に動いていた。かんざしはちょうど両者の中間にある。先に辿り着いたのはあとり君だった。
彼がかんざしを拾おうとしゃがみこんだとき、瑠璃がその顔面を蹴りつけた。転がったあとり君を踏みつけ、上から手をかざす。その身体は怒りのためか、細かく震えているようにも見えた。
まずい。あとり君の身体が引き裂かれてしまう。
私は震える膝を押さえて立ち上がろうとしたが、身体に力が入らない。焼け付くような焦燥が、なおのこと運動神経を空回りさせる。
「やめて!」
そのとき、瑠璃の身体が大きく傾いだ。彼女の背後から衣を引いたのは、本殿から裸足で駆けだしてきた神奈子ちゃんだった。その声は悲痛だったが、覚悟に満ちたものでもあった。
「あとりに手を出さないで!」
瑠璃は罵声とともに振り払おうとしたが、神奈子ちゃんは必死に食い下がる。
彼女らが争っている間、私は這いずりながらかんざしに近づいていった。手を伸ばして冷たいそれを掴んだとき、揉み合う瑠璃と神奈子ちゃんが、腕の上に倒れ込んできた。
握ったかんざしが、手の中で折れる。
「っ……あっ……」
瑠璃が言葉にならない声を上げた。転倒によるものではなさそうだった。闇の中でも、彼女が激しく目を見開いているのが分かった。
かんざしの不自然な冷たさが、徐々に失われていく。それと同時に、瑠璃にも変化が訪れた。口から漏れ出る声は急速に枯れていき、瑞々しかった肉体も萎んでいった。
彼女は老いていた。四百年分を封じていた栓が壊れたのだ。
「ねえさま――」
瑠璃は乾燥した枝のようになる直前、小さくそう呟いた。




