滴水古書堂
私があの男、古戸時久と出会ったのは、大学四年生のときだった。
その夜、私は卒論発表会の打ち上げを終え、大学のある四ツ谷から、実家のある横浜まで戻ってきていた。東京の下宿はまだ引き払っていないが、すぐそうすることになるだろう。とはいえ、まだ母とじっくり話し合ったわけではないけれど。
この時点で、私は春からの進路を決めかねていた。正確には、迷っているうちに、真っ当な選択肢を採れる時期を逸してしまっていた。
大学の心理学科に所属する私が取り得た進路は、おおまかに二つ。一つは院に進んで研究を続け、心理専門職――大抵の場合はカウンセラー――を目指すというもの。もう一つは、学部の新卒者としてそのまま企業に就職するというもの。
しかし院試は半月前に終了しているし、そもそも私は出願してすらいなかった。就活生はもうほとんどが内定を得て、大抵の企業も新卒の採用を終えていた。
今からハローワークや就職エージェントを利用するという手もあるにはある。けれど、進学するにせよ、就職するにせよ、私にはそのどちらも選べないほどの迷いが、ごくごく個人的で茫洋としてはいるが、ほとんど強迫観念に近いような迷いがあった。
私に、社会でまっとうに生きることができるのだろうか。
たとえば、診断がつくような身体的・精神的疾患があるとか、極端にコミュニケーションが苦手であるとか、社会的なマイノリティとして差別を受けているとか、そういう事実は、自覚する限りない。
勉強は昔から人一倍できたし、中学から続けた空手は二段の腕前だし、いじめを受けるようなことも、大きな人間関係のトラブルもなかった。
ではなぜ、と聞かれてもうまく答えられない。自分でも詳しくは分からないのだ。ただ、表面だけを取り繕って、社会的な身分だけ手に入れたとして、その生活がすぐ破綻するだろうという予感だけが、私の精神と行動を強固に縛っていた。
奇妙に思い悩む不詳の一人娘を心配した母親は、ごく温かい態度で、一旦実家に戻り、ゆっくり今後について考えてみてはどうか、と提案してくれた。
申し訳ないと思いつつ、私はその勧めに従い、ほとんど用のなくなった大学から、生まれてから高校時代までを過ごした横浜へと、逃げるようにして帰ってきたのだった。
そういう経緯を思い返しながら、私は人気のない商店街を歩いていた。
京浜急行線で横浜駅から十分と少し。古い街ではあるが、この商店街は少しずつ店舗を入れ替え、今でもそこそこの活気を保っている。
しかしそれは昼間の話だ。今は終電の時間も過ぎた真夜中。道に住宅が面していない分、明かりも音も少なく、あたりには耳に染みるほどの静寂が満ちていた。
商店街を途中で外れ、私は川沿いの道を歩いていく。分厚い雲からはみぞれが降り始めていた。
そして自宅まであと数百メートルという場所で、私はそれと遭遇した。
黒いニット帽と、これまた黒いダウンジャケットを着た男が、小さな横路から飛び出してきたのだ。
不審な男はすぐに暴漢だと知れた。彼は有無を言わさず距離を詰めてきて、私に組み付こうとした。
街中で起こるような喧嘩や襲撃、その他の暴力的な犯罪において、互いの体格や技術は、さほど結果に影響しない。どちらかといえば、相手を傷つけることにどれだけためらいがないか、ということがしばしば重要な要因になる。
だからこのとき、私が男を倒したのも、ごく自然な成り行きだったと言える。
私はいきなりの襲撃に不意を突かれたが、暴漢の両手に掴まれるコンマ五秒前、右腕を折りたたんで、下から上へ、肘で相手の顎を打った。人体の固い部位同士がぶつかる、鈍い音が響く。
想定外に強力な反撃を受け怯んだ暴漢から、私は一歩距離を取った。相手が動揺から復帰する前に、右足の甲で思い切り金的を蹴り上げる。
暴漢の口から声にならない悲鳴が漏れた。間髪を入れず、私は前かがみになった相手の頭を掴み、鼻のすぐ下、人中を膝で蹴り上げた。
男が仰向けに倒れる。着地した私は、そのまま相手の胸が真下に来るよう立ち、やや腰を下ろして拳を自分の胸に引きつけた。
試し割りの瓦みたいに、胸骨を砕いてやる。残忍な興奮が私の脳を濡らしていた。
「待った」
しかし私が拳を振り下ろそうとしたとき、背後からやけにのんびりした声が響いた。
「近所で殺人事件は勘弁してほしいなあ」
その声を聞いて、私はようやく正気に戻り、動きを止めた。
今、自分は何をしようとしていた?
脳と筋肉に集中していた血液が体表に戻り、私は頬や耳が熱くなるのを感じた。闘争の興奮は急激に引いていき、私は男を傷つけたのが自分自身であるのにも関わらず、その容赦のなさに恐怖した。
見下ろせば、暴漢は完全に気絶していて、鼻からは大量の流血がある。歯も何本か、砕けるか折れるかしているだろう。
やってしまった。どう考えても過剰防衛。下手をすれば傷害致死。
声をかけてきた男が肩を触るまで、私は動けないでいた。振り返った私は、さぞひどい顔をしていただろう。
しかし、その男もその男で、尋常の姿をしていなかった。
街灯を背後から浴びた男のシルエット。その右半身にあたる部分が、奇怪に蠢いていたのだ。それは風による衣服のはためきや、筋肉の運動ではありえない。不定形のアメーバがなんらかの刺激に反応するような、名状しがたい動きだった。
「ああ、失礼」
男は私の目線を察知して言った。
「たまにこうなるんだよね。殺気にあてられたりすると」
やがて蠢きは小さくなり、完全に収まった。
「……帰らないと」
それだけ言うのがやっとだった。男の奇怪な姿に驚く余裕もないほど、私は動転していた。
「そんな顔で家に帰ったら、親御さんも驚くよ?」
それから男は、倒れている暴漢を完全に無視してしゃがみ込み、私の右膝に刺さっていた暴漢の歯を抜いた。
「僕の店がそこにあるから、少し休憩していきなさい」
男は私の返事も聞かずに手を取り、アーケードの方向に歩き始めた。男の右半身はもう、普通の人間となんら変わらない姿になっていた。
私の言えた義理ではないが、重傷の暴漢を一顧だにせず、警察を呼ぼうともしないこの男も、かなり頭がおかしいのだ。たとえ、先ほどの姿が見間違いだったとしても。しかしそのことを私が冷静に考えられるようになるのは、ずいぶんあとになってからだった。
◇
男の店は、私の家から商店街のアーケードを挟んだちょうど反対側にあった。
一見すると、築数十年の古い住宅にしか見えないが、玄関には表札の代わりに、〝滴水古書堂〟と書かれた、小さな木の板が掛かっていた。
こんな場所に古本屋などあっただろうか。少なくとも、私の記憶にはなかった。もっとも、気をつけなければ店だとは分からないから、ただ見過ごしていただけかもしれない。
男は鍵の締まっていない引き戸をガラガラと開け、店の内部に私を招いた。
電気がつけられると、そこはせいぜい十二畳ぐらいの小さな店舗であることが分かった。壁際に本棚が並んでいるせいで、余計に狭苦しい。
置かれている本は、どれも古めかしい。古本屋だから当たり前ではあるのだが、ただ中古の本を扱っているというわけではないようだ。
漫画どころか文庫や新書のたぐいすらなく、本棚にあるのは、名前を聞いたこともない人物の全集、手記、書簡。立派な革の、あるいは革なのかどうかよく分からない装丁の本。英語やラテン語、私の知らない言語で題名が書かれた本。題名のない、まったく素性の知れない本。
ここは普通の流通から弾き出されたような書物を寄せて集め、販売というよりも、静かに眠らせてあるような場所だった。
「そこ、座っていいよ」
男は旧式の電気ストーブをつけてから、店舗の一角を指差した。本棚の陰になったそこには、ほこりっぽい布張りのソファが置かれていた。
私は言われた通りにソファへと腰かけ、電気ストーブで足を温めた。男は店の奥にあるカウンターの、さらに奥へと引っ込んだ。多分、そっちは住居になっているのだろう。
私はざらついたコンクリートの床を眺めながら、そのまましばらくぼーっとしていた。先ほど、自分がしようとしていたことの意味を考える。
幼少期に遭遇した父親の死。それはいまだ消化も整理も不可能なものとして、精神の奥底に沈んでいる。そしてときおり危険なガスを発生させて、意識と理性の水面に波紋を生じさせる。いわゆる外傷体験と言われるものの存在。
しかし本当にそれだけなのだろうか? 私の人格と、トラウマは分離できるものなのだろうか。私自身の性質として、人を傷つけること、死に惹きつけられることがありはしないだろうか。
私は自分が精神病質者だとは思いたくなかった。しかし普通の社会的存在として生きられるとも思えないのだった。
だから私はどこにも行けず、自分の進路も選べない。暗い路地で人を傷つけ、責任も取らず逃げてきた。
やがて男は奥の扉を足で開け、店舗に戻ってきた。その両手には湯気を立てるマグカップ。男は私に一つを手渡した。ココアの匂いがする。
「……さて」
男は自分のマグカップをカウンターに置き、自身はその裏にある椅子かなにかに腰かけた。
「君の名前は?」
「楠田由宇子です。理由の由に宇宙の宇」
「僕は古戸だ。古戸時久」
古風な感じのする名前だった。私は白いマグカップから、熱いココアを一口飲んだ。
ほんの少し落ち着いた私は、改めて男の容姿をまじまじと観察した。
今はカウンターの後ろに隠れてあまり見えないが、男は白衣のようなものを身に着けていた。カールしてだらしなく伸びた髪の下には、レンズの分厚い黒ぶちメガネがある。その奥にある瞳は、生命や活発さを感じさせない暗い光を湛えていた。
彫りの深い顔立ちではあるが、美男とはとても言い難い。頬や顎に薄い髭がまばらに生えていて、身なりに気を使ってないことが一目で分かる。
身長は169センチある私より少し高いが、多分体重は私より軽いだろう。肌は不健康そうな土気色である。年齢は三十代半ばぐらいだろうか。
男は私の不躾な視線を気にする風でもなく、カウンターで何やら作業をしはじめた。どうやら外国語の本を翻訳しているようだ。
沈黙に耐えかねた私は、さきほどの凶行に対する言い訳をするように、自分の来歴や、迷いを語り始めていた。
「カウンセリングに行くべきだね」
男は相槌一つ打たず話を聞いたあと、はっきり言った。
「でもそうしたくない理由があるんだろう。アレは問題によってかなり長引くしね」
「しばらく実家でどうするか考えようと思うんです。バイトでもしながら」
「ふぅん。せっかくだから、ここで働くかい。運転免許ある?」
「あります」
「WordとExcelは?」
「使えます。PowerPointも」
「パワポは別にいいや。自活できるほどとはいかないけど、親御さんをひとまず安心させられるぐらいの時給も出そう」
こんな古本屋に、バイトを雇う程の仕事があるのだろうか? しかし、こういう落ち着いた場所で、自らを省みる時間を持つのもいいだろう。店主はおそらく変人で、もしかすると人間ですらないかもしれないが、嫌になったら辞めればいいのだ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「これで求人を出す手間が省けた。寒い中散歩してみるもんだ」
こうして、私は古戸時久と出会い、滴水古書堂で働くことになった。しかしここでの仕事が落ち着いた、楽なものだと思っていた私の考えは、結果として大いに間違っていた。




