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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Extra Episode 巨人を殺した夏
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-6- 四つ腕の巨人

 店を出た僕たちは、ウルタールの中心にあるという神殿を訪れてみることにした。オランが目線で示す先を見ると、小さな丘の上に白く秀麗な建物がある。聞けば現在神官を務めているのは極めて高齢の人間で、少なくとも三百年は生きているのだという。


 僕は金属輪の沢山ついた豪奢な錫杖を持ち、膝まで届きそうな白髭を蓄えた老人の姿を想像した。神官は僕のような異世界人に会ったことがあるだろうか。異世界人を元の世界に送り返す方法を知っているだろうか。


 そんな考え事をしていたせいで、僕は周囲にあまり注意を払っていなかった。


 しかしほとんど一瞬だけ視界に映ったものが、僕の記憶を強く刺激した。


 ウルタールの通りを行き交う人々。肌の色は平均的な日本人と同じくらいか、それよりもやや日に焼けている。髪の色は黒が多く、そのほかは茶色、栗色、ごくたまに濃い金髪や赤みがかった茶。


 そんな中、今しがたすれ違った女性の髪は、おそらくこの世界でも珍しいであろう銀色だった。彼女は目深にフードを被っていて、その隙間からわずかに覗いただけだったが、間違いない。そして僕は元の世界で、似たような銀髪に見覚えがあった。


「シロカネさん……?」


「どうした、ユウキ」


「いや、今、知り合いが」


 もし本当にシロカネさんならば、僕がこの世界に来てしまった理由を知っているかもしれない。捉まえて話を聞かないと。


 僕たちは既にウルタール市街の中心部まで来ていた。ここには多くの店舗や屋台が軒を連ね、町の住民や、外部から訪れた商人たちで混雑している。一度見逃した人物を見つけるのはそう簡単でない。


 それでもこの機会を逸してしまえば、次また会えるかどうか分からない。僕は人混みを掻き分けながら、彼女の姿を探した。


「どうしたんだよ。神殿に行くんじゃないのか」


 オランに説明している暇はない。僕はシロカネさんの影を追い、路地に入った彼女を見た気がして、急いでそこに飛び込んだ。


 次の瞬間、どん、となにかにぶつかる。


「おい、気をつけろ」


 それは身長が百九十センチ以上もありそうな大男だった。腰には長剣を帯び、よく磨かれた金属の胴鎧を身に着けている。


「あの、今ここに銀髪の女性が――」


「ん? お前、その腕輪」


 大男は、僕がボロックから貰った真鍮の腕輪に気づいたようだった。


「そうか、今日来ると言っていた新人だな」


「いえ、違います、僕は――」


「なら、これは盗んできたものか?」


 ぐい、と顔を近づけられ、僕はたじろぐ。


「大方、戦の直前になって怖気づいたのだろう。変装して逃げようとしたのかもしれんが、そうはいかん。お前も入隊したからには、しっかり任務に就いてもらうぞ」


 強い力で肩を掴まれ、そのまま大通りを連行される。これではシロカネさんを探すどころではない。


「オラン……どうしよう」


「んん。コイツはどうやら人の話を聞かない手合いだぞ。今は従った方がいい」


 確かに、下手に抵抗すればぶん殴られそうな雰囲気だ。泥棒だと誤解されても厄介なことになる。僕はやむなく大男に従い、結果として今来た道を引き返すことになった。


「お前、名前は」


「ユウキです」


 男はラブレイという名で、ウルタールの騎馬部隊を率いているらしい。


 乱暴な自己紹介を済ませた直後、あたりにラッパの音が鳴り響いた。


「クソ、思ったより早いな。おいユウキ、とっとと来い! お前は俺と同じ騎兵部隊に配属だ」


「なにが早いんです?」


「敵の到着に決まってるだろ!」


 ボロックが話していた南からの侵略者に違いない。僕はこれから、町の防衛戦に巻き込まれようとしているのだ。


「逃げようとは思うなよ。敵前逃亡の罪に与えられる罰は恐ろしいぞ」


 こちらの思考を見透かしたように隊長は言った。


 僕がどうやって誤解を解こうか考えている間に、門の外まで連れてこられてしまった。そこには既に数十人の隊員たちが準備を整え、緊張の面持ちで地平線を睨んでいた。同じ方向に目を遣ると、丘陵の上からこちらに向かってくる集団がある。


 侵略者の群だ。


「粗末な武器だな。それを使うのか? まあいい。防具はこれを貸してやる」


 投げ渡された胴鎧は、隊長のものより二回り小さい。持ってみるとどっしり重いが、身に着けてみると、さほど動きを阻害しないことが分かった。


 そして軍馬。サラブレッドより背が低く、足が太い。手綱や鞍や鐙はあるので、乗ることだけならなんとかできそうだ。


「ほほう。こりゃ本格的に戦争だ。なんだかワクワクしてきたな」


 オランが言った。彼は親切で面倒見もよいが、ズーグや月棲獣に対する態度や立ち回りから考えて、過激で好戦的な性格でもあるようだ。僕は冗談じゃないと思いつつ、隊長に厳しく指示されるまま軍馬に騎乗した。


 そしてアタマウスの剣をぐっと握り、僕に勇気を与えてくれるよう願う。


 月棲獣の首を刎ねたときにも感じたことだが、この剣は使い手の精神状態に強い影響を与えるようだ。現に今も僕の恐怖が麻痺させ、心の奥底でチリチリと火花が散るような、不思議な高揚を与えてくれた。あまり健康的な作用でないのは分かっているが、恐怖で竦んでしまうよりはましだろう。


 軍馬は非常によく調練されていて、僕がいちいち指示を与えずとも、すんなりと仲間の列に加わった。オランは僕のすぐ前を自分の位置と決め、湧き上がる興奮を抑えるように、月光色の毛並みを丹念に舐めている。


「せいぜい活躍してやろうぜ、ユウキ。俺もついてることだし、心配いらないさ」


「……うん」


 心を整え、再び遠景を見遣る。敵は既にウルタールの領域へと踏み入り、市街までおよそ二キロの距離に迫っていた。


「騎馬部隊、聞け! 我々は歩兵部隊に先行して、敵部隊への斬り込みを敢行する。背後を気にすることなく、敵の陣形を崩しにかかれ。汚らしい蛮人どもに、ウルタールの石畳を踏ませるな!」


 要するに、まっすぐに進んで殺しまくれということだ。僕は騎馬突撃の初心者なので、複雑な機動を要求されないのはありがたい。


 部隊員の上げる鬨の声が、僕の鼓膜を震わせた。


 僕の属する騎馬部隊の数はおよそ三十。そのほか、槍や弩を持った歩兵が七十。不揃いな武装の民兵が五十か六十。とてもまとまった兵力とは言えないが、ウルタールの規模から考えると、これが動員できる精一杯なのだろう。


 しかしオランが言った通り、猫たちも防衛に加わるようだ。人間の部隊から少し離れたところに、様々な毛色の猫が集結しつつあるのが見えた。どこからともなく湧き出てきた彼らは、既に数百匹の群となっており、しきりに荒々しい鳴き声を上げて戦意を示している。


 やがて進軍の命令が下される。ラッパが鳴り響き、大きな旗が翻る。僕は見様見真似で馬の横腹を蹴り、味方に遅れないようついていく。


 革紐つきサンダルを履いた歩兵の足音、馬蹄が草を踏みしだく音、金属の武具同士がこすれ合う音、ときおり聞こえる深呼吸や咳払い。


 僕が緊張で息を呑んでいる間に、両軍が互いに接近していく。あっという間に、衝突まで一キロ未満の距離に迫った。


 そして戦場に最初の変化が訪れた。それは弩兵が戦端を開く前のことで、僕が予測していたよりもずっと早いタイミングだった。


 突然、敵軍の背後にある丘陵の陰から、大きな翼を持った灰色の生き物が姿を現わしたのだ。それは羽ばたきながら高度を上げていき、まるで準備運動をするかのように、長い首と尾をくねらせた。


 竜だ、と僕は思った。斥候が報告したという見たことのない化け物というのは、アレのことに違いない。


「なんだありゃあ」


 オランが呆気にとられたように呟いた。


 指揮官が声を上げ、進軍が止まる。


 竜の出現は味方に大きな動揺をもたらした。兵士たちは口々に叫び、上官に制止される。近くにいる友軍の猫たちも、そわそわと落ち着かない。あんなものを相手に、どうやって戦えばいいのだ?


 特に混乱したのが騎馬部隊だ。泣き叫ぶような馬たちのいななきが響き渡る。何頭かは後ろ足で立ち上がり、騎手を振り落した。何頭かは規律も命令も無視して、好き勝手な方向に駆け出した。後者には、僕の馬も含まれていた。


「うわ、わ」


 僕は馬から落ちないよう手綱を握りしめ、オランに覆いかぶさるような形で姿勢を低くした。ただ自分の身を守ることだけに必死で、どっちに向かっているのか確かめているような余裕もない。


 そのまま数百メートルばかり走っただろうか。泡を吹いた馬が脚を止め、膝を折ってしまったところで、僕はようやく落ち着いて周囲を見ることができるようになった。


 西の方角に、入り乱れる両軍の姿が見える。竜による動揺の隙をついて、敵の歩兵部隊が突撃してきたらしい。主力は青白い肌をした半裸の人間たちだが、月棲獣の姿もあった。竜も牙や爪で攻撃に加わり、ウルタール軍を苦しめているようだ。


 しかしそこに猫たちが乱入した。圧倒的な敏捷性を持つ彼らは、人間の兵士に決して劣らなかった。それが数百匹の群になっているのだから、これはもう立派な軍隊だ。


 人と猫の共同戦線によって、味方はなんとか持ちこたえている。早々に崩壊しかけた騎兵部隊も、統制を取り戻しつつあるようだ。


 これからでも戦闘に加わるべきだろうか? そもそもの話、僕は守備隊でもなんでもないのだし、いっそこのまま逃げてしまうのがいいかもしれない。あとで隊長の勘違いさえ訂正できれば、処罰もないはずだ。


「なあ、ユウキ。なんか変な感じがしないか」


 僕が保身の算段を練っていたとき、出し抜けにオランが言った。なにが変なのか尋ねようとして、僕は足元が大きく揺れるのを感じた。


 地震かと思ったが、どうも違うようだ。発生源はごく近い。驚いているうちに、もう一度突き上げるような衝撃があった。僕はよろめいて尻もちをついた直後に、目の前で草地の一部が不自然に隆起するのを見た。


 次の瞬間、土を勢いよく跳ね上げながら、黒い剛毛に覆われた腕が現れた。大木の幹ほどもある剛腕が、地面から突き出してきたのだ。見る間に二本、三本、四本目が生え、鉤爪のついた手で地面を掴んだ。


 埋まっている本体を持ち上げようとしている。


「危ないぞ! 下がれ、下がれ!」


 やがて歪な頭が、盛り上がった肩が、分厚い胸板が、重機のような下半身が、土石の層を掻き分けて姿を見せた。


 それは四本の腕を持つ巨人だった。背を丸めた状態でも、ゆうに七、八メートルの高さがあった。特に恐ろしげなのが、黄色い牙がびっしり生えた、左右に開く大顎だ。


「おい、ユウキ、ぼうっとするな! 食べられるぞ!」


 オランの声で我に返り、僕は慌てて立ち上がった。獲物を見つけた巨人の手が伸び、僕の頭上に影を落とす。


 先に捕えられたのは、怯えて動けなくなっていた馬だった。鉤爪のついた手が哀れな犠牲者を掴み、軽々と持ち上げる。絶望的ないななきも意に介すことなく、巨人は馬の頭を乱暴に齧り取り、ごりごり、ぐちゅぐちゅと咀嚼した。


 もちろん、それだけで脅威が終わるはずもない。馬をもうひと齧りした巨人は、残りを無造作に投げ捨てて、今度は僕に狙いを定めた。


 逃げられるだろうか? いや、どんなに頑張ったところで、一歩が自分の四倍もある相手を振り切るのは不可能だ。


 ならば、この場で戦うしかない。僕はアタマウスの剣を構えた。


 血液が興奮に沸き立ちながら全身を巡り、恐怖を押し流していくのを感じる。竦んでいた神経と筋肉が熱を持ち、瞬く間に闘争の準備が整えられる。


 毛むくじゃらの巨人が、咆哮とともに拳を振り下ろした。


 辛うじて避けた僕の傍らから、オランが駆け出す。


「ほら、捕まえてみろ!」


 彼は巨人の腕にしがみつき、するする肩まで登っていった。捕らえようとする相手を翻弄しながら、首に噛みつき、胸に爪を立て、口汚い挑発を繰り返す。


「ハッハー! なんだ、身体がデカいだけで全然大したことな――」


 しかし巨人も愚鈍ではなかった。手でオランをむしり取れないと分かると、脚を軸にして身体をぐるんぐるんと回転させたのだ。


 遠心力に負けて、オランの身体が宙を舞う。


「うおぉ」


 オランは十五メートルばかり吹っ飛ばされたが、そこは猫の身体能力。僕が墜落地点に駆け寄ったとき、彼はもう四つ足でしっかり立っていた。


「大丈夫、大丈夫。ちょっと踏ん張り切れなかっただけだ。しかし、これは骨が折れるな」


 巨人はさほどダメージを受けているように見えなかったが、怒りを掻き立てられ狂暴になっていた。四本の腕で地面を叩き、掴み、土塊を放り投げてこちらを仕留めようとしてくる。


 僕は一度鉤爪に捉まりかけて、大きく服を切り裂かれてしまった。一度、鋭い小石が額にぶつかり、血が流れるのを感じた。僕は致命傷を避けるのに精いっぱいで、攻撃する隙を中々見つけられないでいた。


 しかし、そこで加勢があった。猫たちだ。


 大挙して草地を駆ける和毛にこげの群は、先程まで敵の歩兵と戦っていた友軍の一部に違いなかった。巨人と敵主力との合流を防ぐために、別動隊として振り分けられたのだろう。


 数百倍はあろうかという体重差をものともせず、巨人の腕や脚に取りつき、這い登り、小さな口でかぶりつく。危険な攻撃は素早く躱し、振り落され、払い除けられても再び果敢に向かっていく。


 それでも、猫たちが巨人を攻略するのは困難なように見えた。いかに牙や爪が鋭くとも、分厚い毛や皮膚や脂肪を貫くには長さが足りない。巨人が煩わしさを無視して歩を進めれば、猫たちにそれを押し止めることはできない。


 巨人を斃すには長い牙がいる。骨や内臓に届く、もっと長い牙が。


 僕はアタマウスの剣を握る手に力を込めた。


 しかし四本の腕と二本の脚がほとんど見境なく振り回されている現状、いつ不意の一撃を喰らってもおかしくはない。


 命が惜しければ撤退すべきだ。先程とは違って、百匹の猫が巨人の気を引いている今、逃げるのは難しくない。


 でも、それからどうする? 


 僕がここで逃げれば、遅かれ早かれ巨人は味方の部隊に殴り込み、滅茶苦茶に人を殺すだろう。もし守備隊が全滅すれば、ウルタールの陥落は確実だ。仮に僕たちだけでも敵の手から逃れ、旅を続けたとして、同じような困難に遭遇しないという保証はない。


 そうなったらどうする? また逃げ出すのか?


 嫌だ、と僕は思った。


 剣の魔性で、闘争の熱狂で、異常な体験を繰り返した混乱で、僕の判断能力はおよそ信頼のおける状態ではなくなっていた。それでもやはり僕は、今このとき、逃げるのは嫌だと強く思った。


 僕は巨人を殺そうと決意した。


 アタマウスの剣を下段に構えて、一歩、二歩、三歩と前に進む。巨人の拳や足で蹂躙された大地を蹴って走る。すり潰された草の匂いと、流れ出した血の臭いと、極度に興奮した生き物が発散する、わずかに苦いような臭気の中を駆ける。


 頭の五センチ上を、鉤爪の先端が音を立てて通り過ぎた。


 僕は大股を開いた巨人の足元に転がり込み、アタマウスの剣を振りかぶった。アキレス腱を狙って切断するなどという小賢しいことは考えなかった。足首ごと輪切りにするつもりで、全力の刃を叩きつけた。


 月棲獣のたるんだ身体とは、また違う手応えがあった。煮固めたような皮が刃に抵抗し、密度の高い筋肉が刃を咥えこみ、石柱よりも堅牢な骨が刃をへし曲げようとした。


 しかしアタマウスの剣は一片の慈悲もなくそれらを切り裂いた。斬撃が足首を通り抜け、剣を振った先に血しぶきや骨片が舞った。


 すぐさま、自重を支えかねた脚が切断部分からボキリと折れた。巨人が苦痛の咆哮を吐き散らしながら上半身を大きく傾がせる。危険を察知した猫たちが飛び退き、一斉に離れていった。


 僕は巨体の下敷きになるのを避けながら、自分を捕らえようとする指をまとめて斬り払い、伸ばされた腕を二本刎ね飛ばし、地面近くまで下りてきた喉元に迫った。


 そして僕はアタマウスの剣を振り上げた。巨人が黄色く濁った眼球でこちらを睨み、悍ましい口に生えた牙をがちがちと鳴らす。古代王国で断頭台に乗せられた罪人も、こうやって最後の悪態をついたのだろうか。


 僕は両腕に力を込めて、アタマウスの剣を振り下ろした。

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