-終- 帰還
醜悪な頭部は、いとも簡単に胴体から切り離された。首級が音を立てて地面に落ちると、断面からは勢いよく血が噴き出して、広い範囲をどす黒く染め上げた。
短い間痙攣していた巨人の身体が、やがて完全に動かなくなったあとも、僕は陶然としたような気持ちで佇んでいた。
巨人殺しはほんのはじまりに過ぎない。これから僕はアタマウスの剣を携えて、数多くの偉大な善行と、決して少なくはない残酷な所業を成すことになるだろう。猫や屍食鬼を友とし、竜に騎乗し、人知を超えた怪物たちに立ち向かうだろう。
そして日に焼けた肌の文明人も、青白い顔をした蛮族も従えて、侮りがたい勢力を築きあげるだろう。そして南の広漠たる海洋から、北の凍てつく荒野までを――
僕はアタマウスの剣を地面に突き刺して、よろよろと後ずさった。
「大丈夫か、ユウキ!」
オランが駆け寄ってきて、僕の脚に身体を擦りつけた。アタマウスの剣を手放した直後から、自分のしでかしたことに慄き、息もできない有様だった僕は、それでようやく正気を取り戻し、大きく胸を上下させて深呼吸した。
「怪我はないか? おい、額に傷が……そう、それそれ。ああ、もう血は止まってるな。しかしまあ、よくやったよ。俺はてっきり途中でペシャンコになるかと思って気が気じゃなかったぜ」
「ありがとう……僕も無事に済んでビックリしてる。味方は勝ったのかな?」
「ああ。あっちもなんとかなったみたいだ」
僕が西の方角を見遣ると、敗走していく敵の集団と、それを追撃する騎兵たちの姿が見えた。竜もいつのまにか、どこかへ飛び去ってしまっている。ウルタール軍は町の防衛に成功したのだ。
「あとは俺たちも、堂々と凱旋するだけだな。なんたって巨人殺しの勇者様だ。ところで、剣を忘れてないか?」
「いや、いいんだ。アレは……置いていくよ。僕には扱いきれない」
僕は英雄にならなくていい。剣はそのうち、もっと器の大きな人間が拾うだろう。
「ふふん。まあ、ユウキがそう言うなら任せるさ」
しきりに僕のにおいを嗅いでくる猫たちと一緒に、ウルタールまで歩いて戻る。町の入口までやってくると、人間の部隊も大半が帰還してきていた。
無事な者は決して多くないが、甚大な被害を被ったというわけでもないようだ。少なくとも、人々には勝利を喜べる程度の余裕がある。
僕は例の隊長を捜したが、その姿は見当たらなかった。多分、騎兵部隊を指揮して、残党狩りに出ているのだろう。
戦闘に加わらなかった住民たちが出てきて、凱旋した兵士たちを歓呼の声で迎える。僕も、前掛け姿の太った男に背中を叩かれたり、赤毛の若い女性に抱き着かれたりした。
やがて人々は即席のパレードを形成し、勇ましい歌を口ずさみながら大通りを進む。どうやらこのまま神殿まで行くようだ。僕もなんとなく流れに乗るような形で、しばらくはそれに従った。
「多分、祝賀会が開催されるな。ごちそうがたっぷり出るぞ」
パレードは数百人の規模まで膨れ上がりながら、市街の中心部までやってくる。
僕が人垣の間からシロカネさんの姿を見たのは、そのときのことだった。
「あっ」
「どうした? ユウキ」
「ちょ、ちょっとごめんなさい。通ります」
僕は慌てて守備隊の列から外れ、群がる人々を強引に掻き分けて、パレードの外へとまろび出た。オランも後ろからついてくる。
シロカネさんがいたのは、間口を大きく取った食堂の中だった。彼女は主人も客もいない店の奥まった席に腰かけ、フルーツパイの皿を前にして、物憂げな様子で銀色のフォークを弄んでいる。
「シロカネさん!」
僕は店に上がり込んで名前を呼ぶと、彼女はこちらを向いてにっこりと微笑んだ。
「おや、ようやくお会いできましたね」
僕は色々なことを尋ねようとして、言葉がまとまらずに口ごもった。一方のシロカネさんは、突然の遭遇に驚いた様子も見せず、自分の対面を指し示し、テーブルにつくよう促した。
僕が胴鎧を脱いで足元に置き、木の椅子に腰かけると、オランも膝に飛び乗ってきて、シロカネさんを胡散臭げに横目で見ながら、堂々とした態度で身づくろいをはじめた。
「あなたが片倉さんを連れてきてくれたのですね」
シロカネさんはオランにも顔を向け、穏やかな笑顔を見せた。
「そうとも。アンタ、ユウキの知り合いかい?」
「ええ。以前彼に助けてもらって、銀の鍵を預けた者です」
「銀の鍵ねえ……。もしかして、ユウキがこの世界に迷い込んできたのは、アンタのせいじゃないのか? こっちは大変な思いをしたんだぞ」
「オラン、違うよ、僕が――」
「いえ、いいのです。片倉さん。あなたにはご迷惑をおかけして申し訳なく思っています。ところで、鍵はまだお持ちですか?」
僕はポケットを探り、例の鍵を取り出してテーブルに置いた。彼女はそれを白く繊細な掌に乗せ、表面のアラベスク模様を検分するように見つめた。
「やっぱり、それが悪さをしたんだな?」
「ご賢察の通り、これは異なる世界への扉を開く鍵。特定の操作をすることで持ち主の肉体と精神を遠くに送ります。
事情を知らない者に預ける際には、適切な警告があってしかるべきと思われたかもしれませんが、私の経験上『するな』と強調してしまうと、むしろ好奇心を刺激してよろしくないのです。特に、人間の場合は」
その言い分はなんとなく腑に落ちる。「絶対に月夜の晩に回してはいけない」と言われていたとして、僕は禁を犯す誘惑に勝てただろうか。
「まあ、落ち度云々に関してはこの際どうでもいいさ。ユウキはちゃんと元の世界に帰れるんだな?」
「もちろんです。では早速――」
「待って。待ってください」
僕は鍵を持つシロカネさんの手を上から押さえるようにして、彼女を制止した。
「どうしました?」
「オランにちゃんと礼を……」
別れが近づくと、これまでオランが施してくれた親切が次々に思い起こされた。
彼は見ず知らずの僕を性悪な獣から救い、食べ物を探し、傷を癒してくれた。危険には率先して立ち向かい、落ち込んでいれば明るく励まし続けてくれた。彼がいなければ、僕は決してウルタールに辿り着くことはできなかっただろう。
どうしても適切な言葉を見つけられなかったので、僕は両腕をオランの小さな身体に回し、月光色をした首筋の和毛に鼻先を埋めて、ありがとう、とだけ言った。彼はしばらく喉をごろごろと鳴らしながら、僕の顔に頬を擦りつけていたが、やがて身を離して床に降り、行儀よく座った。
「なあ、そうしみじみするなよ。俺とユウキの世界はどっかで繋がってるんだ。だからまた会うことだってあるかもしれない。ユウキが次この世界に来たら、最初の方に通ってきた森とか、ウルタールの名所なんかをゆっくり歩いて、色んなもんを紹介してやるよ。ちょっと遠出してみるのもいいな」
「……うん」
「反対にもし俺がユウキの世界に迷い込んだら、きっと俺のことを見つけて、ユウキの世界のことを沢山教えて、困らないように世話を焼いてくれよ。な? 約束だ」
「約束する」
「うんうん。ユウキが元の世界に帰れるなら、俺もほっとできるってもんだ」
そう言ったあと、彼はしばらくためらうように俯いていた。しかしやがてと鼻先を上げると、はじめて会ったときと同じような明るい声で言った。
「そろそろ行くぜ。ぼんやりしてると、祝賀会のごちそうが無くなっちまうからな。それに、早く自慢話をしたいんだよ。あの巨人を殺したのは俺の友達なんだぜって」
オランは店の入り口まで歩き、一度だけこちらを振り返った。
「元気でやれよ!」
それから彼は走り出した。パレードを追いかけていったのだろう。
「……いい友達です。まあ、こっちが世話になってばかりだったんですが」
彼の和毛を名残惜しく思いながら、僕は言った。
「また会えるといいですね。……さて、準備はいいですか?」
「大丈夫です。あの、この世界のこととか、鍵の秘密とか、これを僕に預けた理由とかは、いつか教えてもらえるんでしょうか?」
僕がシロカネさんに向き直って尋ねると、彼女は僕の手を握り、その美しい顔を、吐息がかかりそうな距離まで近づけてきた。
「近いうちに教えてあげましょう。約束です」
大変な思いを味わいながらも、これだけの仕草と言葉で引き下がってしまうのだから、男というものは本当に哀れな生き物だ。いや、男という性別に責任を被せるのはよくない。僕が情けないほどに女性慣れしていない、というだけだ。
それからシロカネさんは僕に鍵を握らせ、複雑な順序でそれを回したり裏返したりするよう手を取りながら教えてくれた。
彼女の言う通りにしてみると、あの晩、自室のベッドの上で見たときのように、鍵は深みのある微妙な輝きを放ちはじめた。それは薄暗い店内で次第に強さを増し、やがて僕の感覚を圧倒していった。
そして形のない門が開かれる。薄れていく意識の中で最後まで残っていのは、シロカネさんの細く柔らかい手の感触だった。しかしやがてそれも消え、僕は切り離されるようにして、この世界をあとにした。
◆
強いめまいを感じて倒れ込んだ先は、柔らかいベッドの上だった。
電灯の光がやけに眩しかった。僕はそのまましばらく目を閉じて、冒険の終わりを噛みしめていたが、思い立って身を起こし、所持品を確かめた。
先程まで手にしていた鍵はなくなっている。しかし三枚の銀貨と腕輪は残っていた。僕はそれらをデスクに置いて、今度は服を脱いだ。
あの世界へ旅立つ前から身に着けていた服は、汗や泥ですっかり汚れ、さらに巨人の血肉をかぶったせいで見るも無残な有様になっていた。万が一親にでも見られたら、きっと大騒ぎになるだろう。
姿見で確認した身体は打撲や擦り傷だらけで、額にも小さな切り傷があった。完全に隠すことはできないので、人と会う前に、なにか言い訳を考えておこう。いじめにあったのかと尋ねられて、いいえ戦争ですとは答えられない。
手や足の皮膚も変な感じだ。剣を振り回したり、長い距離を歩いたりしたせいだろう。
それらはすべて、紛れもなく冒険の証だった。未知の世界へ降り立ち、喋る猫オランと旅をして、竜の飛ぶ戦場を馬で駆け、身の毛もよだつ巨人の首を刎ねた証だった。もっとも腕輪や銀貨や額の傷を見せ、迫真の情景を語ったところで、信じてくれる人間などいるはずもないが。
しかし少なくとも、シロカネさんには詳しく話してみよう。彼女の発言がその場限りの嘘でないなら、僕たちは再び顔を合わせることになるはずだ。もしかすると、また妙なことを頼まれるかもしれないが。
僕は過激で風変わりな夏の思い出を胸にしまい込むと、疲労を押して腰を上げ、身体の汚れと臭いを落とすべく、一階の浴室へと降りていった。




