初恋が実るとき
「え?」
当たり前にあると信じていた未来がぽしゃんと消えた。
あまりにも強烈な現実に、シリルはただただぽかんとした顔をする。そして、その現実をもたらしたウィンストン公爵ジェレミーを信じられない思いで見上げた。
シリルの母アニエスとジェレミーは仲の良い従兄妹同士。だから、これは悪い冗談で、すぐに笑顔で違うよと否定してくれることを祈って。
「申し訳ない。あのクソ陛下がどうしてもと頭を下げるから、受けざるを得なかった」
ジェレミーがシリルには滅多に見せない忌々しそうな顔で、下品にも舌打ちをする。その様子に、現実だとシリルの頭が理解して、勝手にぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「どうして? エメライン、僕と結婚するって。そう約束したのに」
「シリル、すまん! 殴ってもいいから、泣かないでくれ! おじさんは君の涙には弱いんだよ」
ジェレミーは慌てて、静かに泣くシリルを慰めた。
「シリル、泣くのをやめなさい。貴方はもう十歳なのよ。八歳のエメラインが好きでもない相手と婚約しなくてはいけないのだから、あなたが泣いてどうするの」
「だって」
母のアニエスに諭されても、納得できない。シリルはエメラインよりも二つ年上であったが、男子の中ではとても小さくて、力が弱かった。コンプレックスばかりのシリルができることから頑張ろうと思えたのは、年下なのにお姉さんの顔で励ましてくれるエメラインがいたから。
大好きなエメライン。
だからジェレミーに聞いた。エメラインとずっといっしょにいるにはどうしたらいい、と。
貰った答えは、いずれ公爵になるエメラインに相応しい男になること。そしてエメラインに愛してもらう事。その二つが揃えば結婚できる、と。
だから、可能な限り頑張ってきた。勉強も魔術も剣術さえも、今できることよりも少しでも先を目指して。その成果も目に見えてわかるようになり、エメラインと競うように様々なことに励んでいた。
それなのに。
エメラインが急に手の届かないところに行ってしまった。
「それにしても、陛下も随分とごり押ししたものね。第三王子は側室の息子でしょう?」
「エメラインと同じ年だが、正直相性が悪い。あのクソガキ、エメラインにまあまあな顔だが、役に立つようだから側にいることを許してやるとか何とか言いやがって」
顔合わせの時を思い出したのか、ウィンストン公爵はぎりぎりと歯ぎしりする。
「さっさとシリルと婚約を結んでおけばよかったよ」
「結んでいても無理じゃないかしら? うちは子爵家だから、王命を下されたら引かざるを得ないわ」
そうため息を吐くと、アニエスはシリルの頭を優しく撫でた。
「側室も傲慢な女だが、息子はそっくりだ。あんな男を婿になんて迎えたくない」
「側室様ねぇ。確か隣国の国王の姪でしたか? あまり表に出てこないから知らないのだけど」
「あまりにもひどすぎて、陛下が表に出ないようにしているらしいな。私も顔合わせの時に初めて知ったよ。あんな母子であると知っていたら、もっと抵抗したのに」
シリルは大人たちの会話を聞いていて、涙をぬぐった。
「ジェレミーおじさん、エメラインの婚約が白紙に戻る可能性はないの?」
「なくはないが……この婚約は王命だ。白紙になる可能性は低い。相性が悪くても、結婚するのが貴族の結婚だ」
「そうなんだ」
がっかりしたシリルは俯いた。だがすぐに顔を上げる。
「エメラインは幸せになれるの?」
「どうだろうな。あの王子だと難しいだろうな」
難しい顔でジェレミーが告げる。まだ結婚するまで十年もあるというのに、幸せになれそうな欠片も見つけられないらしい。シリルはぐっと胸を反らした。
「じゃあ、僕はエメラインの支えになりたい」
「シリル?」
驚いたのはアニエスだ。
「そんな夫、エメラインを守ってくれないでしょう? だったら僕が守りたい」
「はは。それは頼もしいな」
「ちょっと、ジェレミー兄さま! シリルの道を狭めないでちょうだい」
アニエスはやや焦りながら抗議した。ジェレミーは彼女の抗議を流し、シリルの前にしゃがみこんだ。
「まずはもっと強くなれ。話はそれからだ」
「うん」
シリルは表情を引き締めると、頷いた。
◆
エメラインと会えなくなってから、毎日がつまらない。
だが、シリルはあれから泣くことなく淡々とすべきことをしていた。エメラインを守れる男になるように、毎日牛乳を飲み朝日を浴びる。その効果なのか、あれから二年経った今、何とか平均まで身長は伸びてきた。もちろん知識も魔術もどん欲に身につけていった。エメラインのためと思えば、まだまだ足りないぐらいだ。
だが。
身長が伸びても、ひょろひょろしているのと、母親似の可愛らしい顔立ちが仇になって全然強い男に見えない。瞳を潤ませれば、可愛いもの好きの夫人たちが面白いほど釣れそうである。それは望んだ強さじゃない。
「体、鍛えたらどうです?」
鏡を見て、難しい顔をして悩んでいるシリルにアドバイスをしたのは護衛騎士の一人だった。
「鍛える? 今のやり方と、どう違うの?」
「坊ちゃんが今習っているのは、魔術師として最低限の剣技。そうじゃなくて、騎士の訓練を行うんです」
魔術師と騎士の訓練が異なることを初めて知った。びっくりして目を瞬く。
「騎士?」
「ええ。全然やり方が違います」
「なるほど。じゃあ、明日から訓練に混ざるよ」
素直に頷くと、シリルは翌朝から騎士たちに混ざった。騎士たちは驚きながらも、シリルの本気を感じ取った。
「ぼっちゃん、応援しますぜ」
気のいい護衛達がシリルを応援し、あれこれと世話を焼く。まずは体力をつけるための運動から、そして徐々に筋力をつける運動へと。剣の素振りも忘れない。習っていた剣技よりもより実践的な訓練だ。
そんなことを始めて二年。二年前よりもはるかに体はがっしりしてきたが、それでも騎士たちと比べると、まだまだひょろい。騎士と同じ訓練をしていれば、希望する筋肉がつくかと思っていたが、そうではなかった。引き締まった体にはなったが、筋肉の盛り上がりが足りない。
原因を考えていた時に、父と兄を見て気が付いてしまった。完全に血筋によるものだった。
「そういえば、公爵家の騎士団の連中に聞いたんですが、エメライン嬢ちゃん、筋肉質な男が好きみたいですよ」
「そうなの?」
「公爵様があんまりいい顔しないから、出入りさせていないようだけれども、時々こっそり騎士団の訓練を覗きに来ているみたいです」
「騎士団の訓練……もしかして、エメラインに会える?」
たまたま騎士団にエメラインが来ているのなら、話すチャンスがあるかもしれない。そんな期待がシリルの中に生まれる。
「それはどうでしょう? あくまでこっそりとなんで」
「そうか……。でもエメラインに会いたいなぁ」
エメラインが王子と婚約してから、本当に会っていない。いつもは相応しい男になるまで、と自分に枷をつけていたが、会いたいと思ってしまうと気持ちが爆発しそうになる。泣かないようにと険しい顔をして俯いてしまったシリルを見て、護衛は提案した。
「ちょっと公爵家の騎士団へ見学に行きませんか? 将来の選択肢の一つとして、下見は重要です。それで、たまたまエメライン嬢ちゃんに会ってしまっても仕方がないと思いませんか?」
「い、いいのかな?」
「挨拶は常識ですからね」
エメラインに会える。
そう考えたら、シリルの体中がかっと熱くなった。
「おーお、純愛。シリル坊ちゃんの気持ちが届くといいですねぇ」
やんややんやと護衛達にからかわれて、シリルは不機嫌そうに唇を尖らせた。
「はは、坊ちゃんがそういう顔をしても、可愛いだけですって」
「うるさい! ちょっと黙んなよ」
「それでどうします? 見学、申し込んでおきましょうか?」
シリルはもちろん、と頷いた。
「でも、僕、騎士団に入れるかな」
シリルは自信なさげに、ぽつりと呟いた。
公爵家の私設騎士団は領主に課せられた義務だ。子爵家は元をたどれば公爵家の四男が起こした家。代々、公爵家の縁者と婚姻を繰り返していて、仕えている。公爵家にはこうした貴族家がいくつかあるのだが、子爵家は騎士としてよりも、文官として仕える一族だ。現在、公爵家の領地の一部を代官として治めている。
体格だけは血筋の問題もあって、シリルはため息をついた。
「確かに坊ちゃんは騎士になるには、まだまだ体が小さいと思うが」
「だが、これがあれば心配ない」
そう言われて、差し出されたのは怪しい食べ物。
シリルの小さい手よりも大きいどす黒い紫色。しかも所々赤い斑点がある。表面はぼこぼこと突起が沢山ついている。その突起一つ一つが目のように見えて、気持ち悪い。
正直に言えば受け取りたくない。手に持ったら、何か叫び出しそうな雰囲気さえある。
だが、シリルの怯む気持ちを無視して、騎士が強引に手渡してくる。
「……何、これ」
「ぐんぐんと伸びる! あなたもこれでプラス二十センチ! という謳い文句の魔果物! 口の中に残るトロっとした甘さが最初気持ち悪いですけど、慣れてくると美味いです」
「効果は抜群! 密かに騎士たちの間でブームなんですよ。成長期の坊ちゃんなら余裕で、ぐんぐん伸びますって!」
護衛達は口々に魔果物の効果を伝えてくる。どれもこれもシリルが喉から手が出るほど欲しい効果。じっとりとした目で護衛達を見やった。
「その効果、本当?」
「うおおう、もしかして、すごい疑いの目を向けられている!?」
「こうして、ちぎって食べるんですよ」
シリルの持っている魔果実の突起を引っ張ると簡単に取れる。表面が毒々しい色をしているのに中は白い。しかも果肉が白なのに、溢れ出す果汁はどろりとした赤。見た目だけではなく、中身も気味悪い。
「一人では不安でしょうから! 俺達も食べます」
「ほらほら、坊ちゃんもちぎって」
護衛達が次々にちぎっていく。突起をはがされた魔果実は目をえぐり取られたような感じになってこれまた気持ち悪い。護衛達はにこにこと、それを口に運んだ。
「お、熟れていて旨いです。筋肉にビンビン来ますね!」
実際に筋肉が震えている。他の護衛達も同じようになっていた。
「お前たちがわざと筋肉を震わせているだけじゃないのか?」
「違いますって。自分で筋肉を動かすと、こうですよ」
実際に腕を差し出し、力拳を作って見せる。確かに魔果実を食べた時の動きとは異なる。シリルは眉間にしわを寄せた。
「成長期で食べるのが一番効果がデカいんですよ。ほら、ぼっちゃん、あーん」
あーん、と口元に差し出されて、護衛達を睨む。
「もし効果がなかったら、みんな、夕食の一品、抜きにするから」
そう言って、目をつぶって差し出されたそれを口の中に入れた。舌の上にべっとりと纏わりつく甘さ。爽やかさの欠片もないそれを何とか呑み込む。
「どうです?」
期待に満ちた騎士たちの視線にシリルは首を傾げた。
「特に変化はない、かな?」
「はは。効果はもう少し時間が経たないと。でも、こう体の中からカッと来る何かを感じませんか」
「言われてみれば……体がなんかむずむずする」
その日の夜からシリルは成長痛で苦しむことになった。
◆
「やあ、シリル。久しぶりだ。随分と大きくなって」
公爵家を訪問すると、すぐに公爵が現れた。こちらの予定を気にしていてくれたのか、にこにことしている。
「お久しぶりです、閣下」
「閣下!? 何で、そんな呼び方……。前のようにジェレミーおじさんと呼んでほしい」
可愛がっていた従妹の息子に畏まった呼び方をされ、ジェレミーが崩れ落ちた。この世の終わりのような様子に、シリルは渋々言い直す。
「――こんにちは、ジェレミーおじさん」
「そうそう、それでいいんだよ。ああ、びっくりした」
そう言いながら、シリルに付いてくるようにと促す。騎士団の見学のはずでは、と不思議に思いながら廊下を歩き、さらにその先にある奥の庭へと向かう。シリルはこの先にあるガゼボを思い出した。まだ幼い頃、エメラインと楽しく遊んだ記憶が蘇る。エメラインは年上のシリルを女の子と間違えていて、よく人形遊びやままごとに付き合わせていたのだ。
過去の記憶に浸りながら、歩いていくと。
「エメライン」
木々の隙間からエメラインが見えた。
久しぶりに見るエメラインはとても可愛くなっていた。四年ぶりだから、彼女は今十二歳。以前よりも体が大きくなり、すらりとした。顔立ちもすっきりとして、幼さが抜けている。
あまりの感動に、シリルは動けなかった。瞬きもできず、ただただエメラインを凝視する。声を掛けようと、一歩踏み出したところで、ジェレミーがシリルを制した。
「おじさん?」
「しっ。静かに」
ただならぬ様子に、シリルは素直に従った。ジェスチャーに従ってエメラインだけではなく周囲の様子を伺えば。
一人の尊大な態度をとる男がいた。エメラインと同じ年齢ぐらい。仕立ての良い服には王族だけが使える色が入っている。顔立ちはとても整っているが、浮かべる表情が醜悪に見せていた。
「誰、あれ?」
「最悪なことにエメラインの婚約者だな」
小さな声で呟けば、ジェレミーがそう説明する。話は聞いていたが、第三王子であるキャメロンを見たのは初めてだった。
「……王族なのにバカっぽい」
「ぽいじゃない、バカなんだ」
「今日はお茶会ですか?」
「いいや。金の無心に来たんだろう」
「え?」
金の無心。
信じられない単語を聞いて、唖然とした。隣に立つジェレミーを見上げる。彼は視線を二人からシリルに向けた。驚きに目を見開いているシリルを見て、苦笑する。
「あんなにも小さいのに、金が足りないんだそうだ。側室は予算以上を散財しているから、王子にまで回ってこないんだろう」
「いや、だからってエメラインに集るのも、違うんじゃないですか」
「そういう感覚がないんだよね、あのボンクラ」
ジェレミーにしてもすぐに婚約破棄したいところだが、王命ではなかなか難しい。シリルはどうにもできない自分の無力さに唇を噛んだ。
ここで覗いていても何もできない。
ジグジグとした痛みが胸を襲い、ジェレミーがもう行こうかと促したところで、大声が聞こえた。その声に驚いて、二人の方へと顔を向けた。
目に飛び込んできたのは、エメラインに手を上げるキャメロン。シリルは慌てて弱い風魔法をキャメロンに向けて放つ。弱い風はごく自然の風として彼の顔に当たり、バランスを崩す。
多少勢いが逸れたおかげで、エメラインは彼の手を避けることができた。だが、避けたことで彼の怒りに火をつけたようで顔を真っ赤にしながら、怒鳴りつける。
「貴様、避けるな! お前は私の申し出に逆らったんだぞ! 罰を受けろっ!」
「そんな理屈、通ると思うのならば、陛下からの書状を父に渡してくださいませ。そもそもわたくしに申し出られても、困ります。家のお金を自由にする権限などありませんので」
至極冷静にエメラインは説明する。ぐぬぬとキャメロンが悔し気に顔を歪めた。
「貴様が父親に一言、言えばいいだけだろうが」
「ムリですわ。わたくしの買い物はすべて屋敷で行われますもの」
許可のない買い物などできない、とエメラインが首を振った。
「役立たずが! 今日はこれで帰る!」
そう乱暴に言い残して、キャメロンは立ち去った。一部始終を見ていたシリルは憎しみが腹の底から込み上げてくるのを自覚した。激情を押さえるために、拳をぐっと握りしめた。
なんだ、あの男は。
「あの男、消したい」
色々な黒い感情が渦巻いて出てきた言葉は、とてもシンプルなもの。そして、シリルはあの男を消すための手段を考え始めた。
「本気か?」
「当然です。エメラインにあんな態度をとるなんて許せない」
ジェレミーの声が少し変わったことにシリルは気が付かなかった。ただ自分の中の怒りに囚われていた。
「方法はなくもない」
ぽつりと呟かれた言葉。シリルはハッとして顔を上げた。
「それはとても過酷な訓練が必要だ。普通の覚悟では乗り越えられないだろう」
「それでも」
エメラインをあの男から解放できるのなら。
どんなことだって、やり切って見せる。
覚悟の目を向ければ、ジェレミーは目を細めた。
その後、騎士団ではなく影と呼ばれる公爵家の暗部へ預けられた。訓練は非常につらかった。
だが、極めたらエメラインの側に行ける。
その思いだけが支えだった。
そして。
暗部の一員となり、数いる先輩同僚後輩たちを蹴散らし、エメライン付きの護衛をもぎ取った。
もちろん、エメラインはシリルの存在に気が付いていない。それでもいつも側にいることができる、それはとても幸せな時間だった。
護衛となった日の感動は今でも忘れない。そして、先輩同僚後輩たちのちょっと引いた目も。もちろんしっかりとシメておいた。
◆◆◆
懐かしい夢の中をふわふわと漂っていると、愛しいエメラインの声が遠くから聞こえてきた。
少し幼さを残す声ではなく、しっとりとした女性の声。
その声がとても心地よくて、シリルは再び夢の中に沈み込む。
「シリル、起きて。ここで寝てはダメよ」
先ほどよりも強めに声を掛けられて、うっすらと目を開けた。真っ先に見えたのは、覗き込むエメラインだ。夢の中でも夢から目覚めても、愛するエメラインがいる。こんな幸せはないと微笑んだ。
「ああ、女神がいる。いつも君を愛しているよ。昨日よりも今日よりも明日の方が愛している」
「ありがとう。それよりも、いつ帰ってきたの?」
「ん? ちょっと前……声を掛けたけど客人が来ていると聞いて待っていたんだ」
エメラインは呆れたような目を向けた。今回の視察は十日ほどの予定だった。一緒に出かける予定だったエメラインの具合が悪くなって、一人で視察してきたのだ。心配のあまり、色々な予定を圧縮して、戻ってきた。随分と無茶をしたので、体は疲れているし、眠気もまだある。
「予定では二日後だったでしょう? 無理に急いで怪我をしてほしくないわ」
「だってエメラインが心配だったから」
「わかっているわ。でも、わたくしだってシリルが心配なのよ」
わかってほしいと訴えられて、シリルは視線をうろつかせた。そして、重い腕を持ちあげて、彼女の頬に触れる。そしてそのまま首の後ろに回し、引き寄せた。
エメラインは仕方がない人、と言いながらも屈みこんでキスをくれる。
「はい、おしまい。こんなところで寝るよりも、ちゃんとベッドに入って」
「うん、エメラインも一緒に行こう」
「もう! 違うでしょう? 夕食まではゆっくりして」
心配のあまり、目を吊り上げているエメラインを見て幸せだと胸の中が温かくなる。エメラインの両腕を素早くつかみ、自分の上に引き倒した。逃げないように、すかさず抱きしめる。
「シリル!?」
「体温、気持ちいい。何もしないから、一緒にいてほしいな」
「一人の方がよほど休まるのに」
困った人だと言いながら、エメラインの体から力が抜ける。その重みを全身で受けた。彼女の髪を指で遊びながら、そういえば、と呟いた。
「来客、誰?」
「先生よ」
「先生?」
エメラインに先生と呼ばれる人は、一人しかいない。高齢の女性医師だ。シリルは瞬時に目が覚めた。エメラインを抱きしめたまま、上体を起こす。突然の行動にエメラインがキャッと小さく声を上げる。
「どこか具合が悪いのか!? 病気なら、すぐベッドで休まないと!」
おろおろし始めたシリルに呆れた目を向けてから、エメラインは狼狽えるシリルの両頬をぎゅっと摘まんだ。
「落ち着いて」
「だって」
変な声で返事をすれば、エメラインはシリルの顔を覗き込む。真正面から目を合わせると、にっこりと笑った。
「病気じゃないわ。赤ちゃんができたのよ」
「赤ちゃん……えっ!?」
確かに仲の良い夫婦だ。夜だっていつも一緒で。当然と言えば当然の結果である。しばらく放心した後、シリルは情けない顔になった。
「どうしよう。嫁に出せる自信がない」
「気が早すぎるわ。まだ性別だってわかっていないのに」
すべてをすっ飛ばしているシリルにエメラインは笑った。シリルは眉間にしわを寄せる。
「そうかな? だってすごく予感がしないかい?」
「まあ、奇遇ね。わたくしもそう思っていたところよ。ハアナは勘違いして、随分と早くにわたくしの所に来てたのね」
「自分の母になるエメラインを守りたかったんだろう」
「そうね」
エメラインは愛おし気にまだ膨らみもない自分のお腹をそっと押さえた。
底抜けに明るい花子がどんな娘になるのか。楽しみでもあり、不安もある。
「筋肉好きなのは間違いないと思うよ」
二人の脳裏には花子が嬉しそうに笑っていた。
Fin.




